第26話
今年の夏はきついなあと、ペーテルはぼやき、わたしの顔を見るたびに、畑の水やりをしろと、しつこくいった。
一時は食べきれないほどなっていたズッキーニは、葉が枯れ、枝も間のびして、元気がなくなってきた。ほかの野菜も駄目だった。かぼちゃは味がなく、トマトも、しょぼしょぼとしか実らない。
天火のような日差しの下、火種をたやさない小屋は、とほうもなく暑かった。人夫たちが谷を去ったのをいいことに、わたしは日がな一日、すずしい木かげでのんびりとすごした。暇つぶしに麻布を買って、夏服を一枚つくり、あまり布でシャツを一枚つくって、よそ行きとしてペーテルに進呈した。
そうこうするうちに、空が色あせ、朝晩には、涼しい風が吹きはじめた。
秋が来るのだ。
「すまないが、しばらく馬をかしてくれ」
レイスがそういいだしたのは、少しひんやりとした、ある朝のことだった。
「しばらくって、どれくらい?」
ミルクで煮たパンがゆに、はちみつをたっぷりと入れながら、わたしはたずねた。
「七日か八日」
「そんなに? どこにいくの?」
「山だ。塩をはこぶ」
とたんに、わたしは眉をひそめ、かゆを混ぜる手をとめた。
羊飼いのいう塩とは、羊に食べさせる岩塩のことだ。羊という生きものが、ときおり塩を食べないと、死んでしまうことぐらい、わたしだって知っている。
問題は、その場所だ。今、羊たちがいるのは、はるか頭上にそびえる、あの岩山なのだ。わたしは首を横にふった。
「だめよ、そんなの。シファにはこんでもらってよ」
「天狼に岩塩をはこばせるのは無理だ。歯が腐るそうだ」
「はあ? なによそれ」
「土や石に触れるのを、いやがるんだ。無理強いするのは無理だ」
「だから、なによそれ?」
あきれて聞きかえしても、レイスはスプーンを口にはこぶばかりで、それ以上の説明はない。
……腐る? 歯が? 石や岩をはこばせると、天狼の歯が腐る?
――わけがわからない。
理解する気をなくし、わたしはくりかえした。
「とにかくだめよ。アレクは乗馬なのよ。荷馬じゃないんだから、重いものは持たせないで」
「荷をはこぶのはロバたちだ。お前の馬に塩を運ばせるつもりはない」
むう、とわたしはかんがえこみ、けれど、やはり、首を横にふった。
「――それでも、だめよ。あの子、岩山なんか登ったことないのよ。怪我したらどうするのよ。シファが駄目なら、ロバだけでいって」
「頭数が足りない。二頭しか借りられなかったんだ。――おまえたち、人馬そろって居候なら、少しは手を貸せよ」
むっとしたものの、レイスのいうとおりだった。いくら文句をいったところで、実際のところ、わたしにこばむ権利などないのだ。なにしろ、ただ飯食らいなのだから。
「……ぜったいに怪我させないでよ?」
うなるようにわたしはいい、レイスはうなずいた。
翌朝、麻袋入りの岩塩をつんだロバが二頭、ホローに到着した。
かわいそうに、ロバたちは、歩く袋のかたまりと化していた。一かかえもある塩の袋が、鞍の左右にくくりつけられているのだ。よくもまあ、あれで歩くものだ。
ロバを引いてきたペーテルは、すこぶる機嫌がわるかった。
「イディエの親父がなんていったか知らねえが、これでニスクードは高えよ」
レイスに手綱をわたしながら、ペーテルは顔をしかめた。
「たしかに若いし、頑丈そうだけどよ。いいだけぼりやがって、あのごうつくめ」
すると、ペーテルとならんでロバの足を点検しながら、レイスが答えた。
「仕方ないだろ。ほかに貸し手がいないんだから」
その話し方に、わたしはひそかにおどろいた。レイスったら、その気になれば、とげとげしくないしゃべり方もできるのだ。そんなふうに、エステラにも話しかけてあげればいいのに。
「にしてもよ、欲の皮がつっぱってんだよ。どんだけためこんだところで、あの世には持っていけねえっつうの」
ペーテルのほうも、レイスにたいする物言いは、完全に対等なのだった。これでは、わたしにも敬語など使わないはずだ。
しばらく話をしたあとで、ペーテルはあっさりと帰っていった。たいした荷物も持たず、山に行くにしては軽装だなと思ったけれど、やはり、一緒に行くわけではないのだ。
間をおかず、レイスも出発した。毛布と飼い葉をつんだアレクと、塩におしつぶされそうな、哀れな二頭のロバをつれて。
のろのろと谷をのぼって行く、小さな隊列の後ろ姿を、わたしは戸口に立って、大人しく見送った。
それから、大きく、深呼吸した。――さあ! 気むずかしい家主が、七日間も留守! いったい何をしようかしら!
そう、まずはペーテルに頼んで、焼き菓子をたっぷり買ってきてもらおう。朝も昼も夜もお菓子にしたって、今なら誰も怒らない。それから、プーラの淵で、思いっきり泳ぐのもいいわね。それに、そう――夜になったら、涼しい庭に毛布を出して、寝てみたっていいんだわ。ここにはもう、わたししかいないんだもの!
ところが、散歩をし、水浴びをし、昼寝をして、さて、夕食にしようかというころになって、突然、いつものはばたきが聞こえてきた。
びっくりして庭に出ると、ちょうど、レイスがシファの背中から飛びおりるところだった。そのまま、手桶を取って、放牧地に直行する。
乳しぼりだ! 旅行中であろうと、朝と夕に乳しぼりが必要なのは、考えてみれば、あたりまえのことだ。わたしはあわてて畑にいき、まだ少し青いトマトをもいだ。棚からチーズとパンを出して、大きく切りわける。
「食べていく?」
小屋にもどったところをつかまえて、たずねたけれど、レイスは首を横にふった。そのまま、しぼってきたミルクをカップであおり、パンとチーズをポケットにねじこんで、小屋を出ていく。のこしてきた馬とロバが心配なのだろう――もっとも、荷駄をおそう獣も夜盗も、このあたりには出ないのだけれど。
「火だけは始末しろよ」
去りぎわに言われ、むっとする。あの事故からこっち、火の始末だけは、手を抜いたことがない。けれど、何を言いかえすひまもなく、一人と一頭は、あっという間に、夜空に舞い上がっていった。
そして、翌朝、また、もどってきた。
今度はわたしも、準備ができていた。夜のうちにつつんでおいた焼き菓子を、すました顔で手わたす。我ながら、なかなか気がきいている。
ところが、返事は――
「火、始末しておけよ」
そこは一言でいいから、お礼をいうところでしょう! わたしはむっと腹を立て、気をまわしたことを後悔した。
それでも、レイスが勤勉であることは、みとめざるをえなかった。荷駄をつれて、行きかえり七日間の山の旅。それにくわえて、朝夕の乳しぼりに往復するのは、相当な骨折りのはずだ。
普通なら、こういう場合、乳しぼりは残った者の担当になるはずで――でも、もちろん、わたしには、牛の面倒など見られない。自分の馬の面倒ですら、レイスに見てもらっているのだから。
そして、夜が明けて、三日目。
レイスはまたしても、朝の乳しぼりに飛んできて、飛んでかえっていった。
薄情なわたしも、さすがに心配になってきた。あの人、あの調子で七日間持つのかしらあんまり忙しいようなら、少しくらい、手伝ってあげてもいいんだけれど――?
でも、考えてみれば、レイスの代わりにわたしが出来ることなど、何もない。それに、レイスだって、火の始末もまかせられないような人間に、頼みごとなどしたくはないだろう。
「いいわ。放っておこうっと」
ところが、その日の昼下がり。わたしが寝床でうつらうつらしていると、またしても、いつもの羽ばたきが聞こえてきた。それどころか、せまい納屋の戸口から、狼の頭がにゅっとのぞいて、わたしの心臓はあやうく止まりかけた。
「あの。ええと。どうしたの?」
思わず寝床をにじり下がりながらたずねると、シファは、首をかしげるようにして答えた。
「――もしよければ、いっしょに来てはいただけないかと。どうも、熱があるようなので」
「熱? って、レイス?」
狼はうなずき、その大きな金の目で、わたしを見つめた。
とたんに、心臓がはねあがり、全力疾走のあとのように、どきどきと打ちはじめた。がくがくと、ひざまでふるえはじめる。どうしよう。まさかこのまま、ぺろりと食べられちゃったりはしないわよね――。勇をふるって、わたしは言った。
「ええと、その、あの、一緒に行くのはいいんだけど。それって、つまり、わたしがあなたの背中に乗るっていうこと?」
「嫌ですか?」
「まさか!」
勢いこむあまり、大きな声が出てしまい、赤くなる。
「というか、その、嫌じゃないわよ、もちろん。でも、その、どうしたらいいの? 持っていくものとか、ある?」
「ええ、毛布と食べものを」
言われるままに荷作りするあいだも、わたしの頭は、ぼうっとのぼせたままだった。指先がふるえ、足元がふわふわする――シファに乗るのだ。わたしが、天狼に乗るのだ!
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