第16話

 ……たしかに、認めざるをえない。わたしはいらいらしていた。自分でも、ちょっとどうかしていると思うぐらいに、いらいらしていた。

 だって、しょうがないのだ。ここの暮らしときたら、あんまり馬鹿げているんだもの――毎日、毎日、型で押したように、玉ねぎとチーズ、玉ねぎとチーズ! いいかげん、どうにかなりそうだ! 

 ああ、ブイヨンたっぷりの、柔らかい肉の煮込みが食べたい。冷たいゼリーや、ムースが食べたい。

 でも、ない。あるわけがない。

 なにしろ、ここには何もないのだ。

 朝、起きても、顔をあらう水を用意してくれる女中はいないから、わざわざ外に出て、井戸の水をくまなくてはならない。身支度がすんで、食事にしようと思っても、召使いも給仕もいないから、自分でお皿に料理を盛らなければならない。

 午前と午後のお茶はないし、あまいお菓子もないし、そうじをしてベッドをととのえる人もいない。服は着たきり、顔は洗うだけ、体を洗うお湯にいたっては、次はいつ使えるのか、見当もつかない。

 けれど、それより何より忌まわしいのは、お手洗いだった。ホローのお手洗いときたら、それはそれは恐ろしいものなのだ。地面に穴をほり、まわりに板をたてただけ――すきまだらけの壁にかこまれた、土の穴、それがお手洗いなのだ! 

 一目見たとたん、わたしはふるえあがった。ぶんぶん飛びまわる虫に、気が遠くなりそうな悪臭。生まれてから一度だって、こんなけがらわしい場所に足を踏み入れたことなどない。ほかの何を共有することになろうとも、このお手洗いを、男の人と共有することなどできない! 

 なのに、共有するしかないのだ。

 毎朝、寝床のなかで、自分はディースのベッドにいるのだと思って目をさます。ハエの飛ぶお手洗いなど、わるい夢。つづき間のむこうには、あの、見なれた化粧室が、花柄の壁紙に、陶器の洗面器、香水のびんがならぶ化粧室があるのだと――

 なのに、目をあけると、見えるのは、玉ねぎのならんだ天井なのだ。

 これでは、気力の出ようはずがなかった。じきに、わたしの日課は、昼まで寝ることと、レイスの作った食事を食べることだけになってしまった。

 あとはただ、戸口にひざをかかえてすわるだけ。まあ、それでも、ペーテルがやって来たときぐらいは、一緒に畑にいくけれど――だって、ペーテルとなら楽しくおしゃべりができるし、それに、ペーテルに意気地なしと思われるのは、なんだかしゃくな気がしたのだ――それ以外は、なにもしない。する気になれない。

 重い体を引きずり、戸口にすわる。うす汚れた服のひざをかかえる。

 ホローに来て、もう、十日。

 もう、家には帰れない。

 父さまは、わたしを許さないだろう。持参金さえもらえるなら、牝牛とでも結婚する花婿のもとに、さっさと送りこむだろう。それはそうだ、こんなに素行のわるい娘、片づけようと思ったら、もう、そうするしかない。それはまったくそのとおりで、異のとなえようもない――。

 組んだ腕に、顔をうずめる。目をつぶり、ぎゅっとひざを抱く。

 自分でも、わかっている。――わたしの人生、完全に手詰まり。

 じわりと目に涙がわいて、わたしは足もとの洗い桶を、足先でこつんとつついた。

 すると、水につかった食器のふちに、細かなさざ波がたった。同時に、桶のうちがわに、ゆらゆらと日の光がゆれる。

 それを見つめ、目を閉じる。日の光が、じりじりと、首や腕を焼くにまかせる。

 だって、いいのだ。いくら日に焼けたって、もう、いいのだ。どんなにそばかすがふえたところで、わたしの娘としての値打ちが、これ以上、下がることなど有り得ないのだから――。

 そのまま、ひざをかかえて、うつらうつらしていた、そのときだ。

 蹄鉄の音をひびかせて、小道から男が入ってきた。

 

 わたしは顔をあげ、それから、あわてて立ち上がった。みがいた鋲がひかる馬具に、上等な身なり、ととのえられた口ひげ。すこしお腹が出ているけれど、堂々とした風采の、中年の男だ。

 わたしを見て、男はおどろいたようだった。息をのむような顔で、棒立ちになる。

 その様子に、わたしも相手のことを思いだした。たしかに、会ったことがある。前からディースに出入りがあり、わたしとも挨拶をかわしたことのある、羊の仲買人だ。

「……これはこれは」

 低くつぶやくと、仲買人は馬上からわたしを見おろした。自分の姿を思い出し、わたしは赤くなった。髪はぼさぼさ、洗ってもいない普段着で、戸口にすわりこんでいるなんて! 今まで、こんなだらしのない格好で、人前に立ったことなどない。

「……なんということだ。お父上がお嘆きになりますな」

 そう言うと、仲買人は、数歩、馬をこちらに近づけた。とがらせたひげの下に、薄笑いをうかべる。

 そして、その笑いに、わたしはぎくりとした。それは、わたしが生まれてはじめて見る種類の笑みだった。卑しい商売をする女を、見下しながら眺めるような、下卑た笑み――その笑みは、わたしに告げていた。おまえはもう、ディースの広間にいた、あの、きれいな令嬢ではないのだと。道をあやまり、男との不品行におよんだ、みだれた娘なのだと。

 顔が赤くなり、体がふるえる。

 なぜなら、目の前の男は、はっきりと楽しんでいた――その、無遠慮な、品のない視線で、わたしをいやしめることを。

 いたたまれない沈黙をやぶったのは、翼の音だった。来客に気づき、レイスとシファがもどってきたのだ。舞いおりてくる牧場主に気づくと、仲買人は馬をおり、帽子をとった。取りつくろうような笑みをうかべ、会釈をする。

「今、こちらのご婦人と、お話をさせていただいておったところです――いやあ、しかし、なかなか。ご当主も、すみにおけませんなあ」

 その言葉に、レイスはじっと仲買人を見た。それから、わたしに目をむけて、淡々といった。

「いや? そのご令嬢は、勝手に納屋にいすわっているだけだ」

 そして、その一言で、仲買人の顔に、かすかな失望がひろがるのを、わたしは見た。期待したような醜聞が、実際には存在しないことを、するどく悟った顔だった。ほっとしたあまり、体の力がぬけそうになり、わたしは深く息をついた――ありがたいことに、人間ぎらいのレイス・ホローには、下卑た勘ぐりも通用しないのだ。

 背筋をのばし、精一杯、威厳をよそおって納屋にもどる。庭では、男たちが何事もなかったように商談をはじめていた。

「それで、このあいだお話しした、例の羊ですがね。今回はどのくらい、ゆずっていただけるもんでしょうかね?」

「だいたい、五百ほど」

「そのうち、雄は?」

「三分の一から四分の一」 

 交わされる奇妙な会話に、耳をすませる。市の季節でもないのに、羊を売る相談? ううん、そもそも、このホローの一体どこに、売るほどの羊がいるのだろう。

 とはいえ、会話を聞くかぎりでは、レイスはこの手の商談に慣れているらしい。道具の貸し借りや、仕事の段取りを、てきぱきと決めていく。ということは、ホローでは、羊の売買はよくあるということ? でも、だったら、その羊はどこにいるのよ?

 盗み聞きにもあきてきて、わたしは寝棚に腰をおろした。目をとじて、思いうかべる。あの仲買人が街にもどり、今日の出来事を言いふらすところを。いやはや、正直、おどろきましたな――あのディースのご令嬢が、見る影もない姿でね。まったく、今の若い者はどうなっておりますやら、世も末ですな――。

 首をふり、頭のなかから、仲買人の薄笑いを追いはらう。

 それから、だまって、心の中で認めた。

 ホローにきたあの日、すぐ、うちに帰るべきだったのだ。何を差しおいても、もどるべきだったのだ。不純な娘と見なされたとたん、男たちから、あんな目を向けられるのなら。

 そうだ。認める。母さまは正しかったのだ。ミリエル、若い娘にはね、評判こそが、何より大事なものなのよ――ずっとそう言われつづけてきたのに、わたしには、その意味がさっぱりわかっていなかったのだ。

 やがて、仲買人は帰っていった。わたしが納屋から出ていくと、まだ庭にいたレイスが、ちらりと一瞬、こちらを見た。わたしはとっさに強がった。

「さすが。ホローのご当主ともなると、多少の醜聞ではびくともしないのね」

 すると、冷たい顔で、レイスはいった。

「恥をかいたのは、あんただろう。俺じゃない」

 わたしは返事をしなかった。レイスのいうとおりだった。

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