第18話

 次の日。久しぶりに、ペーテルがホローにやってきた。いつものように上機嫌で、いつものように、ほがらかに。そして、畑を見るなり、こう言った。

「ああ、もう、こんなことじゃないかと思ったよ! あんた、ここんとこ、ぜんぜん面倒見てねえだろ。ほら、豆が、こんなに固くなっちまってさあ。あんたこれ、なんとかして食えよな。ああ、もう、せっかく俺が、給料分はたらこうとがんばってるのによ――でも、まあ、こんなことになってんじゃねえかとは、思ったけどよ」

 わたしはなんだか、泣きそうになった。レイスの仏頂面と、男たちの下品な笑いにはさまれて、もう、三日ものあいだ、まともに人と話をしていなかったのだ。

 ペーテルはいつものとおり、さっそく、しゃがんで草を抜きはじめたが、体を起こし、わたしの顔を見て、なにか考えたようだった。鎌をふるいながら、ペーテルは言った。

「あの連中、あんたに何かいったかい。ほら、きのうまで来てたろ――」

 わたしは首を横にふった。

「別に。顔を合わせないようにしてたもの」

「それがいいよな。俺だってさ、それで、ここに来なかったんだから」

 ペーテルは鼻をほじり、それを、ぬいた草といっしょに堆肥おきばへ放った。

「あいつらみんな、ここらの人間のこと、毛嫌いしてやがるのさ。呪われてるってな。へっ、昔は自分たちもさんざん、ホローの殿さまの世話になってたくせによ」

 ふん、と鼻をならすと、ペーテルはわたしを見て笑った。

「だから俺、あんなやつらがいないところへいくんだ。ほら、この夏が終わったら、あんたがくれる、あの金でさ。支度をととのえて、リスデンか、もっと南の街まで出るんだ。そんで、旅商いの商人かなんかに弟子入りするのさ」

「へえ」 

 わたしはおどろいた。

「あんたも、先のことなんて考えるのね」

「俺、もう十六だぜ」

 ペーテルはげらげら笑い、それからふと、真顔になってたずねた。

「でも、あんたはいったい、どうしてこんなところに来たんだい――ほんとに、だんなと恋仲じゃないってんならさ」

 その言葉に、自分の顔がこわばったのがわかった。それは、聞かれたくないことだった。答えようにも、答えがなかったからだ。

 仕方なく、冗談めかして、わたしはいった。

「家にいたくなかったのよ。誰も、わたしのことなんか気にかけないんですもの」

 ペーテルはますます、不思議そうな顔をした。

「だからって、なんだって、こんなところに来たのさ? よりによってよ?」

 『よりによって』。たしかにそうだ。今は、自分でも、そう思う。

 でも、そんなこと、みとめられない。後悔しているなんて、口に出せない。

 だから、なけなしの意地をはって、笑顔でこたえる。

「いいの。来たかったから、来たの。それだけよ」

「そうかい?」

 ふに落ちない顔をしながらも、ペーテルはそれ以上、なにもたずねなかった。



 そして、それからまたしばらく、ペーテルは来なかった。

 べつにかまわない。畑はきれいにしてあったし、なりつづけている豆も、レイスが自分で採っていたから。

 いちど、エステラが来て、あたらしいパンとチーズとハムをおいていった。聞くと、ペーテルは、村の親方の手伝いで出かけているということだった。

 じきに帰ってきますから、そうしたらまた、お嬢さまの手伝いによこします。そう、かたい声でエステラは言い、わたしも、そう、とだけ返事をした。

 谷にユリやシシウドが咲き、暦は七月に入っていた。山々に花があふれる、夏がきたのだ。

 でも、出かけようという気にはならなかった。気分が落ちこんで、力が出ない。

 それもそのはず、わたしの胴回りは、ディースにいたころから、二インチも減ってしまっていた。服は着たきりだし、肌着の替えもない。そもそも、もう半月以上、体を洗ってさえいないのだ。肌はべたべたするし、結いあげた頭はかゆい。恥ずかしいけれど、においもする。それも、かなり、ひどいにおいだ。

 手鏡を見れば、ばら色だった頬は荒れ、母さまゆずりの金茶の髪は、ぺたんと頭にはりついている。額のうえでもつれた前髪なんて、よごれた犬の毛みたいだ。

 湯あがりの肌に化粧水、結った髪に花をかざっていたのは、つい、この間のことなのに。家では、使用人ですら、週に一度は体を洗っていたのに。

 わたしは、納屋にこもりきりになった。小屋に食べ物をとりにいく以外は、一日中、寝床でごろごろしてすごした。レイスとは、極力顔を合わせないようにした――いつ見ても、体を洗った様子のないペーテルとちがって、レイスは案外、こざっぱりとしていたから。においなんてしないし、もちろん、垢もない。夕方、外から帰ってきたあとには、手や顔はもちろん、体まで、服を着たまま、ざぶざぶと洗っていたりする。暗いし、もちろん見てはいないけれど、音でわかるのだ。うらやましい話だ。ドレスだシュミーズだペチコートだと、やたらに重ね着していなければ、そういうこともできるのだ。女には許されないことだ――女だって、汗はかくというのに。

 このままずっと、体も洗えずに、よごれていったら、どうなるんだろうか。もっときたなくなって、くさくなって、いつかは死んでしまうんだろうか。

 それとも、ただ、きたなくなるだけで――どんどん、きたなくなるだけで、そうして、ただずっと、きたないまま、ここにいるだけの話なのかしら。

 戸口にすわり、ため息をつく。

 誰に言われなくても、もう、わかっている。

 わたしには、家を出るなど、無理だったのだ。



 目を覚ますと、あたりは暗かった。

 なにか固いものに腰かけているらしく、おしりがいたい。

 わたしは顔をあげた。すると、どういうわけか、レイスがわたしの目の前に立っていた。そのまま、横を通りすぎていく。

 そこでわたしは、自分が小屋の戸口にすわったまま、眠りこんでいたことに気がついた。固い敷居に腰かけたまま、寝てしまったのだ。

 戸口をくぐり、小屋に入ったレイスは、暖炉のまえにしゃがんで、火を起こしはじめた。

 やがて、ゆらめく炎があたりを照らし、その明るさに、ようやく、はっきりと目が覚めたわたしは、思わず身じろいだ。

 ――これは、まずい。とてもまずい。

 ここ五日ほど、レイスとは顔も合わせていなかったのに。今日だって、レイスが帰ってくるまえに、納屋にひっこむつもりだったのに。こんなところで、こんなふうに、顔を合わせてしまうなんて。

 どうしよう。なんと言おう。回らない頭で必死に考えるうちに、またしても、水桶を手にしたレイスが近づいてきた。敷居をふさいだわたしのひざを、物のようにまたいで、出ていく。

 ――なるほど、そうくるわけね。むっとしたわたしは、眉をよせた。一言、邪魔だといってくれれば、すぐにどくのに。それすら、言う気がないというのね。

 水をくんでもどってきたレイスは、またしても、だまってわたしをまたぎ、暖炉の前にしゃがみこむと、くんできた水を鍋にかけた。椅子に腰かけて豆のすじをとり、それが終わると、ふたたびこちらに近づいてくる。

 ――さっき、どけ、といわれなかったのだもの。こちらからどいてあげる義理などないわ。わたしは頑固に、戸口にすわりつづけた。するとレイスが、いらだったようにこちらを見た。けれど、なにも言わない。犬や猫でもまたぐように、人をまたいで出ていく。

 ――なによ、邪魔なら邪魔って、言えばいいだけのことじゃない! わたしはますます腹を立て、わざと顔をそらして地面をにらんだ。本当に、いやなやつ! わたしとは、口をきくのすらごめんだというわけね!

 いっそこのまま、納屋にもどって寝てしまおうか。そうも思ったけれど、できなかった。昼御飯も食べずに寝たせいで、お腹がぺこぺこなのだ。

 でも、だからといって、夕食のしたくを手伝うわ、などと、殊勝なことを言う気にもなれない。――言いだす、勇気がない。

 そのうちに、レイスが外の暗がりから戻ってきた。片手に玉ねぎの束を、反対の手に、大きな薪の束をかかえている。

 そして。

 あっ、と思ったときにはおそかった。がつ、とにぶい音がして、レイスのかかえた薪が、わたしのこめかみにぶつかった。

 痛いというよりはおどろいて、わたしは頭に手をやった。

 まず思ったのは、ディースの女中がこんなことをしたら、鞭で打たれても文句は言えない、ということだった。もちろん、レイスは女中などではないけれど、それでも、ありえない無作法だ――令嬢に、薪をぶつけるなんて!

 でも、同時に、相手がわたしだからこそ、レイスはこんな態度をとったのだということも、わたしはちゃんとわかっていた。たとえ、相手が犬や猫でも、レイスはこんな態度はとらないだろう。相手が宿無しの浮浪者だとしても、もっと気を使うだろう。わたしはそれだけ、彼を怒らせたのだ。もう、ずっと、怒らせつづけているのだ。

 心臓がどくんと打ち、体がひやりと冷たくなる。それが怒りのせいなのか、後ろめたさのせいなのかも、もう、わからない。どちらにせよ、素直になんかなれない。自分が悪いなどと認めたら、くずれてしまう。どこにも、いられなくなってしまう。わたしはこぶしをにぎって立ちあがった。

「なによ! どいてほしいなら、そういえばいいじゃない!」

 すると、さすがにおどろいたのか、暖炉のまえのレイスがふりかえった。けれど、すぐに、目をそらす。こちらに背をむけ、火かき棒で灰をかく。

 これでもまだ、無視するの? 浮かんだ涙を手でこすり、わたしはずかずかとレイスに歩みよった。 

「わたしのこと、役立たずだと思ってるんでしょう! 馬鹿だと思ってるんでしょう! だったらそういいなさいよ! 面とむかってはっきりと!」

 たたきつける言葉は、途中から涙声になった。でも、もう、かまうものか。どうせ、わたしなんか、どうしようもないんだ。

「仕事しろっていうなら、そういえばいいでしょう! 出ていけっていうなら、そういえばいいじゃない! なんで黙ってるのよ! あんた馬鹿なんじゃないの?」

 これには、レイスも立ちあがった。

「馬鹿はあんただろう? わかっているなら、さっさと出ていけよ! 仕事ったって、そうやってわめく以外、あんたに何ができるんだ? 何もできやしないだろうが! いいかげん、恥を知ったらどうだ!」

 わたしは唇をふるわせた。熱くほてった頬に、くやし涙がこぼれる。

「――っ、やればいいんでしょう、やれば!」

 言いすてて、手をのばし、レイスの火かき棒をうばおうとした、そのときだ。

「馬鹿っ!」

 体をひいたレイスが、急にどなった。

 その視線をおって、わたしは自分の足もとを見た。

 ――しゅっとさばいたはずの、綿のスカートに、火がついていた。

 火はスカートをかけあがり、前髪に熱風があたって、わたしはおもわず後ずさった。けれど、火は、わたしについてきた。めらめらと服が燃え、痛いほどの熱が腿にあたり、口から悲鳴がとびだす。

「くそ!」

 レイスが外にかけだす。でも、まにあうはずがない。井戸のつるべを上げるあいだに、全身が燃える。

「いやあっ!」

 叫び声をあげた、そのときだ。わたしの体に、生ぬるい水があびせかけられた。

 目をあけると、戸口のところに、空の洗い桶を手をしたレイスがたっていた。その姿をまじまじと見てから、わたしは自分の足元を見おろした。びしょ濡れの床に、割れたカップや皿が散らばっている。

 ――昼間、わたしが使って、水に漬けただけで出しておいた食器。

 かかえた洗い桶を放りだすと、レイスはふたたび外にでて、くすぶる服に、さらに二度、バケツで水をあびせかけた。つかつかと近づいてくる。わたしをにらみつける。

「――死ぬなら、他所で死んでくれ」

 そうつぶやいた声は、はっきりとふるえていた。こぶしをにぎった手も、ふるえていた。そのまま背をむける。外に、走り出ていく。

 ペチコートまで焼けた姿で、ぬれた床の上に、わたしは立ちつくした。 

 それから、納屋にかけこんで、どうしようもなく泣いた。

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