第25話

 八月に入り、ペーテルとわたしは、枯れたインゲン豆のつるをかたづけた。茶色くなったさやをたたいて豆を落とし、また来年植えるために、納屋にしまう。

 小屋のまわりはがらんとしていた。人夫たちは谷の奥にうつったし、レイスもほとんど帰ってこない。ペーテルも忙しいらしく、あまり顔を見せなかった。

 さすがのわたしも、少々退屈してきた。なにしろ、草引き以外、することもないのだ。

 ペーテルは、わたしが畑を『思ったよりもきれいにしている』といい、ひまを作って、まわりのやぶを刈りはらってくれた。それで、気分はだいぶ、楽になった――柵におおいかぶさるやぶの中から、ヘビやムカデが飛び出してくる恐れが減ったからだ。

 わたしはきままにすごしていた。一日じゅう何も起こらない、のんびりした日が、あんまり長くつづくので、今日がいったい何日なのか、それすら忘れ果てていたのだ。

 そんなわけで。

 それは、突然やってきた。


 その日、わたしはめずらしく、朝から洗濯をしていた。ざっと洗った服を、てきとうにしぼり、小屋の裏に張ったひもにかけていると、とつぜん、大きな影が、目の前を飛びすぎた。

 ――シファだ! わたしはぱっと顔をあげ、おりてくるシファを見まもった。谷に外の人間が入りこんでいる今、シファの姿を見るのは、実に、数週間ぶりだった。

 しかも、シファの背中に、レイスはいない。――つまり、シファはわたしに用があるのだ!

 どぎまぎするわたしの前に、狼は優雅に降りたった。そして、口にくわえていた白い箱を、音も立てずに地面においた。

「お届けものですよ」

 歯形一つついていない、きれいな箱を、わたしはまじまじと見つめた。純白の紙箱。金糸でふちどられた青いリボン。――まさか、これは。

「もしかして、ロイ兄が?」

 小さな声でたずねると、狼がうなずいた。

「ええ。会っていかないのか、とたずねましたが、時間がないからと」

「……そう」

 わたしはうなずき、もういちど箱に目を落とした。――やはり、そう。そうなのだ。

 それはそうだ。八月だもの。

「……ありがとう」

 シファを見送り、洗濯物を干しおえると、わたしは箱をかかえて、アレクの背に乗った。べつに、隠しだてするようなことでもないけれど、なんとなく、誰もいないところで開けたいような気がしたのだ。

 プーラのほとりまでいき、木かげにすわる。青いリボンをほどき、真っ白なふたをとると、まずあらわれたのは、二つ折りになった小さなカードだった。青い花柄の厚紙に、白いレースもようの型押し。一目で都からの取りよせ品とわかる、手のこんだ品だ。

 ひらいてみると、母さまのきれいな飾り文字で、お誕生日おめでとう、ミリエル、とかかれていた。――予想どおりだ。

 カードをながめ、とじる。それから、箱のなかの薄い包み紙をひらく。

 すると、中に入っていたのは、薄黄色のバタークリームでくるまれた、大きなケーキだった。ちりばめられたオレンジピールと、スミレの砂糖づけが、宝石のように美しい。まわりには、色つきのアイシングで、細かな花もようまで描いてある。

 覚えている。都で流行りのレシピをためすのが大好きな母さまが、今年の新年の祝いに、材料をとりよせて焼かせたものだ。わたしがおいしいといったら、母さまはいった――なら、あなたの誕生日には、またこさえましょうね。

 ひざの上のケーキを、わたしはまじまじと見つめた。茶色い固パンを見なれた目には、色とりどりのケーキは、ひどく風変わりなもののように思えた。ふんわりと香る、ヴァニラの匂い。お茶の時間になると、あの、日の差しこむディースの居間に、立ちこめていた匂いだ。

 じわり、と目に涙がこみあげる。

 なにをどう感じたらいいのかわからない。

 だって、どうして? 勘当したはずの娘に、どうしてこんなものを? 

 でも本当は、答えは、聞かずともわかっていた。母さまは、疲れたのだ。もめごとばかりの日々に飽き、夫や息子のしかめ面にも飽きて、娘の誕生日ともなれば、もう、獣にまつわる面倒ごとなど、きれいに忘れてしまいたくなったのだ。

『だって、お誕生日なのよ? わたし、前から約束していたんですもの』

 娘が何をしでかそうと、それで全部、水に流してしまえる人だから。

 あまい、あまい、リキュールの香り。

 かいでいるうちに、涙がでてきた。

 ずいぶんと、親に愛されているじゃないか。そう言ったレイスの声が、よみがえる。

 そんなこと、言われなくてもわかっている。わかっているから、悔しいのだ。


 あれは、わたしが十四の秋。父さまが、アレクを買ってくれたときのこと。

 乗り手が子供、それも女の子と知って、馬商は、牡馬を売るのをいやがった。牡馬は力もつよいし気性もあらい。牝馬のほうがよくはないかというのだ。

 けれど、その言葉に、父さまはからからと笑った。そして、わたしの頭にぽんと手をおいて、こう言った。

「いや、この子は娘ながら、立派にディースの血をひいておってな。こう見えて、なかなか威勢のよいところがある。心配はいらん、この黒いやつをいただこう」

 わたしはうれしかった。父さまが、わたしのことをそんなふうに思っていてくれたなんて。

 突然、馬を買ってくれるといいだした、その真意が、わたしに幻獣を忘れさせるためであるとは、わかっていたけれど――。

 十四歳は、ディースの男子が、騎竜の訓練をはじめる歳。竜をもらわないわたしのために、父さまなりに、気を使ってくれたのだ。

 そう。わたしだって、わかっている。父さまも、母さまも、二人なりに、わたしを愛してくれている。自分たちに受け入れられる範囲で、理解しようとしてくれている。

 それを思えば、わたしのほうこそ、どうしようもない親不孝者なのだろう。

 ひざの上のケーキを、もう一度ながめる。家の料理人が腕をふるった、バタークリームのデコレーション。こういうきれいなものは、銀器でかざられた、あの、ディースの食卓にこそふさわしい。でも、母さまはきっと、娘が牢獄にほうりこまれていたって、大きなケーキを送ってくるのだ。

 だって、お誕生日なのよ? ――そう言って。

 ながれる涙を、わたしは手の甲でふいた。きれいな薄黄色のケーキを、手でちぎって食べる。

 生ぬるい、べたべたのケーキは、それでもおいしかった。


 まるまる半分も食べると、それ以上は入らなかった。川におりて手を洗いながら、わたしは、残りをどうするか考えた。

 ――持ってかえって、レイスに言う? 

 母さまがケーキをおくってきたの。あなたもどう? 

 だめだ。とても言えない。この、ひどく場ちがいなケーキを見たレイスが、いらだつか、それとも、無視をとおすかは知らないけれど。どちらにしろ、見せびらかすことになる。親の、無分別な愛情を。

 こうなったら、腹痛を覚悟してでも、無理矢理食べてしまおうか。

 そう、考えたときだった。箱を置いた木かげの方から、がさがさという音が聞こえてきた。――まさか、レイス? わたしはあわててふりかえった。

 ところが、目にうつったのは、意外なものだった。もこもことした黒い犬が、箱に鼻を突っこんでいたのだ。

「こらっ!」

 わたしはさけび、河原を駆けもどった。犬はぱっとうしろに跳びのき、それから、首をかしげてこちらを見つめた。ピンク色の大きな舌で、鼻についたクリームをなめる。わたしは思わず、ため息をついた。

「――おまえ、まだ、こんなところにいたの」

 見まちがえようもない。このあいだ、この川べりで会った、あの犬だ。

 思いがけない再会だけれど、会ってしまえば、そう意外でもなかった。野良犬にだって、なわばりはある。同じ場所で会うことが、ないとも限らない。

 とはいえ、前に見かけた路上と、今いるこの川辺では、ぜんぜん話がちがうのもたしかだった。石垣を越えたここは、もう、ホローの領地なのだ。

 箱を後ろ手に、犬のまえにしゃがみ、わたしはいった。

「ここは駄目よ。おっかない狼が見はってるのよ」

 ホローには、羊をおそう狼も、鶏小屋にしのびこむキツネもいない。天狼のなわばりに踏みこめば、ただではすまないと知っているのだ。もこもこしたのろまな野犬など、もちろん、ひとたまりもない。

「とっとと出てったほうがいいわよ。じゃないと、なにされても知らないから」

 真剣に言ったのに、犬は聞いていなかった。ひたすら首をのばし、ケーキの匂いをかいでいる。そんなに、お腹がすいているのかしら――。まあたしかに、こんな野原では、そうそう、おいしいものにもめぐり合わないでしょうけれど。

 しばらく迷ったあと、わたしは観念した。

「……わかったわ。半分あげるから、食べたら出ていくのよ?」

 ケーキの残りを手でわり、半分をさしだすと、犬は猛烈ないきおいでたいらげた。おまけに、クリームとよだれのついた鼻づらを、ぐいぐいとこちらに近づけてくる。

「ちょっと、やめなさい!」

 思わず後ずさりながら、わたしは確信した。この犬は、食べるものがあるうちは、ぜったいに退散しない。

 ――母さまごめんなさい。まさか、犬にやるとは思わなかったでしょうに。

「さっさと食べたら、出ていくのよ。あんたは石垣の外にいなきゃ」

 残りの半分も犬にやり、それから、わたしは先に立って、橋のたもとの石垣まで歩いた。やぶの奥に見つけた木戸をあけ、黒い体を路上に押しだすと、犬はきょとんとこちらを見あげる。

 こう言ってはなんだけれど、あまり見ばえのする犬ではない。足は短く、顔は寸づまり。もこもこした黒い毛はもつれ、どこに目があるのかさえよくわからない。大きくても、すらりとしたシファとは、くらべようもない。

「そんな顔したって、もうないわよ、おちびさん。まだ欲しいなら、よそでねだんなさい――まあ、誰もあんたに、ケーキなんかくれないと思うけど」

 しっしっと追いやると、あっさり歩みさっていく。案外、現金だ。一瞬、本気で飼ってやろうかと思ったのに。

 ふう、と息をつき、もとの木かげにもどると、犬のよだれでべとべとになった箱をひろいあげる。あーあ。この箱、どうしよう。

 迷ったすえ、置いていくことにする。中身もないのに、持ってかえるわけにもいかない。わきにたたんでおいた包み紙のなかから、カードだけを取りだし、ポケットにしまう前に、もう一度ながめる。

 青い、美しい花もよう。

 母さまの好きな、やさしい色づかい。

 今となってみれば、わかる。本当は、あのディースの家だって、それほど、嫌いだったわけじゃない。父さま母さまのことを、嫌っていたわけでもない。

 でも――

 苦しかったのだ。

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