第24話

 七月も後半になると、やっと少し、トマトがなりはじめた。インゲン豆は元気だし、納屋には、ペーテルが掘ってくれたジャガイモもある。

 つまりは、わびしいホローの食卓に、夏が、ようやく救いの手をさしのべてくれたわけだ。――まあ、ひどく、けちけちとした手ではあったけれど。

 これを、もっと豊かにしていけない理由はないと、わたしは考えた。そこで、ペーテルにたのんで、このあたりで評判だという、ハムとソーセージを買ってきてもらった。お金はもちろん、わたしが払うつもりだった。

 ところが、わたしがそういうと、ペーテルは首を横にふった。

「あんたが払うこたねえ、だんなに払ってもらいなよ」

「え? だってあの人、お金もっているの?」

 すると、わたしの言葉に、ペーテルは、なにをいまさら、という顔をした。

 きけば、ホローには、この谷のほかにもあちこちに、一族所有の放牧地があり、毎年、それなりの額の賃料が入るはずなのだという。さらには十年前、いらなくなった綿羊を一気に手放したときの代金だって、使用人への補償で大半を使ったものの、いくらか残っているはずだという。

「だんながその気になりゃ、屋敷の一軒ぐらいは買えるんじゃねえか?」

 大真面目に言われ、わたしはあんぐりと口をあけた。

 それから、猛烈に腹をたてた。牧場がつぶれて、なにもかも失ったものと思っていたのに、とんでもない。ここまでひどい暮らしをする必要なんて、まったくないのだ!

「いったい、なにを考えてるのよ?」

 わたしは思わず、ペーテルを前にわめいた。むかむかと胸にこみ上げる怒りは、ホローにきてから味わった、数々の苦労や屈辱のためだけではなかった。すすんで自分をいじめるような、レイスのやり方そのものに、腹が立つのだ。

「馬っ鹿じゃないの? こんなことしてて、なにが楽しいの? 毎日、玉ねぎばっかりで! そんなに人間らしい暮らしがいやなら、いっそ、狼といっしょに羊でも食べてりゃいいじゃない!」

 意外にも、ペーテルは反論しなかった。ただ、小さく肩をすくめ、だんなにも、いろいろ事情はあんのさ、といっただけで、あとは、賢明にも口をつぐんだ。

 もちろん、そんな事情など、わたしの斟酌するところではなかった。勘定はすべてレイスにまわしてもらうことにして、わたしはすぐに、次の手を打った。

 次の日、黄色くて大きな、汁気のいっぱいつまったプラムと、わたしの大好物のイワシの油漬けのびんが、ペーテルのロバの背にのって、ホローに到着した。

 わたしとペーテルは、さっそく、ゆでたジャガイモにイワシとチーズをのせ、こんがりと焼いてかじりついた。それから両手をべたべたにして、甘いプラムを心ゆくまでかじった――ああ、これこそ、人間の食事だ!

 赤と白のワイン。ハーブにピクルス。香料入りのソーセージ。おいしいものが次々と、ホローに運びこまれてきた。近くの市に行きつくすと、ペーテルは街道ぞいまで足をのばし、そこにならんでいるさまざまなおいしいものを、わたしに報告してくれた。こはく色のシロップしたたる、イチジクの蜜煮。とろけるような深い赤の、オンビーノ産生ハム。ケシの実とドライフルーツがぎっしりつまった、リキュールたっぷりのヴォドガの焼き菓子。いずれもペーテルの財布では手がとどかないけれど、わたしがたのめば、お駄賃として、彼の口にもはいるのだ。ペーテルは、満面の笑みでいった。

「うまいなあ。こんなにうまいものが食えるのは、俺にゃあ、この夏だけだろうなあ」

 エステラでさえ、美食の誘惑に勝てなかった。熟れたメロンだの、砂糖衣のかかった焼き菓子だのをもちかえる弟を、エステラはそのたびに叱っていたが、なんのかんのいって、結局は自分も手をつけるのだった。 

 さまがわりした食卓に、レイスは何もいわなかった。棚に入っているものは、肉であろうとお菓子であろうと、自分も手をつけるけれど、それについての感想はない。

 けれど、ある晩とうとう、話しかけてきた――わたしが、ペーテルおすすめのソーセージを、暖炉でこんがりとあぶっているときに。

「ずいぶん、いいご身分だな。全部人に払わせておいて」

 わたしは、ふん、と盛大に鼻を鳴らした。これくらいの嫌味、予想のうちだ。

「あら、これくらい何? わたしがフォアグラでも焼きはじめたら、そういって」

 レイスは答えず、自分も棚からソーセージをとると、串にさし、暖炉のまえに椅子をひきよせて、焼きはじめた。そして、しばらくそのまま黙っていたが、ふいに、皮肉な調子でいった。

「――まあ、そうかもな」

 ソーセージが焼きあがると、レイスはそれをパンにのせ、手ぶりだけで食前の祈りをすませて、食べはじめた。

 もちろん、わたしも食べる。しばらくして、レイスがいった。

「買い物は、ペーテルかエステラにたのめ。まちがっても、行商の馬車を敷地にいれたりはするな」

「――するなっていうなら、しないけど」

 大人しく答えながら、わたしは横目でレイスの顔をうかがった。レイスが自分から話しかけてくるとは、しかも、会話が二言以上つづくとは、かなり稀な事態だ。――まあ、たんに、わたしの買物ぶりが、目に余っただけかもしれないけれど。

 でも、なにか、引っかかる。

 ソーセージを食べるレイスは、なんというか、ひどく疲れているようだった。靴は泥だらけだし、すわったときの姿勢も、なんだか前かがみだ。服にも土がついたまま。こんなこと、前にはなかった気がする。

 というか、そもそも、牧場の仕事って、こんなに泥だらけになるものだったっけ?

「――ねえ、あなた、毎日なにしてるの? 羊もいないっていうのに、開墾でもしてるわけ?」

 思い切って、たずねてみる。でも、レイスはあいまいに首をふるだけだ。

 ……まあ、こちらだって、たいして興味があるわけではないから、いいんだけれど。

「べつにいいけど。でも、まともに栄養もとらずにいると、たおれるわよ。ペーテルやエステラが心配するんじゃないの?」

「あんたにだけは、いう資格ないだろ、人に心配かけるなとは」

 ――たしかに。だまって家を飛びだしたうえ、こんなやっかいな場所に飛びこんだ親不孝者は、何をかくそう、このわたしだ。わたしはソーセージを一口かじり、さりげなく話題をかえた。

「――そうそう、それでね。ペーテルが、あなたにお礼をいっていたわよ。いろいろとおいしいものが手にはいるおかげで、この夏は、おじいさんも食がすすんで、ありがたいって。体調も、だいぶいいようだって」

 すると、レイスは意外にも、顔をあげてわたしを見た。わたしの顔を、まっすぐに見た。あまりにもしっかりと目が合ったので、かえって、こちらが驚いたぐらいだ――え? 今のって、そんなに大事な話題だった? 

 すぐに逸らされたけれど、それは、めったに見られない、レイスの素の表情だった。

 それで、あ、とわたしは直感した。大事な人なんだ。ペーテルのおじいさんは、レイスにとって、いなくなっては困る人なんだ。今の、レイスの表情。あからさまに、ほっとしていた。ペーテルのおじいさんが元気だと聞いて、安心したのだ。

 だけど、どうして? ペーテルの家は、代々の小作だ。領主の息子であるレイスと、つき合いなどないはずだ。

 ――でも。と、だまってソーセージをかじりながら、わたしは考えをめぐらせた。

 レイスが十歳のときに、彼の親兄弟は死んだ。広い領地に、彼と、彼の狼だけがとりのこされた。そんな状況で、十歳の子供になにができる? 身のまわりの世話をしてくれる、親身な大人がいなければ、生きていくことすら、難しかったにちがいない。

 そして、そう――もしかすると、それをしてくれたのが、ペーテルのおじいさんだったのかもしれない。あるじの一族が死にたえたのち、残された若様の面倒をみたのが、古くからの使用人だった、ペーテルの一家、というわけだ。

 だからこそ、ペーテルとエステラは、レイスにとって、唯一、姉弟にもちかい存在なのだ。羊の取引以外で、彼がホローへの立ち入りを許すのは、この二人だけだもの。

 ――ふうむ。

 レイスが出ていったあと、二本目のソーセージをあぶりながら、わたしはなおも考えつづけた。

 ――なら、もう、いっそ、結婚してしまえばいいのに。ともかく、エステラの方では、あれだけ、レイスのことが好きなのだ。身分ちがいに文句をいう親族も、幸か不幸か、一人もいないわけだし、なにも問題はないはずだ。

 そうだ、それがいい、と、わたしは一人うなずいた。

 でも……まあ。

 そんな考えも、わたしの勝手な暇つぶしであるとは、わかっていたのだけれど。



 夏の盛りが近づき、山は日に日に青さをましていた。ブナやカラマツがみずみずしい葉を広げ、野ばらやツタがつるを伸ばす。谷底の牧草地にも、大人のひざをこえる草がそだっていた。

 さて、この草をどうする気だろうと、わたしは首をかしげた。

 なにしろ、ホローには羊がいないのだ。――ううん、売り物にならない羊が、いるはいるらしいが、この谷を埋めつくす草を食べるには、とてもたりない。

 というか、草があまっているというのが、そもそもおかしいでしょう! 谷を一歩出た外の世界では、みすぼらしい格好の農夫たちが、とぼしい草を取りあっているというのに! なのに、ここでは、草はあまっている。どうしようもなく、あまっている。国じゅう探したって、牧草が、これほどありあまっているところはないだろう――!

 わたしは半ばあきれ、半ば感心しながら、濃くなっていく緑をながめていた。

 ホローに干草づくりの人夫たちがやってきたのは、そんなある日のことだった。

 

 干草づくりの人夫とは、農場から農場へ、わたり歩きながら草を刈る、季節労働の男たちのことだ。着古しの服に、太い腕をした彼らの姿は、この季節、どの地方でも見られる。ディースにも、毎年来ている。

 そして、今、ホローの谷のあちこちに、長い鎌をふるう、むくつけき男たちの姿があった。がっしりした足、筋肉ではちきれそうな肩、汗と酒の匂い――ならんで屈み、草を刈る男たちの姿は、遠くからでもよく目だった。

 ペーテルによると、人夫の数は、総勢三十人を超えるらしかった。それがみな、夜になるとサーレ村までくだり、空いた放牧地で野営をしては、盛大に飲み食いしているのだという。――呪われた谷で夜をすごすくらいなら、朝夕、往復八マイルの道を、歩いたほうがマシというわけだ。その飲食の費用は、すべて、レイスが出しており、毎年、この時期に支払われる金額をペーテルから聞いたわたしは、なるほど、ホローにはたしかにお金があるのだと、納得せざるをえなかった。

 レイスが毎年、そんな大金をはらってまで草を刈るのは、谷底の牧草地を維持するためという、ただ、それだけの理由なのだそうだ。なにしろ、刈った草を食べる家畜は、ホローにはいないのだから。使い道のない干し草は、野ざらしのまま放置され、家畜の飼料がつきる春先に、近隣の貧しい農場に、ただで引き取られていくのだそうだ。

 まだ暗い早朝、人々は人目を忍んで、こっそりと谷に馬車を乗り入れてくる。そうして、だまって、干し草を荷台につんで帰るのだ。家畜にホローの草を食べさせたことがわかると、売値が下がってしまうから――。馬鹿な話だ。ホローの干し草をどれだけ食べたところで、羊や牛が呪われるはずもないのに。

 ともあれ、今は、谷はにぎやかだった。普段が静かすぎるぶん、谷間にこだまする男たちの声は、ひどく騒々しく、かつ、景気よく思えた。

 もちろん、その分、しなければならないことも多かった。パンがなくなったの、ぶどう酒が切れたのと、レイスもペーテルも、休む間さえなかった。ここでも、暇を持てあましているのは、わたし一人というわけだ。

 でも、わたしはこの状況を、それなりに楽しんでいた。さんざんうろつきまわったせいで、わたしは谷のほとんどの場所を、人夫たちの目に触れずに歩きまわることができた。時には、わざと彼らのそばに近づいて、その話をぬすみ聞きしたりもした。

 とくに面白いのは、休憩時間だった。長い昼の休み時間、彼らはぶどう酒をしこたま飲んでは、太いだみ声でしゃべりちらした。――どこそこの飯は最悪だとか、どこそこの農場はけちくさいとか、たとえばそんな話を。あるいは、飲みすぎて死んだ仲間の話、恋にやぶれた若者のうわさ、そのうちに酔いがまわってくると、どこそこの村には美人が多いだの、どこそこの女には愛嬌があるだのといった、きわどい話になだれこむのだ――(若い娘が耳にするのに、およそふさわしい話ではなかったことは、正直にみとめる)。

 ともあれ、人夫たちはたしかに、広い世間を知っていた。飲みすぎに、卒中に、心臓まひ。戦に、飢きんに、流行り病。数多のわざわいをくぐり抜け、国境を越えて旅する彼らにとっては、この、ホローの呪いですらも、世の中にごまんとある、厄介ごとの一つにすぎないようだった。

 それでも。日暮れ前になると、人夫たちはみな、谷から引きあげた。

 がらんと誰もいなくなった谷を、わたしはよく、アレクと散歩した。プーラ河の両岸にあれほどしげっていた草は、きれいになくなり、あちこちに点在する、大きな塚にまとめられていた。その上に差しこむ、紫の残照。生乾きの草の匂い。ぶんぶん飛ぶ虫。遠くで歌う鳥。――夢のように美しく、おだやかな夕暮れ。

 でも、この静けさは、おかしいのだ。

 夏のさかり、まだ働けるこんな時間に、谷が、こんなに静かなのはおかしい。

 こんなに美しく豊かな谷を、まるごと全部むだにする、こんなやり方は、どう考えたっておかしい。

 でも、仕方がない。人々はこの先も、ホローに寄りつかないだろう。

 幻獣をあつかいそこねたホローは、この先もずっと、忌まれていくのだろう。

 十六頭の、狂った狼がもたらした影は――それだけ長く、暗いのだ。

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