第12話

 道は、放置されて若木が生えはじめた牧草地のなかを、南へくだっていた。谷の斜面をおおう、すずしげなカラマツ林を見あげ、シラカバがおとす木漏れ日をくぐって、わたしは歩いた。道ばたには、春の花が咲きみだれていた。柵にからみついた野ばらに、わだちの脇でかがやく、黄色と白のタンポポ。ちらちらした青い花のリンドウに、草むらから赤紫色の花をもたげるクサフジ。

 けれど、歩いても歩いても、館はおろか、田舎家一軒見えなかった。誰にも会わないし、煙もない。そのうちに谷を出てしまい、行く手にひろがる草原の向こうに、昨日通った、石垣のある野道が見えてくるにいたって、とうとう、わたしはあきらめた。あの石垣の向こうはもう、ホローの領地の外だ。

 ぶらぶらと引きかえし、今度は小屋のまわりをしらべてみる。

 小屋の裏には果樹が植えられ、ひざまでのびた草の上に、すずやかな木影をつくっていた。朱色の花を咲かせたザクロ、熟れきった実をおとしたアンズ、枝をはったクルミ。蛇に気をつけながら、草のなかをすすむ。空へと伸びる杉を見あげ、納屋の裏にならんだオリーブの横を抜けていくと、その先に――別に、さがしていたわけではないけれど――レイスの言っていた、畑を見つけてしまった。鶏よけ柵にかこまれた、こじんまりとした一画は、昔は、牧童小屋つきの菜園だったのだろう。

 けれど、今は――

「――なによ! こんなにしておいて、人にやらせようっていうの?」

 わたしは思わず、声に出して文句をいった。

 菜園の柵のなかに生えているのは、どう見ても、野菜ではなく、草だった。

 たしかに、目をこらせば、作物はある――たけだけしくのびた雑草のあいだには、ズッキーニらしき葉が広がっているし、じゃがいも、トマトとおぼしき、埋もれかけた茂みも見える。すきまなく生えた草の中からは、ふわふわしたにんじんの葉が、ところどころ頭をのぞかせているし、やぶのうえでからまりあっているつるは、たぶん豆だ。

 でも、とにかく、草、草。草ばかり。これはもう、畑じゃない。草でできた池だ。おまけに、柵の木戸には、つる草が巻きついて、満足に開きすらしないときている。

 あきれて立ちつくすわたしの肌を、六月の太陽がじりじりと焼いた。羽虫が音をたてて首のまわりを飛び、大きなカメムシがこつんと腕に当たる。

 ――こんな中で働く? 冗談でしょう! 

 憤然と髪をふりたて、わたしは納屋の壁ぎわまでしりぞいた。すずしい日陰に腰をおろし、ひさしのむこうの空を見あげる。

 すると、ぽつぽつと浮かぶ白い雲が目に入った。高く飛ぶ、黄色と黒のアシナガバチ。ひらひらした白い花をつけた野ばらが、軒下から枝をのばしている。

 ――これがもし、避暑かピクニックに来ているのだったら、ずいぶん、すてきな場所だったでしょうに。

 ため息をつき、ひざを抱えていると、さっきの小道のほうから、ひづめの音が聞こえてきた。

 ――まさか、お客? もしかして、誰かがわたしを迎えに来たのかしら! 

 わたしは思わず、頭を出して小道をのぞいた。けれど、ちがった。柵のむこうから姿を現したのは、みすぼらしい毛並みのロバにまたがった、みすぼらしい、見知らぬ少年だった。木立ちをくぐり、庭を横切って、少年はこっちに近づいてきた。そして、なれなれしくも、わたしのすぐ前にロバをとめ、鞍のうえから畑をながめると、なぜか、ぱあっと笑顔になって、こう言った。

「こりゃ、ひでえ。こりゃ、駄目だ。なあ?」

 思わず身を引きながら、わたしは答えた。

「駄目って、なにが?」

「こんなんなっちまったら、鍬じゃきかねえ。手でぬくしかねえな」

「はあ? 冗談言わないでよ!」

 思わず声をあげたわたしを、少年はびっくりしたように見つめ、それからまた笑った。目立つところの歯が、折れて欠けている。

「なっにが冗談かね。しっかし珍しいなあ。だんなが畑をこんなにしてるとこ、はじめて見た」

 はじめてだろうがなんだろうが、そんなこと、もちろん、わたしにはどうでも良かった。

「冗談じゃないわ! こんなの、いちいち手で抜いてたらどうなるのよ!」

「別に、どうにもなりゃしないだろ。ま、いちんち二日はかかるかな」

「そんな訳ないでしょう! 十日あったって無理だわ」

「そんなにかかるかよ。赤ん坊じゃあるまいし」

 品のない口を大きくあけて、少年はまた笑った。わたしはおそるおそるたずねた。

「だいたい、あなた誰よ」

「おれ? ペーテルってんだ」

 そういって、ロバからおりる。わたしは思わず、一歩下がった。そばかすだらけの頬に、そばかすだらけの鼻。毛織りのチュニックに、毛織りのズボン。歳はたぶん、十六か十七。ありていにいって、かなりむさ苦しい。そして臭い。かなり長いあいだ、お風呂に入っていないにおいがする。服も洗っていないだろう。思わず、しげしげと見る――話にしか聞いたことのない、いわゆる、貧しい農夫。

 ところが、興味深々は、相手もご同様だった。ペーテルはわたしと同じくらい熱心に、わたしをながめ、にやりと笑って、とんでもない台詞をはいた。

「で? あんたはなに? 若だんなの女?」

 怒りのあまり、わたしは喉がつまりそうになった。

「――失礼な! 誰があんな!」

「何が失礼なもんか。いいだろうよ、だんなはいい男だろうよ――こりゃあ、姉貴もかわいそうに」

「馬鹿いわないで! ちがうわよ!」

 大声をあげて叫んでも、ペーテルのにやにや笑いはとまらなかった。したり顔で、わたしを指さす。

「だって、そうじゃなきゃ、あんた誰なんだよ」

 きたない指を突きつけられ、わたしは思わずたじろいだ。言葉につまりながら、言いかえす。

「――それは、つまり、わたしは、獣使いなの! れっきとした、ディースの! だから、ここで修行してるのよ! あんたのいうようなんじゃ、絶対にないんだから!」

「へっ、それこそ、馬鹿いわないで、だ。あんた女じゃねえか。それに、ここには獣ったって、一匹しかいねえしよ。だいたい、話が通らないだろ、あんたみたいな美人がさあ――」

 値踏みをするようにわたしをながめ、ペーテルはまたしてもにやにや笑った。――なんという無礼! わたしは怒りでどうにかなりそうになり、こぶしをにぎって地団太をふんだ。

「あなた、それ、もう一度でもいったら承知しないわよ! ちがうったら、ちがうのよ! わたしがここにいるのは、彼の狼が、そうしろと言ったからなんだから!」

 言ってしまってから、青くなった。嘘だ。狼はわたしを連れかえることを拒否しただけで、わたしにここにいろとは、一言もいっていない。それに、狼がしゃべることを、口外していいのかどうかもわからない。

 ところが、この言葉の効果はてきめんだった。

「え? 狼ってなに、あの狼? ……あんた、あれとしゃべんの?」

 急に腰がひけたペーテルに、わたしは思わず胸をはった。

「そうよ。わたし、これでも獣使いですもの」

 これまた大嘘だったが、この強がりはきいた。ペーテルは意外なほど不安げな顔になり、後ずさるように、乗ってきたロバににじりよった。

「――ま、いいや。おれとりあえず、姉貴に頼まれたもん、持ってきただけだもん」

 いいながら、鞍につけた袋をあけ、布包みをとりだして、わたしに抱えさせる。とたんに、わたしのお腹が、はしたなく、ぎゅうっと鳴った。布包みからは、焼きたてのパンの香りが、こうばしく香っていたのだ。――ホローにパンがあるのは、こうして持ってくる人がいるからなのだ。ここには、パン焼き釜などありそうにないもの。

 鞍ぶくろの口をしめると、ペーテルはそのまま、ロバにまたがった。わたしはあせり、パンをかかげた。

「まってよ。これ、どうしたらいいの?」

「お代ならもう、若だんなにもらってらあ」

 いうなり、ペーテルはロバに一蹴りいれた。手渡されたパンを抱えたまま、わたしは遠ざかる姿を見送った。けれど、ふいに、いいことを思いついて、声をあげた。

「まって!」

 呼びとめたのに、ペーテルは気づかなかった。あるいは、気づかないふりをした。

「まちなさいよ!」

 パンを抱えたまま走り、追いついて鞍に手をかけると、ペーテルは少し、おびえたような顔をした。かまわず、まくしたてる。

「あなたさっき、この畑を一日か二日で何とかできるって言ったわよね。だったら、やってよ。わたし、お給金、あげられるから」

 ペーテルはけげんな顔をした。

「……なんだよそれ。だんな、いいっていったのか?」

「この畑をなんとかしろっていわれたのよ。でもそんなの、わたしにできるはずないでしょ。やり方だってしらないのに」

「だんなに教わりゃいいだろ」

「教えてくれないわ。わたし、嫌われてるもの」

「なんだよ、そりゃ」

 ペーテルはむずかしい顔になった。ぼりぼりと首をかき、しばらく考える。それから、少しばかり不本意そうに――でなければ不安そうに――こう聞いた。

「……もしやったとしたら、あんた、いくらくれるのさ」

「相場を知らないわ」

 ペーテルは畑を見やった。

「まあ、手間賃として、一日半グロッソってとこか」

「いいわ。でも、両替しないとはらえないわ。小銭を持ってないの」

 その言葉に、ペーテルはちょっとげんなりした。これだからお嬢さまは、とでもいいたげだった。わたしはむっとし、世慣れたところを見せたくなった。

「じゃあこうしましょ。あなたがこれからわたしを手伝ってくれたとして、わたしは六月の末に、あなたに一スクードわたすわ。そのかわり、あなたは草引きが終わったあとも、わたしに畑の仕事を教えたり、手伝ったりしてちょうだい。それで、その働きがよければ、七月の末に、もう一スクードわたす。どう?」

 たしかにお金があることを示すため、わたしは服のかくしから、小さな銀貨を一枚取り出して見せた。すると、ペーテルは、あからさまにぎょっとした――たぶん、銀貨というものを、生まれてはじめて見たのだ。

 しばらく考えたあと、ペーテルは早口にいった。

「いいよ、それで」

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