第27話

 小屋の衣装箱から、レイスの服と毛布をひっぱりだし、食べ物と自分の馬用毛布もいっしょにまとめる。それをシファの首の下にくくりつけ、小屋の戸じまりをすませると、わたしはおそるおそる、すわっているシファの、白い後足に足をかけた。勢いをつけて背中に足をかけ、翼と翼のあいだにまたがってから、小声で言う。

「……いいわよ」

 狼はゆっくりと立ちあがり、ぶるりと軽く首をふった。

「では、いきますよ」

 そして――次の瞬間。

 目にうつるすべてが、どっと動いた。まるで巨大なブランコで、一気に崖から飛びだしたように。狼の背中が波打ち、白い翼が広がって、ぐん、と大きく打ちおろされる。ぐん、ぐん、羽ばたきはつづき、ぐん、ぐん、と翼がうなり、ぐん、ぐん、と狼の背中がゆすりあげられ、気がつけば、わたしは空中にいた。風に引かれる凧のように、ぐいぐいと引きずりあげられていた。木々のこずえが足の下に見え、崖のてっぺんが目の高さにあり、声も出せないほどの強風が、耳の後ろで引きちぎれていく。――何、これ、だめだ、くらくらする! わたしは空中でバランスをくずし、体と髪を風にあおられて、声にならない悲鳴をあげた。だめだ、落ちる! 吹き飛ばされる!

 と、体の下から、落ちついた声がひびいてきた。

「体をふせて、手をのばして。わたしの首につかまるんです」

 いわれるまま、ふるえる両手をのばし、ふかふかの毛皮に顔をうずめる。シファの太い首に手をまわし、かたい毛束をぎゅっとつかむ。

 すると、お腹からじかに、シファの動きが伝わってきた。さらにぴったりと体を押しつけると、羽ばたきにあわせて波打つ背中が、わたしを揺さぶり、ふり落とすものから、わたしを支え、持ちあげるものに変わる。――大丈夫。大丈夫だ。

 わたしはしばらく目を閉じ、それから、ゆっくりと体の力をぬいた。そのままそうっとまぶたをあけると、痛いほど強い、濁流のような風が、目にたまった涙を吹きとばしていく。顔を伏せ、視線だけをあげて、風の流れをやりすごす。そう――大丈夫。大丈夫。

 大きく一つ、息を吐きだす。耳元で、風がごうごうと鳴っている。

 こうしていると、レイスが鞍を使わない理由がよくわかる。狼は竜とちがって、体からあまり熱を出さないし、竜よりもずっと高くを飛ぶ。ふかふかした毛皮に身を埋めていないと、寒いのだ。

 なれてきたところで、少し身を乗りだし、下をながめてみる。風を踏むシファの足の下を、銀色のプーラ河が、飛ぶように流れていく。とがった針葉樹も、広い放牧地も、その上を走る風紋も、飛ぶように行きすぎていく。右に、左に、せり出す岩壁。奥へ、奥へと、開ける谷底。銀色の流れと、そのへりにつづく緑のやぶが、風にひるがえるリボンのように、谷底をどこまでもつづいていく。

 そして、さらに上流へ。風に逆らい、谷をさかのぼる。谷は巨大な蛇のように、同じ太さで、山脈の奥へとつづいている。かがやく川面。深い森。あらわれては飛びすぎる、いくつもの湖。谷底に埋めこまれた湖水は青く、まっ平らな宝石のようにかがやいて、飛びすぎる一瞬に、きらりと日の光を反射する。

 やがて、ゆく手に大きな山が立ちはだかり、その岩肌にぶつかった渓谷が、右と左、二つのV字谷に分かれた。川がニ分するその手前には、平らな湿地が広がっており、ふりむけば、緑におおわれたアシ原の底から、銀色の流れが生まれでて、まっすぐ、南に流れくだるのが見えた。国をうるおす大河、プーラの誕生だ。

 二つの谷のうち、シファは左の流れをえらび、岩のあいだをつづく白い筋をたどって、けわしい山の上を矢のように飛んだ。くさび形の谷を見おろし、小さな滝をいくつもこえ、地形にあわせて急上昇し、ついに、白く輝く岩山に突きあたる。

「わあっ……!」

 真っ白な雪渓にいどみかかるように、シファは大きく羽ばたき、樹海のうえに突きだした岩山の群れを、一気に飛びこえはじめた。

 わたしはシファの首にかじりついた。あまりの高さだった。眼下に飛びすぎる、白く溶けのこった雪。山肌をけずる枯れ谷。荒々しくそびえる岩壁。峰をかこむ空気はつめたく、風がつよくふきつけて、今にも息をもっていかれそうだ。

 空が青い。

 耳が痛い。

 輝く峠を飛びこえると、シファは一気に高度をさげた。行く手に見えてきたのは、針葉樹におおわれた大きな谷だ。その深緑色の斜面に、わたしは灰色の、ほそい、つづら折りの山道を見つけた。羊がつけた道、夏の放牧地へつづく、踏みあとの道だ。

「おりますよ」

 一言いって、シファは下降をはじめた。飛びたったときとは逆の、内臓がぐうっと持ちあがる感覚。体が浮かびあがるような気持ちわるさに、白い毛をにぎる手をはなしそうになる。わたしはぎゅっと目をつむり、必死に恐怖と悲鳴をこらえた。耳のまわりで風がびゅうびゅう鳴り、もう、なにも聞こえない。

 と、ふいに、つめたい空の風にかわって、大地の熱が顔にあたった。同時に、森のにおいが鼻に飛びこんでくる。わたしは目をあけた。地面はもう、すぐそこだった。草と岩だらけの谷底が近づき、あぶない、と思ったそのとき、狼は大きく羽ばたいて、するどく風をまきあげ、見えない水に飛びこむように、ゆるやかに落ち葉のうえに着地した。

 気がつくと、風鳴りはやんでいた。狼はわたしを乗せたまま、地面にお尻をついていた。しんと静まりかえった、あたたかい午後の森の中。

 そこは、くさび形の谷底に、わずかに広がる平らな場所だった。あたりは針葉樹の森におおわれ、谷底の枯れ沢のほとりには、フキやアンゼリカを踏み分けるように、一すじの道がとおっていた。わたしはずるずると、狼の背からすべりおりた。ひざが立たず、草の上にぺたりとすわりこむ。

「大丈夫ですか?」 

 大きな鼻面を近づけて、シファがわたしの顔をのぞきこむ。わたしはぎょっと身を引いた――フライパンほどもある、その黒い鼻の巨大さにおどろいたのだ。

「大丈夫よ。ちょっと足が」

 強がってはみたものの、立ってみるとひざがわらう。シファは耳をぱたぱたと前後にふって、わたしをじっと見つめた。気づかわれているというよりは、観察されているような気がして、わたしは無理に、一歩あるいた。それから、もう一歩。

「一時以上も飛んでいたんです。無理もありませんよ」

「一時? 半時くらいかと思ったわ」

 いわれてみれば、たしかに太陽がぐっと傾いている。楽しいにしろ、怖いにしろ、飛んでいるあいだは夢中で、時がたつのをわすれていたらしい。

 フウ、と小さく鼻息をもらしてから、狼は先にたってあるきだした。わたしもあとにつづく。沢ぞいの草地を、上流へむかう。ところが、十歩もあるかないうちに、声がした。

「さすがにのんきだな」

 わたしは文字どおり飛びあがり、あわてて声の出どころをさがした。すると、目のまえの岩かげに、レイスがすわっていた。日のあたる岩肌に体をもたせかけて、風をさけている。

「びっくりさせないでよ!」

 おもわずどなってから、わたしはレイスに近づいた。手をのばし、ひたいにふれてみると、たしかに熱い。眉をひそめて立ちあがり、あたりを見まわす。

「アレクは?」

 すると、沢を登った先の小さな草地を、レイスが目でさした。アレクと、荷をつんだままのロバ二頭が、手綱でつながれ、草を食んでいる。

「毛布ぐらい出しなさいよ。火もたいたほうがいいわ。薪は……ないわね。水も」

「下の沢まで飛びますか?」

 シファが口をはさみ、わたしはうなずいた。もういちどシファの背に乗るのは、本当はかなり勇気がいることだったけれど、でも、ここで情けないところは見せられない。持ってきた毛布をレイスにわたすと、わたしは狼と下流へ飛んだ。湧水をさがして水をくみ、薪をひろうころには、もう、夕方がちかづいていた。

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