第20話
夕食にレイスがもってきてくれたパンは、焼きたてだった。わたしが眠っているあいだに、エステラが運んできたらしい。
これが食べおさめになるのだろう、エステラの焼いたパンを噛みながら、わたしはさっきのレイスの言葉を思いかえした。
幻獣が口をきくかどうかは、幻獣使いの素質とは関係がない――。
言われてみれば、もっともなことだった。ううん、本当は、言われなくても気づかなければならないことだった。考えてみればわかるはずだ。竜舎でただ一人、竜の言葉を聞くといったジャン爺――先祖代々の小作人で、みなには少しもうろくしていると思われていたジャン爺には、獣使いの血など、一滴も流れていなかったのだから。
老人と、子供。――わたしと、ジャン爺。ただそれだけのことだと、気づいていれば。
でも、気づかなかった。気づかない、ふりをしていた。自分には才能があるのだと、だから、兄たちとは違うのだと、そんな考えに、しがみつきたいばっかりに。
自分の愚かさを理解すると、あとにのこったのは、みじめな解放感だった。もう、意地をはる必要はないのだ。はる理由がないのだから。
毛布にくるまり、息をつく。
身のほど知らずなことばかり望む、ただの、馬鹿な小娘。――それが、わたし。
そう。わたしがここに来たその日に、レイスはいった。あんたに、生きものの世話は無理だと。
あの言葉が、すべてだったのだ。狼だろうと、竜だろうと、わたしに、命あるものをそだてる資格などない。自分の面倒すらみられないのに、ほかの生きものを抱えこめるはずがない。ヤン兄よりも、わたしの方がマシだなんて、そんな馬鹿げた優越感で、心がいっぱいになっているようでは、駄目なのだ。
それが、やっとわかった。さんざん、恥をかいたすえに。
一人、だまって目を閉じる。もう、涙は出なかった。
息をついて、目をあける。顔をあげると、開いた戸口の向こうに、黒い戸枠に区切られた、四角い夜空が見えた。
暗い影の、向こうの光。
そこだけが別世界のように、散りばめられた星。
毛布を引きずり、わたしは戸口を出た。敷居にすわり、空を見あげる。
すると、無数の星々が、わたしを取りかこんだ。
遠く、小さく、またたく光。白い炎のような、その輝き。一つ一つは小さな星が、暗い夜空をみたしている。――こぼれるほどに。まばゆいばかりに。
わたしはだまって、それをながめた。
淋しいような、悲しいような、静かな気持ちだった。
翌朝、目がさめると、レイスはいなかった。シファもだ。
かわりに、昔の彼のものらしい、小さめの服と帽子が、小屋のテーブルの上においてあった。着るように、ということだろう。
ごわごわしたシャツに、黒いズボン。いい年をした娘が、こんなものを着ていたら、道中、好奇の目で見られることはまちがいない。でも、それでも、今の、まともに足が見えるかっこうよりはましだ。それに、帽子で髪をかくせば、もしかすると、男の子だと思ってもらえる可能性もある――無理かしら?
それにしても、冷たいんじゃない? と、わたしは口をとがらせた。今日、出ていくと知っていながら、見送りもなしだなんて。お礼をいう機会も、ないじゃないの。
食事をすませ、皿をあらって外に出ると、山々がいつもよりも近くに見えた。荒々しくそりかえった山肌のうえで、陽をうけた岩壁がかがやいている。谷底の草原には草がなびき、その縁をいろどる針葉樹のうえを、風がふきぬけていく。
木々と、草と、水のにおい。冷えた岩山と、雪のにおい。
深呼吸をし、目をあげる。風が吹きおろす山々を見あげる。
すると、急に、つよい気持ちがこみあげてきた。涙がこぼれるほど、強い気持ちが。
なにかをしたい。もっと、なにかを。
もっと自由で、もっと、きびしいなにかを。
つよく、つよく、そう思った。
大きく息をすい、空をあおぐ。
自分の心に、たずねる。
わたし――わたしは。もう少し、ここで、やっていけるだろうか。今からでも、もう少しましなやり方で。その資格が、わたしにあるだろうか。
これ以上、レイスに迷惑をかけず、自分の面倒を、自分で見ながら。ディースに、あのなつかしい家に、もう一度閉じこめられるまえに、いろんなものを自分で見て、いろんなものに自分で触れて、せめて、心の中でだけでも、胸をはって帰ることができるように。
見あげた空は、澄んでいた。
その青を見つめるうちに、答えは出た。
やってみよう。あと少し、ここでがんばってみよう。帰れとレイスに言われたら、そのときはそのとき、考えればいい。人のせいにはせず、自分のことを、自分で引きうけるのだ。
空を見つめ、目をとじる。山からの風を、肌に感じる。
そのまま、どれだけの時間、そうしていただろうか。
やがて。一つ、息をすって、わたしはくるりとふりかえった。朝日をうけてならぶ、小屋と納屋を見つめる。たぶん、することは、いっぱいある。
さあ。まずは、なにをしよう?
――そう。まずは、湯浴みをしよう。この汚れた髪も体も、ぜんぶ洗ってしまうのだ。
お湯を使うしたくを、自分でするのははじめてだった。そんなことは、女中の仕事だと思っていた。生まれてから、今までずっと。ホローに来てからでさえ。
火をおこし、湯をわかす。ペーテルが、レイスがやっていたのを思いだしながら、おき火のうえに杉の葉をおき、さらに、細い薪をおく。あせらず、炎をよく見て、わたしにもできるはずだと念じながら――。
やがて、小さなきれいな火が、暖炉のなかで燃えはじめた。
さっそく、鍋に水をくみ、火にかける。沸きはじめたお湯をたらいにそそぎ、水を足して、ぬるま湯を作る。戸口をしめ、服をぬぎ、赤くなったやけどをぬらさないようにしながら、腰までのお湯につかる。
――いい気持ち。
肩にお湯をかけ、せっけんを使う。うす暗い小屋のなか、赤く明滅しながら、灰に変わっていくおき火をみつめる。小さいけれど、たしかな炎。ぬれた肌に、あたたかさが沁みいってくる。
さっぱりしてから、レイスのくれた服を着ると、子供のころにもどったように身軽だった。布がまとわりつかない足元の、なんて楽なこと! 身になじんだスカートやペチコートが、こんなにうっとうしいものだったなんて。
軽い足回りをたのしみながら、もう一度お湯を用意し、今度は髪をあらう。ごしごしとよごれを落とし、ぬれた頭のまま戸口にすわって、背中にながした髪がかわくのを待つうちに、心の底から、楽しさがこみあげてきた。さあ、つぎは、なにをしよう。
――そう、つぎは、洗濯をしよう。あの焼けてしまった服も下着も、ほこりっぽい馬用毛布も、全部洗ってしまうのだ。
さっそく、納屋のがらくたの中から、いちばん大きな鍋をえらんで、暖炉にはこぶ。毛布の洗濯などしたことがないけれど、家の馬丁たちが、馬用毛布を大なべで煮て洗っていたのは知っている。あれと同じようにすればいいはずだ。
石鹸をぬった毛布を鍋に放りこみ、水をそそいで火にかける。
それから、井戸ばたにすわって、服を洗った。服の洗濯だって、はじめてだけれど、このさい、やりかたなどどうでもいい。石鹸をもみこんでから、たらいですすぎ、きゅっと絞って放牧地の柵にかけると、わたしは冷えた手をふきふき、鍋のようすを見にいった。
鍋はすっかり煮たっていた。黒いあぶくがたくさん浮かび、いかにもよごれが落ちていそうだ。いい調子。
ところが、そこまできて、今度は、煮あがった毛布を、鍋から取りだす方法がわからないことに気がついた。火ばさみでつかんでも、重くて持ちあがらない。
考えたあげく、わたしは鍋のお湯を、手桶でくみだすことにした。くんだお湯を外に捨てては、水を足す。お湯を捨てては、水を足す。その作業をえんえんとくりかえし、最後に、くみ出せるだけのお湯をくみ出してから、一気に、鍋を暖炉から引きずりおろした。
がらん! がしゃん! 派手な音をたてて、鍋をのせていたレンガが、床にころがった。同時に鍋が炉床にお尻をつき、お湯がはねあがって、じゅうっと火が消えた。わたしは思わず、顔をしかめた――どうやら、またしても、火種を絶やしちゃったみたいだわ。
でも、気落ちしてはいられない。のこったお湯を、ちゃぷちゃぷとはねさせながら、わたしは鍋を戸口まで引きずり、土のうえを引っぱって、中身を草むらにあけた。それから戸口をふりかえると、かわいていたはずの暖炉は、灰まじりの水たまりと化し、つづく床と敷居にも、水と、灰と、鍋の太い這いあとが、川のようにくっきりと残っていた。
思わず、顔をしかめる。これを見たら、レイスは怒るかしら?
――まあ、いいわ。怒るなら、いさぎよく怒られよう。
毛布を鍋にもどし、井戸ばたですすぐ。どれだけ水をかえても、毛布からはきたない泡がわきつづけ、ようやく水が澄みはじめるころには、つるべをたぐる腕は痛み、全身が汗だくになっていた。せっかくさっき、体を洗ったのに――。
最後に、水をふくんで重い毛布を、柵にひっぱりあげて、ひねりあげる。薄灰色の水がじゃあじゃあと落ちて、毛布が少し軽くなった。そのまま広げて、一丁あがり。
あとは片づけだ。水びたしになった暖炉を、ぼろ布で拭く。床も掃いたけれど、くっきり残った鍋の這いあとは、どうやっても消えなかった。
ため息をつき、風を入れるために戸を開けはなして、ふと見ると、柵にかけられた毛布は、もとの三分の二くらいの大きさに縮んでいた。あれでは、寝たときに足が出てしまう――。
でも、まあ、いいわ。
レイスが帰ってくるころには、床も暖炉もかわいていた。それでも、小屋の戸を開けるなり、レイスは中をまじまじと見た。その目が外のぬかるみにとまり、鍋の這いあとにとまり、火の落ちた暖炉の、拭きあとにとまった。
しばらくだまったあとで、レイスはいった。
「……そういうことは、外でしてくれ」
いわれてはじめて、わたしは庭のまんなかに、焚き火用の石組みがあったことを思いだした。
なるほど……。
火打石と火口で、暖炉に新たに火をおこすと、レイスは外に出ていった。相変わらずの不愛想ぶりだったけれど、それでも、わたしは自分の唇に、小さく、笑みがうかぶのを感じた。何にかは知らないけれど、ともかく、勝った、という気がしたのだ――部屋を見まわしたレイスの顔に、たしかに一瞬、笑いがこみあげるのを見たから。
そして、そのせいかどうか知らないけれど、帰れ、とわたしにいうことを、一時なりとも、忘れてしまったらしいからだった。
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