第23話

 さて。

 エステラが作ってくれた、大びん二つ分の酢漬けを、わたしとレイスは、なんと、たったの二日で食べてしまった。

 ようするに、二人とも、まともな味のものに飢えていたのだ。

 なにしろ、ホローには、塩以外の調味料がない。スパイスやハーブはもちろん、どんな田舎にもあるはずの、お酢やぶどう酒すらない。

 空になった酢漬けの瓶をながめながら、わたしはそのことを、ようく考えてみた。

 ホローにきてからというもの、野菜はゆでるか、いためるかして塩をかけていたけれど――ここでは、そういうものなんだと思っていたのだ――考えてみれば、ゆでて塩をかけただけの野菜など、料理とはよべないのではないだろうか?

 熟考ののち、わたしはペーテルに、自分の苦境をうったえてみた。すると、ペーテルはうなずき、ついでに首までかしげた。

「だよなあ。俺も、頼まれもしないこったし、だまってたけどよ。なんもかんも切れっぱなしなんて、だんならしくもない。こんなこと、去年まではなかったんだぜ」

 ペーテルはすぐさま市にでかけ、新鮮なオリーブ油と、赤ぶどうのお酢を買ってきてくれた。わたしは喜び、ついでとばかりに、次はお茶と砂糖もたのんでみた。もちろん、ちゃんとお駄賃は払ったうえでのことだ。

 すると、翌日、小さな紙袋いりの茶葉と、お砂糖の箱がホローにとどいた。すばらしいことだった! これであまくしたお茶が飲めるし、ちょうどいま、プーラの岸辺に実っている野イチゴを、ジャムにすることだってできる。ジャムを作ったことはないけれど、作り方はわかる。子供のころ、厨房でつくられるジャムをつまみ食いするのは、わたしたち兄妹の、夏の楽しみだったのだ。

 さっそく、わたしはかごをかかえて、アレクと川べりの土手にむかった。朝の空気をすいながら、背のたかい木々が草原におとす、青い影をふんですすむ。川沿いを下り、野イチゴがありそうなやぶをさがして、木立ちにおおわれた土手をおりると、朝日をうけた河原が、白く、まぶしくかがやいていた。角が取れ、卵のように丸くなった大小さまざまな石が、見わたすかぎりにしきつめられている。

「あら、あの橋」

 南に目をむけると、今いる場所のすぐ下流に、見覚えのある、アーチをつらねた石橋が見えた。リズミカルに河原を横切る白い橋は、ホローにくる途中、十字路のそばで見た、あの橋にちがいない。つまり、ここは、あの時アレクに水を飲ませた水辺の、橋をはさんですぐ上流にあたるのだ。

 けれど、あの時と今とでは、景色はずいぶん違っていた。増水期だったあの時は、灰色の水が、広い河原の半分以上をおおって、ごうごうと流れていたけれど、渇水期に入った今は、わずかに青い水のすじが、河原をななめに横切るだけだ。

 これなら、おぼれる心配もない。わたしはさっそく靴と靴下をぬぎすて、きらきらかがやく水にはいった。つぎのあたったスカートをからげ、浅瀬をぱちゃぱちゃ歩けば、小さな魚が、つい、つい、と逃げていく。

「川遊びなんて、いつ以来かしら!」

 歓声をあげて走りまわってから、水からあがって岸をたどれば、土手からたれさがる茂みの奥に、野イチゴがたくさん実っていた。縁がぎざぎざした葉っぱの下にぶらさがる、ころりとつやのある赤い実。とげだらけの茎をよけながら、一粒つまんで口に入れると、うすい皮がぷつりとやぶれ、口じゅうに甘みが広がる。

「おいしい!」

 つんでは食べ、つんでは食べて、夏の恵みを口いっぱいに味わう。それから、白い河原に寝ころんで、ごろごろした石のうえに手足を投げ出した。かんかんと照りはじめた日が、まぶしい。わたしは大きく息をついた。

 こうしてじっとしていると、こんなところで石の上に寝転がっている自分が、ひどく可笑しく思えてくる。

 いったいどうして、こんなことになっちゃったのかしら? まともな令嬢としての暮らしは、どこにいってしまったのだろう? これからどうしたらいいのかも、どこに行けばいいのかも、わからないだなんて。だからといってもう、わざわざ嘆く気にもならないけれど――。

 青い空を見つめ、目をとじた、そのときだ。

 遠くかすかに、カラン、コロンという鈴音がきこえてきた。

 思わず、ぎくりとする。こんな音、聞こえるはずがないのに。ホローには、鈴をつけた羊などいないのに。

 なのに、たしかに聞こえる。寂しげな、まるで、この世ならぬもののような、鈴の音。

 わたしは思わず、背筋をふるわせた。もし、万が一、本当に、幽霊なんてものが出たんだったらどうしよう――。でも、ホローなら、羊より、人か狼の方が、ありえそうな気がするんだけど――。

 ところが、わたしがそんな、馬鹿なことを考えているあいだにも、かすかだった鈴の音が、近づいてきた。そのうち、ベエベエという羊の声や、牧童の声までが聞こえはじめた。

 ちがう。これは、幽霊じゃない。

 わたしはいそいで立ちあがり、まわりを見まわした。

 すると、案の定、遠い河の対岸の、緑の土手にかかる橋のたもとに、数十頭の羊が集まりはじめていた。数匹の犬と、二人の牧童もいっしょだ。

 あわてて靴と靴下をひっつかみ、河原を横ぎる橋げたの下に飛びこむ。平坦な河べりに、姿を隠せそうなところはここしかない。胸の前で手をにぎり、ドレスを着た影が砂利の上に落ちないよう、石の橋脚に体を押しつける。

 どうしよう。うっかりしていた。浮き世ばなれしたホローに慣れすぎて、勝手に地の果てにいるような気分になっていた。でも、この橋は、石垣の外にあるのだから、人だって、羊だって、当たり前に通るのだ。

 橋脚に張りついて、息を殺す。長い長い待ち時間のあとで、羊たちが、わたしの真上を通りはじめた。わたしの頭の五フィート上を、無数のひづめが踏みならしていく。羊のあとには犬が、そのあとには、二人の牧童がつづくはずだ。――ああ、もう! うかつな自分がいやになる。はだしで橋の下にいるところなんか見つかったら、ディースのお嬢さまの御奇行のうわさに、あらたな一ページが加わってしまう。

 ところが。

「ちきしょう、この野良犬が!」

 突然ひびいたどなり声に、わたしはつい、橋脚のかげから顔を出してしまった。

 見ると、すでに橋を渡りおえたのだろう、すぐ目と鼻の先の、こちら岸の土手のうえで、若い牧童が杖を振りあげ、むくむくした黒い犬を打とうとしていた。

 犬はひらりと身をかわし、そのままきょとんと牧童を見あげる。その仕草が勘にさわったのだろう、牧童はなにやら悪態をつき、ぺっと地面につばをはくと、もう一度、杖をふりあげた。

 ところが今度は、年かさの方の牧童が、その若い牧童をどなりつけた。

「馬鹿やろう! こんなところで、つばなんざはくな!」

「けど、この犬っころが!」

「野良犬なんざほっとけ! とっとと羊を歩かせろ! 狼に呪われたらどうすんだ!」

 どなられた若い牧童は、不満げに顔をゆがめたものの、何も言わなかった。ちっと舌打ちをし、歩きだす。それを犬が追い、群れが動きだして、ゆっくりと遠ざかっていく。

 わたしはようやく、ほうっと息をついた。男たちの背中が、やぶの向こうにかくれるのを待って、その場にしゃがみこむ。

 ……二言、三言の会話だけでも、世間にホローがどう思われているのか、よくわかるというものだ。 

 群れが丘の向こうに消えてから、わたしは土手をのぼり、低い石垣の向こうの、羊たちが通りすぎた十字路をのぞいてみた。すると、おどろいたことに、さっきのあの黒犬が、ぽつんと一匹、路上にたたずんでいた。黒い耳を立て、遠ざかる羊の群れを見つめている。

 わたしは思わず、その背中に見入った。一人ぼっちのその様子が、なんだか人ごとには思えなかった。――はぐれ犬だろうか。牧羊犬にはむかないと、誰かに捨てられでもしたのだろうか。

 と、ふいに、犬がこちらを見た。もこもこした毛の奥の黒い目が、わたしを見つめる。一瞬、この犬を飼ったら、という考えが頭をよぎった。今、声をかけたら、わたしについてくるかもしれない。

 ――おいで。

 そう呼びかける声が、のどまで出かかって、けれど、わたしは思いとどまった。犬はしばらくわたしを見ていたけれど、やがて、どこかに歩みさった。

 石垣にもたれ、わたしはため息をついた。

 犬は好きだ。小さいころから。……でも、飼ったことはない。

 犬よりも、獣のほうが欲しかったから。犬を飼ってしまえば、もう、獣は手に入らないような気がしたから。

 でも、そんなこだわりも、もう、捨てた方がいいのかもしれない。一人ぼっちの今の暮らしに、足元をうろうろする犬がいるのは、悪くないのかもしれないけれど――。

 ため息をつき、川原にもどる。のろのろと荷物をかたづけ、アレクにまたがり、土手につけられた、細い踏みあと道を登る。

 そこで、ふと、気がついた。

 ななめの陽にかがやく、砂利の川原。静かな木かげと、赤くゆれる野イチゴ。

 もしかすると、ここは、ホローの人々の、毎年の、ピクニックの場所だったのかもしれない。ディースでわたしたちがそうしていたように、ホローの人々も夏になると、仕事を忘れ、川遊びを楽しむ一日を持ったのかもしれない。

 ふりむけば、見えるような気がした。広げられた色とりどりのクロスに、笑いあう貴婦人たち。パイプをくゆらす紳士がたに、ボールを追いかける少年たち――。

 わたしは思わずふりかえった。

 目に入ったのは、がらんとした、白い河原だけだった。

 小屋につき、アレクの世話を終えるころには、もう、日が沈みかけていた。そのうちに、レイスが帰ってきて、テーブルの上の赤い実に目をとめた。

「……もう、そんな季節か」

 その口調に、わたしは自分の勘がただしかったことを知った。

 ――そうだ。呪われた一族だって、夏には、野イチゴつみを楽しんだのだ。バスケットにお菓子をつめて、レディたちは日傘をさして。

 ほんのいっとき、わたしは言葉を見失った。なんと答えればいいのかわからなかった。

 それから、つん、と顔をあげ、嫌みったらしく言ってやった。

「――そうよ。もう、そんな季節よ。あなたも少しは、身のまわりに目をむけたらどう?」

 レイスは何も言わなかった。そのまま、乳しぼりに出かけていった。

 後にのこされたわたしは、しばらくのあいだ、考えずにはいられなかった――共に暮らした家族も、家も、すべて失うというのは、いったい、どんなことなのだろうかと。

 そうして、この世に一人、残されるというのは――いったい、どんな気がするものなのだろうと。

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