第21話

 次の日は、朝から縫いものをした。

 縫いものはきらいだけれど、しかたがない。シャツとズボンがどんなに快適でも、婦人には、時として、ドレスを必要とする、やむをえない理由というものがあるのだ――いうなれば、月のさわりという。

 焼けて穴のあいたドレスをほどき、平らにひろげる。焼けおちた部分にあてるつぎ布は、家からもってきた、もう一着からとることにした。フリルがついた薄手のドレスなど、ここでは、焚きつけにでもするほか、使い道がないのだし。

 色も素材もちがう布のとりあわせを、少しでもまともに見せようと努力したあげく、わたしは、スカートの幅も丈も、ぐっと細身にかえてしまうことにした。ひらひらした布が少なければ少ないほど、火を使うときにも安心な道理だ。

 戸口にいすをだし、めずらしく、一心に針をうごかしていると、目の前の庭を大きな翼の影がよぎった。顔をあげると、なんと、わたしの目の前に、白い狼が、音もなくおりてくるところだった。しかも、その背中は空っぽだ。

 訳もなくどぎまぎし、わたしは手にした縫いものを、ぎゅっとにぎりしめた。

 どうしよう、はじめてだ。天狼と二人きりになるなんて。

 ところが、立ちすくむわたしに、狼はあっさりといった。

「お客ですよ」

「……わたしに?」

「だと思いますよ。ディースの獣使いのようですから」

 そこで、シファは口の端をまきあげ、案外、剣呑な笑みをうかべた。

「――ぶしつけに入ってくるようなら、落してやろうかと思ったんですが。竜族もサラマンダーともなれば、多少は知恵がのこっているようですね。並木の入り口におりて、そのまま立ち往生しています」

 つまりは、家の誰かが、騎竜でわたしをたずねてきたのだ。けれど、竜が天狼のなわばりに入ることをこばんだために、牧場の境界上で、立ち往生をしているのだ。

 わたしは針と糸を放りだして立ち上がった。

「ありがとう!」

 シファにお礼をいい、アレクに飛び乗る。小道をくだり、街道を走っていくと、すぐに、並木の入り口に立ちつくす、竜と乗り手のすがたが見えてきた。固く羽を折りたたみ、飛ぶことを拒否したサラマンダー。その手綱をロイ兄が引いて、なんとか立たせようとしている。

「兄さま!」

 わたしはさけんだ。こちらをむいたロイ兄の、日焼けした顔がなつかしくて、大きく手をふる。

 ところが、笑顔で馬をおりて駆けよったわたしに、ロイ兄はなんと、竜用のむちをふりあげた。

「そのなりはなんだ! この恥しらず!」

 あまりのことに声も出ないまま、うなりをあげるむちを、わたしはとっさに身を引いてよけた。ところが、これがよくなかった――暴発した怒りをかわされたロイ兄は、そのまま言葉をうしない、息をつめて体をふるわせはじめた。その顔が見る間に赤くなり、赤くなり――わたしは一瞬、本当に、ロイ兄が怒りのあまり倒れるのではないかと思った。

 さいわい、兄はすぐに自分を取りもどした。あえぐように息をつき、わたしの腕を引く。

「話はあとだ。帰るんだ」

「まってよ、わたしは――」

 思わずあらがうと、ロイ兄はふたたび怒りを爆発させた。

「馬鹿を言え! こんなところにもう、一秒だって置いておけるか!」

 わたしは思わず、首をすくめた。頭の上でどなられ、泡だったつばがふりかかる。

「お前がホローにいると聞かされたときの、俺たちの気持ちを考えてみろ! 父さんなんて、頭に血がのぼって倒れかけたんだぞ。俺だってそうだ、血を分けた妹が、よりによって――」

 激するあまり声が裏返って、ロイ兄は大きく咳こんだ。いくどもつばを飲み、かすれた声でつづける。

「――俺が、ここにくるのだって、はじめ、父さんはゆるさなかったんだ。母さんが様子を見にいけとうるさいから、どうにか出てこられたんだ。でなきゃ誰がこんな、世間に顔向けもできないような、恥しらずの妹の顔なんか――」

 わたしはとうとう、兄の言葉をさえぎった。

「ちょっと、兄さま、誰が何をいったかしらないけれど、わたしはここに、同棲なんかしにきたんじゃないわ。働きにきたんだから! 恥しらずと責められる覚えはないわ」

「働きにだと? お前、あのホローの小僧と、いったい、いつ、そんな――! 大体、そんな話が信じられるか! 誰がどう見たって、お前のしたことは、どうしようもない恥しらずだ!」

「誰がどう見ようと、そんなこと知らないわ! とにかく、わたしはここに、働きにきたの! 幻獣使いの仕事を手伝いにきたのよ!」

「だから、そんな言い訳が――」

 言いかけたロイ兄が、ふいに口をつぐんで、わたしの顔を見た。

 ほんのいっとき、わたしたちは見つめあった。

 そして、ふと、ロイ兄が表情をかえた。その明るい茶色の目から、怒りの色が引いていき、そのまましばらく、わたしを見ていたけれど、やがて、ふうっとため息をついて、疲れたように顔に手を当てた。

「――じゃあ、やっぱり、そうだったのか。おかしいとは思ったんだ。ホローの若頭領、若頭領というが、そもそもお前は、やつとは一面識もないんだからな。一目ぼれして出奔ったって、そんな女らしい性格でもなし、惚れるならむしろ、人より獣のほうじゃないかと、俺は思わなくもなかったんだが――」

 ロイ兄は、そこで、さらに深いため息をついた。

「だがミリエル、それはあんまりにも、考えが足りなさすぎるぞ。お前も十六だ、こんな男一人のところに転がりこんで、世間がどう思うかわからないわけでもあるまい。それに、たしかに、節操もなさすぎる。お前にそのつもりがなくても、むこうがどう思っているかなんて、わかったものじゃないんだからな」

 わたしは思わず、声をあげて笑いそうになった。レイスにしてみれば、言いがかりもいいところだろう。

 けれど、思いとどまった。ロイ兄の態度が、思いがけず親身だったからだ。

「――わたしがレイスに一目ぼれして家を出たなんて、それ、だれが父さまにいったの?」

「家の牧童連中が、うわさしていたんだ。もちろん連中だって、面とむかってそんなこと、俺たちにいいやしないが、影でな。お前がホローにいた、そこらの農場のかみさんみたく、煮炊きなんかしてたって。――ホローに羊の買いつけにいった連中が、見たんだと」

 では、やっぱり、あの仲買人たちがしゃべったのだ。まあ、しゃべらないはずがない。

 でも、煮炊きってなに? うわさの尾ひれってすごい。

「おまえが街道を北に向かったってことは、早くにわかってた。ローヴィルを越えて、さらに北に行ったってことは。でも、その先がわからない。ルヴィレからは、道は東西に続いているし、どうにも見当がつかないとなったときに、父さまがいったんだ。今時分はクラパムで、草競馬をやってるってな」

「草競馬?」

 わたしはびっくりして聞きかえした。ロイ兄は、だまってうなずいた。

「……そこで父さんは、捜索をクラパムにむけさせたんだ。あいつは馬が好きだから、見にいったのかもしれないといってな。そうして、人ごみのなかで、ならず者連中にかどわかされたのかもしれないと」

 わたしは開いた口がふさがらなくなった。やっとのことで聞きかえす。

「……かどわかされる?」

 またしても、ロイ兄はうなずいた。濃い色をした太いまゆを、ぎゅっと額の真んなかによせて。

「とにかく、父さまがそう言いきってしまえば、誰にも反論はできない。わかるだろう。それで、使用人たちが何人か、クラパムまで走らされた。もちろん、何もみつけられなかったさ。そこで、捜索はもっと東に広げられた。サディンからヴェレーナ、セイレムまでな。それでも、お前は見つからなかった」

 ロイ兄は、大きなため息をついた。わたしも思わず、つられてため息をついてしまった。なんてこと。それで、なかなか迎えが来なかったのか。てっきり、わたしのことを怒るあまり、放っているのだと思っていたのに。

 つまり、父さまは、わたしがあの日、街道を、どこかで東に曲がったと決めつけたのだ。そうして、使用人たちのあいだに、わたしのうわさが広まるまで――とうとう、そのうわさが自分の耳に入るまで、街道の東ばかり、探しつづけたのだ。

 理由は明白。街道を西にいけば、すぐにホローだから。

 つまりは、父さまも、逃げていたのだ。一人娘が、呪われた天狼のいる牧場を目指したなんて、どうしても、みなの前でみとめられなかった。本当のことなんて、うすうすわかっていただろうに、自分がこうであってほしいと思うことしか、信じようとしなかったのだ。思わず、泣き笑いしそうになる。わたしと父さま、やっていることがそっくりだ。自分は獣使いになれると信じた娘と、娘は獣に近づいていないと信じた父親。――クラパムだなんて! そんな、酔っぱらいと馬しかいないような場所に、いったいわたしが、何の用があるというのだろう!

「とにかくミリエル、おまえはこのまま帰るんだ。そういうことなら父さんも、まだ、とりなしを聞くかもしれない。まあ、俺が家を出るときには、勘当だとさわいでいたがな――でも、結局、おまえは女なんだし、なんのかんのいって、父さんはお前のこともかわいいんだ」

「でも、わたし」

 言いかけて、言葉をのみこむ。ここでさらに我を張るのは、さすがにいけないことのように思える。

「でも、兄さま――」

「いいから乗れ。いいかげん、馬鹿なまねはやめろ」

 しずかにさとされ、腕を引かれて、わたしは竜の鞍に手をついた。すると、黒い革張りの座面から、竜の体内の火の温かさが伝わってきた。あれほどあこがれた、サラマンダーの背中。だけど今は、乗りたいとは思えなかった。またあの家に閉じこめられることを考えると、息がつまるような苦しさを感じる。

「でも、ロイ兄――」

 言葉をさがしながらも、あぶみに足をかけそうになった、そのときだ。

 背後から、しずかな声がひびいた。

「――でも、まあ、たしかに。お兄さんのいうことにも、一理ありますね」

 風のざわめきさえ消え失せるような、低くて、太い声。

 わたしたちは同時にふりかえった。目に入ったのは、狼だった。枝を広げた並木の下に、白い狼が立っていた。


 その瞬間。

 ――ほら、見なさい! 

 そう言いたくならなかったといえば、嘘になる。ほらね、しゃべるって言ったでしょ! と。

 でも、口にはださなかった。その権利はないと感じた。

 だって、シファは、わたしの獣ではないのだから。わたしとシファのあいだには、どんな絆もないはずなのだから。

 なのに、シファは、わたしのために口をひらいた。一度ならず、二度までも。その理由がわからないことが、今はむしろ、恐ろしくさえ思えた。

 白い体に木もれ日をおとし、狼が一歩、前にでる。

 すると、境界線のうえで、サラマンダーが一声、ギャアと鳴いた。おびえているのだ。

「……なにをする気だ」

 ロイ兄の言葉に、狼は白い尾をひとつ、ぱさりと打った。そのままじっと、こちらを見つめる。

 ごくり、とロイ兄がとなりでつばを飲む音が聞こえてきた。狼は動かない。ただじっと、その金色の目で――死を抱いた、金の目で、わたしたちを見つめている。途方もないその瞳に、そこにこもる太古の力に、わたしはおびえ、後ずさり――そして、最後に、こう悟った。

 今、ここで何かを言わなくてはならないのは、わたしなのだと。

「……あのね、ロイ兄。今は、帰って?」

 もつれた舌を動かし、ささやくように、わたしはいった。

 こんなに怖いのに。自分でも、どうかしていると思うのに。わたしはそれでも、まだ、帰りたくない。

 この、長いか短いかわからない人生のうちの、ほんのわずかな間だけでもいい。狼に、この美しい生きものに、かかわりたいと思ってしまう。

「見てのとおり、ホローでは、今は誰も、獣を呪ったりしていないのよ。ほら、この狼だって、自分の好き勝手にしているでしょう? それに、獣にかんする知識だって、ディースより、よっぽどたくさんあるし――」

 ――それを継承している人間じたいは、たったの一人しかいないのだが。

「だからわたし、今はまだ、ここにいたいと思ってるの。だって、いろいろ知りたいし、勉強したいんだもの――」

 自分でもわかっていた。それは、ほとんど見栄だけの言葉だった。わたしに獣のことを教えてくれるなんて、レイスは一言もいっていない。それどころか、おまえには無理だと一蹴されたのだ。

 それでも。

 その言葉は、わたしの、本当の気持ちだった。

 どうせもう、まともな将来はのぞめない。わたしの娘としての悪評は、もう、広く知れわたっている。

 なら、少しのあいだでもいい。自分の意思で、何かをしてみたい。

 どうせ、すぐ、家にもどることになるだろう。弱虫のわたしが、ホローで長く持つとは思えない。病気になるかもしれないし、怪我をするかもしれない。わたしの覚悟など、せいぜい、お嬢さまの避暑ていどのものだとわかっている。――それでも。

 頭痛でもするように頭をおさえ、ロイ兄はむずかしい顔をしていた。その目がわたしを見つめ、狼を見つめる。

 やがて、ロイ兄はため息をついた。

「……ミリエル。とにかく今日のところは、俺は、帰ることにする。それが、お前の意思ならな。ここにいるのを許したわけじゃないが、これじゃあ、俺には荷が勝ちすぎる。父さんの判断をあおがないと。――といっても、まず、信じてもらうのが大変だが」

 思わず、わたしは苦笑いした。お前まで天狼にたぶらかされたのか! そう言ってどなる父さまの顔が、目にうかぶ。

 でも、父さまがなんと言おうと、狼はしゃべる。竜だって、時と場合によってはしゃべる。事実なのだ、それは。

 ロイ兄はのろのろと、サラマンダーに向きなおった。革ひもの手綱をひろいあげ、うろこのかさなる首に手をおいて――そして、ふと、シファに目をむけた。

「なあ。あんたがしゃべるってことは、こいつもしゃべるのか」

 その言葉に、シファは、謎めいた視線をロイ兄にむけた。――同時に、手綱の下のサラマンダーも、その目をきろりとロイ兄にむけたのだけれど、ロイ兄は気づかなかった。

「……さあ。竜族はもともと、そういうことを好みませんが」

 探るようにシファを見たものの、ロイ兄はそれ以上、なにもいわなかった。竜の鞍にまたがり、手綱をひく。

 すると、サラマンダーが立ちあがり、翼をひろげた。一度、二度、大きく羽ばたく。

 とたんに巻きあがった熱い風を、手をかざしてよけながら、わたしはさけんだ。

「兄さま、母さまに、わたしは元気だと言って。心配をかけてごめんなさいって――」

 その言葉に、ロイ兄は顔をくしゃりとさせた。鞭をもった手を、空のうえから二度ほどふってよこす。

 そして、飛び去った。南へ。ディースへむけて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る