第28話
夕刻のうす明かりのなか、もとの岩かげにもどると、わたされた毛布をかぶったまま、レイスはうとうとしていた。足音に気づいて体を起こし、わずかに顔をしかめる。
「頭、いたい?」
くんできた水を置き、火をおこす。火種を作るのはレイスにやってもらい、わたしはそのあいだに、岩かげに風よけの荷物をつんだ。水でわったワインをあたためてわたし、手で熱をはかると、さっきよりも熱い。
「毎日毎日、無茶するからよ」
レイスはしばらく、だまってワインをのんでいたが、やがて立ちあがった。
「ちょっと、どこにいく気?」
声を荒げてはみたものの、答えはわかりきっていた。小屋までおりるのだ。乳をしぼらなければ、牝牛は病気になってしまう。ここまで来るあいだの道のりをおもい、わたしは顔をしかめた。あの風の中を飛ぶのは、実はそうとう疲れる。体が冷えるのだ。それを、今から往復するなんて。
わたしはレイスの背中に毛布をほうりなげ、さらに自分の荷物のなかから、二枚の馬用毛布も出して押しつけた。
「かぶっていきなさい。じゃないと死ぬわよ。肺炎になるわよ」
いやな顔をするかと思ったけれど、レイスは何もいわなかった。それをいいことに、わたしはレイスの体に毛布をまきつけ、荷物のひもでぐるぐるまきにした。かなりみっともない姿になったけれど、気にする余裕もないのだろう、レイスはされるままになっていた。そして、その姿のまま、シファと飛んでいった。
夕暮れの谷に、しんとした静けさがもどる。
一人になったわたしは、ふたたび、火のそばにうずくまった。
しだいに暗くなっていく森に、一人でいるのは、さすがに少し怖い。レイスが帰ってきたら、あたたかい食べものがいるはずだと考え、パンがゆでも作ろうとおもったけれど、ミルクがない。結局、火の番だけをする。
夕闇はしだいに深まり、濃い群青色の空に、青い岩山がそびえている。山並みは清らかであると同時に猛々しく、ごつごつとしたその色も形も、おそろしいほどにあざやかだ。わたしは思わず、ぶるりとふるえた。山も、森も、なんて大きいのだろう――。
やがて、日が落ちた。広い森はそのまま果てのない暗闇となり、木々のむこうに、ほの白い山塊だけが、はるかに大きく浮かびあがる。谷間は暗く、道も岩も黒く、明るいのはただ、わたしがいる炎のまわりだけ。
「――ああ、いや。こんなところに一人でいたら、頭がどうにかなっちゃうわ」
せめて月でも出ていればいいのに、空には雲がひろがって、星影もまばらだ。最後の残照に照らされていた山々も消え、もう、どこまでも深い闇以外、何も見えない。
「だめよ、こわがっちゃ。こんなの、ただの夜じゃない」
声に出して自分を叱ってみても、考えずにはいられない。自分が今、世界をおおう闇の底にいることを。ここには誰もいない。馬鹿げて大きな、岩と山しかない。声をあげても誰にもとどかないし、悲鳴をあげても、耳にする人はいない。
まるで、耳も口もふさがれたまま、闇の底に閉じこめられたよう――
「――だから、駄目だってば! 誰もいないっていったって、ほんの数十マイルのことでしょう! それだって、レイスが帰ってくるまでの辛抱だし――」
情けなく語尾がとぎれたあとには、静けさだけがのこる。せめて、アレクをもっと近くにつないでおけばよかった。荷駄がいる草地は、今は闇の底だ。
「大体、レイスもひどいわ。こんな夜の森に、女の子一人を放りだしていくなんて。ふつう、もっと気を使わない?」
そりゃ、月が隠れたのはレイスのせいではないし、そもそも気を使えるような体調ではないから、わたしがここにいるのだけれど。
でも、考えてみれば、その風邪だって、レイスが自分でひいたようなものだ。きちんと休まないと駄目だって、わたしはちゃんと言ったのに。他人の言葉など、はなから聞く気がないのだから。
レイスはどうせ、この森も平気なのだろう。暗闇のなかに一人でいたって、怖いとも思わないにちがいない。
でも、そんなの、勇気とはいわない。一人でいることに、慣れすぎているだけだ。そもそも、今回のこの旅だって、どうして一人で出かけるわけなの? 七日もかかる山旅に、一人で出かけるなんて無茶だ。ペーテルだって、エステラだって、レイスを助けたいと思っているのに。ペーテルに山への同行を頼み、エステラに牛の世話を頼めば、それですむ話なのに。なのに、レイスはシファにしか頼らない。心配してくれる人も、手を貸してくれる人もちゃんといるのに、ぜんぶ、頭から無視するのだ!
だんだんと腹が立ってきて、わたしはそばにあった枝で、ぐいとたき火をつついた。
つまりは、これも、あれだ。あのどうしようもない小屋や、まずしい食事と同じ。レイスの、あの、ふざけた世捨て人気取りのあらわれなのだ。
レイスは人間と縁を切りたがっている。ペーテルやエステラとですら、できるだけ距離をおいている。そんなにまでして、どうして一人になりたいの? 心配してくれる友達なんて、そんな人、わたしには、一人もいやしないのに――
「……ああ、もう!」
まわりをかこむ夜闇を、わたしはにらんだ。
ここには、あたたかい部屋も、炉辺もない。伝えられる言葉も、さしのべられる手もない。冷たい風と、岩と木ばかり。なのに、レイスは平気なのだ。誰もそばにいなくても、むしろ、その方が好都合と言わんばかりに――
「――でも、それが偉いとか立派だなんてこと、絶対にないはずだわ。誰ともかかわらずに生きていくだなんて、そんなの、そんなの、ただの偏屈じゃない!」
わたしはいらいらと炎をつついた。
レイスとシファが空から舞いおりてきたときにも、その苛立ちは、おさまっていなかった。むしろ、さらに増していた。近づいてきたレイスに、わたしはいきなりかみついた。
「あなた、いくら人間嫌いだからってね、こんなところに一人でいたら、頭がおかしくなるわよ。熱だって出るはずだわ。出ないほうがおかしいわよ!」
全身を炎にてらしだされながら、こちらに歩みよってきたレイスは、一瞬、おどろいたようにわたしを見た。けれど、なにもいわずに腰をおろす。
――あ、そう。無視するのね? 長く待たされたわがまま娘の、ただのかんしゃくだと思ってるのね。わたしはさらに声をはりあげた。
「そもそもね、こんなこと、馬鹿げてるのよ。まともな人間の暮らしじゃないわ。まともな人間はね、夜、こんなふうに森の奥をぶらついたりはしていないの。ちゃんとした家で、友達や家族といるものなの! だいたい、今まで言わなかったけどね、あなたのやり方が、そもそもおかしいのよ! 自分では、さぞかし立派にやってるつもりでしょうけどね――」
いいながら、わたしは自分も、その、おかしな人間の一人になってしまっていることに気がついた。まともな友達も、家族もいないのは、わたしも同じだ。
――なのに。
「いったい、どうしろっていうんだ……」
レイスの反論は、いつになく力がなかった。体に巻きつけられた毛布をほどき、火のそばの地面に横になる。目のうえに腕をのせ、深く息をつく。
「そんなこと、わたしが知るもんですか!」
がみがみとわめき、わたしは新たな薪を、炎に突っこんだ。
「でも、なにかほかに、やりようがあるはずよ。なにかもっとましな、まともなやり方がね!」
レイスからの答えはなかった。じきに、すこし速い寝息が聞こえてくる。それを横目でにらみながら、わたしはがつがつと炎をつつき、ぱっぱっと意味もなく火の粉をちらした。
そうしながら、感じていた。
たき火のむこうに、レイスがいる。
それだけで、人の声が、ものいう気配が、この場所にもどってくるのを。
必要なものなのだ、それは。
くやしいけれど、必要なものなのだ。たとえ、どんなに気の合わない、いやな相手でも、暗闇をやぶる声が、話しかければ答える相手が――人間には。
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