第17話
そして、次の日。
朝もまだ早いうちに、三台の荷馬車が、ホローに乗りこんできた。御者台と荷台には、大声でしゃべり散らす、七人の牧童がのっている。
牧童たちは馬車からおりると、谷底の草原に作られた、羊を追いこむ囲いのまわりで、ぶらぶらしはじめた。何をするでもなく、ぶらぶらしている。
わたしはけげんに思いながらも、小屋のなかで息をひそめていた。ときおり聞こえる、下品な冗談をきけば、姿を見られればどういうことになるか、だいたい予想がついたからだ。
いらいらと歩きまわっては、戸口から外をのぞき見る――牧童たちときたら、一向に、仕事をはじめる気配がない。どうして、羊を追いにいかないのだろう。さっさとどこかにいけばいいのに!
けれど、やがて、その答えがわかった。
朝日のさしこむ谷底を、ベエベエと鳴きちらす、羊の大群が駆けおりてきたのだ。
草を蹴たてて走ってくる、白黒まだらの小柄な羊。
全部で数百頭はいる、その群れの後ろにいるのは、シファだった。風切り羽を陽に透かせ、白い飾り毛をなびかせながら、空を駆けてくる。
天狼が、羊を追っている! 驚きのあまり、わたしは戸口からころがり出た。
なんてこと――雷をよぶ伝説の狼が、牧羊犬の真似ごとをしているなんて!
庭を走り、天を仰ぐ。羊を追うシファは、美しかった。地面すれすれまで急降下し、かと思えばいきなり舞いあがって、その踊るような身のさばき一つ一つで、群れを自在にあやつっていく。走らせ、とまらせ、また走らせて、あっという間に、羊を、男たちの待つ囲いのなかに流しこんでいく。
わたしは思わず、歓声をあげた――そうだ! こういうのが、見たかったのだ! こんなふうに、空を舞う狼が!
そこからの作業は、いちだんと妙だった。羊がすべて囲いに入ると、牧童たちは、ガタゴトゆれる馬車を草原に乗り入れ、羊の囲いに横づけした。そして、羊を手当たりしだいに、柵のついた荷台に放りこみはじめた。ぎゅうぎゅうにつめていっぱいになると、御者台にすわり、出発する。なんともおかしなやり方だった。
わたしは疑問をおさえきれず、馬車が三台とも出はらったすきに、レイスのところまで駆けていった。
「なに、あれ? なんであんなふうにするの?」
羊は、犬で追うものだ。生きたまま馬車に積んでいくなど、聞いたこともない。
けれど、囲いの柵を点検しながら、レイスはあっさりと答えた。
「仕方がない。犬を見たことのない連中だからな」
わたしはぽかんと口をあけた。
犬を見たことがないって、誰が? もしかして――
「――羊が?」
「そうだ」
「嘘でしょう!」
思わず、大きな声をあげてしまう。
だって――そんなこと、ありうるの? だって――
「だって、それじゃあ、毛刈りはどうするの? ほっといたら、伸びすぎて死んじゃうじゃない! それに子羊は? 乳しぼりは? 産屋だとか、焼印だとか、そんなの全部、どうするのよ?」
「毛は刈っていない。刈らなくても勝手に生えかわる。子羊だって、生まれるときには、勝手に生まれる」
今度こそ、わたしは耳をうたがった。
「生えかわる? 冗談でしょ! 犬や猫じゃあるまいし!」
「ここの羊は、ふつうの綿羊じゃない」
顔色も変えずに、レイスはいった。
「羊のなかでも原種に近い、天狼の生息地近くにすむ種だ。もともとが野生だから、七月になれば、勝手に毛が生えかわる」
その言葉に、わたしは思わず、柵の中の羊を見た。
白に黒のぶちの入った、ひどく小さく、不恰好な羊を。
「先々代が、北方の原野から取りよせたそうだ。ありきたりの綿羊では、天狼の餌にはふさわしくないといって。まあ、実際のところは、血統の行きづまりを、餌を変えておぎなおうとしただけだろうが」
淡々と、レイスはいった。囲いのなかの羊を、暗い色の瞳で見つめながら。
「……そんな、馬鹿な」
わたしはつぶやいた。
それ以上、言葉がみつからない。だまりこみ、羊を見る。柵のなかにつめこまれた羊たちを。
なんてこと。
――なんてことだ。
これは、ちがう。わたしの知っている牧場とはちがう。
ディースでは、収入のほとんどを、竜ではなく、羊から得ていた。よぶんな羊を売ったり、羊毛を売ったりして。ううん、ディースにかぎらない。どこの幻獣牧場だって、そうだ。幻獣の飼育は、いわば名誉職。王侯貴族のために獣をあやつり、その威光に箔をつけるのが、わたしたちの仕事。牧場の、実際の経営を支えているのは、獣の餌の名目で所有をゆるされる羊と、それを支える土地なのに。
――なのに。
天狼の故郷からつれてこられたという、小さな、やせっぽちの羊。
勝手に毛が生えかわるという、奇妙な羊。
そんな羊、市に出しても、買う人などいない。そんなうさんくさいしろものからは、まずまちがいなく、一銭のお金も手に入らない。
それで、どうやって食べていくのか。使用人をやしなうための収入を、どこから得るのか。
――いや、そもそも、そのまえに。
どうして、狼のために、そこまでするのか。
ホローの領主は代々、狼に呪いをかけていたという話が、急に、現実味をもって思いだされてくる。目の前でベエベエと鳴く羊たちが、急に、不気味なものに思えてくる。犬を知らず、牧童を知らず、荷物のようにはこばれる羊たち。おそらくはこのまま殺されて、犬の餌にでもされるのだろうに――。
古びた柵に手をつき、わたしは呆然とあたりを見まわした。
なんだか、わからなくなってきた。
ここは、いったいどこだろう。わたしはどこに来てしまったのだろう。
のろのろとうつむき、目の前の羊を見下ろす。
すると、ついさっきまでここにいた牧童たちの、おびえた表情が目によみがえった。狼の影が体にかかるたび、彼らは加護を祈る言葉をつぶやき、指を組む、古い魔よけのまじないをしていたのだ。
――そう。
ホローは、おそれられている。
忌まれている。
たぶん、それだけの理由があるのだ。
それから二日のあいだ、男たちはホローに通ってきた。
そのあいだじゅう、わたしは小屋のなかにかくれていた。
けれど、仲買人が羊の支払いをするときだけは、戸板のうしろで聞き耳をたてていた。
支払われた代金は、五十デュカット。
羊五百頭の代金としては、ありえない小額だった。
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