第11話

 と、いうわけで。

 どうしてそうなったのかも良くわからないまま、わたしはホローに泊まることになった。泊まっていいと言われたわけではないけれど、追い出されもしなかったので、自然にそうなったのだ。

 ところが、泊まるなら泊まるで、それもまた、大問題なのだった。未婚の娘が、男の人――どれほど若くて嫌味で失礼でも、男の人は男の人だ――と二人で夜をすごすなんて、あってはならないことだ。

 わたしは頭をかかえたが、それは、向こうも同じだったらしい。浅黒い肌をした、ホローの当主――名を、レイス・ホローという――は、いつのまにか小屋からいなくなり、そのままもどらなかった。

 一人のこされたわたしは、小屋のなかを見まわした。壁はしっくい、床は土間という質素な小屋は、ディースの玄関ホールよりもずっとせまく、わたしの目は自然と、続き部屋につうじる扉をさがした。ところが、扉らしきものはどこにもなく、かわりに、大変なものが見つかった――暖炉と反対側の暗がりに、つい立てにかくれて、木の箱のうえに毛布をしいただけの、粗末なベッドがあったのだ。

 わたしはかっと赤くなった。大変だ。未婚の娘が、夕食後に、男の人の寝室に足をふみいれてしまった! 

 あわてて荷物とランプをつかみ、外に転がり出る。婦女子のつつしみにかけて、この小屋で夜をすごすことなどできない。

 さいわい、すぐとなりに、もう一棟、よく似た石づくりの建物があった。納屋めいた横にながい建物で、広い壁面に、大きな木の扉が二つならんでいる。

 扉は一つがしまり、一つがあいていた。あいているほうの扉を、わたしはのぞいてみた。すると、なかは広く、むき出しの石壁に、ぐるりと寝棚がとりつけられていた。どうやら、もとは、牧童かなにかの寝部屋だったらしい。

 けれど、今は、ただの物置きだった。奥の暖炉には火の気がなく、炉床に鍋がつみあげられていたし、床には馬ろくや鋤、草刈り鎌のたぐいが、ごたごたと積みあげられている。壁にそった寝棚には、穀物袋や馬用毛布、ぼろ布が押しこまれ、おまけに天井からは、収穫したてのたまねぎが、ひもにかけられてびっしりとぶらさがっていた。

 これでは、たまらない。油が乏しくなってきたランプをかかげ、わたしは庭をはさんだ向かいがわの、家畜小屋に入ってみた。ところが、ここも駄目だった。小屋の中はがらんとして、あるのは空の飼い葉おけと、カラスムギの袋ぐらい。とても落ちつくどころではない。とほうにくれて、わたしは暗闇を見まわした。――ホローにつけば、歓待はされないまでも、客用寝室ぐらいはあてがってもらえると信じていたのに。

 レイスはまだ戻らない。本当に、わたしの面倒を見る気はないのだ。

 しかたなく納屋にもどり、一番手前の寝棚から、たたんでつまれた穀物袋と、馬用毛布をおしのける。板がしかれただけの寝床にはいあがり、油の切れかけたランプを吹きけし、足を縮めて体を丸めた。

 こんな寝床は、子供のころ、お仕置きでワイン蔵に閉じこめられて以来だ。

 情けなさに、涙が出る。少し開いたままの扉の外の、空の星だけがさえて美しい。

 夜がふけるにつれ、寒さがつのった。誇りにかけても使うまいと思っていた馬用毛布を、結局、かぶって眠ることになった。



 朝になると、レイスは小屋にもどっていた。

 でも、その態度は、前の日とまったくかわらなかった。わたしを無視し、帰れとも、帰るなともいわない。起こされさえしなかったので、煙のにおいで目を覚ましたときには、もう、日が高くなっていた。

 彼が食べているところにわたしは入っていき、あいさつをしたが、無視された。しかたなく、勝手に皿を探し、フライパンにのこった卵とたまねぎをとりわける。

 パンを切り、ミルクをつぎながら、わたしは、この不愉快な相手と、食事のあいだ、何を話せばいいかと考えた。なごやかな会話は、貴婦人のたしなみだ。

 ところが、そんなことで頭をなやませる必要はなかった。わたしがテーブルにつく前に、レイスは立ちあがり、洗い桶の水にお皿をつっこんで、出ていった。

 わたしは一人で食事を終え、それから、自分のお皿を見おろして、考えこんだ――これを、彼がしたように、洗い桶に入れるべきかしら? 

 でも、そんなこと、今まで一度もしたことはない。食べ終わったお皿を片づけるのは、給仕の仕事なのだもの。わたしは、お皿をそのままに、立ちあがろうとした。

 けれど、テーブルを離れる前に、ためらった。

 たしかに、お皿を片づけるのは、令嬢の仕事ではない。令嬢の仕事ではないけれど、でも、それをいうなら、レイスは、ホローの現当主なのだ。その当主が、自らああして、お皿を片づけていたわけだから――

「でも、だいたい、それがおかしいんでしょう? なんで、使用人が一人もいないのよ。ホローって、そんなに貧乏になっちゃったの?」

 うなるように言い、わたしは、レイスが洗い桶につけた食器をながめた。(そもそも、男の人が食器を洗い桶につけるところなんて、はじめて見た!)それから、夕べ、わたしが置きっぱなしにした食器を、レイスが洗ったであろうことを考えた。もし本当に、使用人が一人もいないのなら、どうしたって、そういうことになる――お皿が勝手にきれいになって、戸棚に飛びこんだのでもない限り。

 わたしはむずかしい顔で考えこみ、それから、おそるおそるお皿を持ちあげて、洗い桶に入れた。

 白状するなら、桶につけるだけではだめだとわかっていたのだ。お皿を洗わなければならないような気はした――わたしよりも身分が高いはずのレイスが、昨日、わたしのお皿を洗ったのなら。

 でも、とても、そこまでの勇気はなかった。わたしは汚れた指先をスカートでふき、もとの椅子に腰をおろして、大きく息をついた。

 起きたばかりだというのに、ずいぶんと疲れたような気がする。

 それも、これも、この、非常識な場所のせいだ。ホローがこんな、わけの分からないことになっているせいだ。第一、使用人がいないっていうのが、おかしいでしょう! それで、どうやって生活しろというのよ! 

 ――ああ、もう。本当に、いやになる。

 肩を落としてうなだれていると、外の庭で、なにやら、言いあらそうような声がきこえてきた。レイスがきつい口調で、誰かに、何かを言っている。

 もしかして、わたしのことを話しているのかしら? わたしは思わず顔をあげ、聞き耳を立てた。話の中身を聞きとろうと、戸口に歩みよる。

 ところが、そのとたん、目の前の戸がぱっとひらいた。そして、当のレイスが姿をあらわし、こう言い放った。

「あんた、ここにいすわる気があるなら、裏の畑をなんとかしてくれ」

 わたしはあっけにとられ、あやうく、たちさるレイスを呼び止めそこなうところだった。

「待ってよ。なんとかって、なに?」

 レイスはふりかえった。つくづく嫌そうな顔だった。

「草でもぬけよ」

「わたしが?」

「働くんじゃなかったのか?」

 レイスはそう言いすてると、そのまま出ていった。

 後にのこされたわたしは、ぼう然と立ちつくした。

 ――草引き! 

 たしかに昨日、働かせてほしいとはいった。でも、わたしが考えていたのは、狼に餌をやったり、訓練したり、そういうことであって、農場の下働きに入る気など、まったくなかったのだ。――あるはずがない! 

 そもそも、わたしのような身分の人間は、畑になど入らないものだ。畑には小作人を、獣舎には獣舎づとめの男たちを、そのために置いているのだから。――つまり! われわれ大牧場の子息令嬢は、お皿などはなから洗わないし、畑仕事なんて、何があってもするはずがないのだ。

 なのに、草引き? このわたしに、小作人になれというのだろうか!

 テーブルにひじをつき、思わずうめく。信じられない。ほんの数日前まで、首に真珠をまいていたこのわたしに、地面にはいつくばって、草をぬけですって? 

 驚愕のあまり、思わず涙が出そうになる。でも、きっと、レイスは本気だ。ここの暮らしぶりを見れば、ホローの当主である彼が、ディースの令嬢であるこのわたしに、畑仕事をしろということだって、十分にありうる――恐ろしいことに。

 両手で頭をかかえて、わたしはもういちどうめいた。本当に、なんてこと、なんてところに来てしまったんだろう。っていうか、おかしいでしょう、こんなこと!

 でも――でも。

 と、屈辱に歯噛みしながら、わたしはうなった。

 でも――それでも。

 まだ、家には帰りたくない。

 というより、帰れない。だって、帰ったら、どうなるかはわかっている。きれいなドレスにくるまれて、宝石と真珠で巻かれて、会ったこともない結婚相手の家に送りつけられるのだ。父さまはもう、なりふりかまわないだろう。家柄さえつりあうなら、相手が太った男やもめだろうと、五十過ぎの貧乏貴族だろうとかまわず、持参金を山とつんで、まんまと釣りあげてくるだろう。そうしてわたしは、腹の出た中年男に嫁ぐのだ。――赤ら顔の、でっぷり太った、酒臭い禿げ親父の横に立つ自分を想像して、わたしはふるえあがった。

 暗澹たる気持ちで、うなだれる。

 帰りたくない。――まだ。

 たぶん、いつかは帰るのだろうけど、今はまだ。

 でも、ここもいやだ。こんなところ、ほとんど荒野だ。屋敷はがれきの山、食べ物は犬なみ、領主は陰険で、従者は狼一匹ときている。

「――ああ、もう!」

 あきらめて、立ちあがる。とりあえず、気分転換に散歩でもしよう。ともかく、ここがどんなところなのか、しらべよう。こんなうす暗いところでうなっているより、その方がずっと、気がきいているわ。


 戸口をあけ、小屋を出る。

 とたんに、明るい光が、さっと目に飛びこんできた。顔をめぐらせてみるまでもなく、陽光のもとで見る谷は、まさに、世にいう『美しき六月』だった。山々は青く、谷は緑。小鳥の声が聞こえ、針葉樹の香りはさわやかで、空はどこまでも澄んでいる。

 わたしは思わず、笑顔になった。なんという、おいしい空気かしら! 涼やかで、花の匂いがして。都の貴族たちが、好んでおとずれるという夏の避暑地は、きっと、こんな感じにちがいない。大きく息をすい、あたりを見まわす。日の光をあびた庭に出る。

 こうしてみると、レイスの小屋は、山々をつらぬくプーラ渓谷を、入り口から北に一マイルほど、さかのぼったところにあるのだった。小屋の背後には、谷の西の崖がせまり、昨日下りてきたつづら折りの道が、やぶの中に見えかくれしている。小屋の前面は、楕円形をした土の庭に面しており、その庭をかこんで、夕べわたしが寝た納屋や、古い井戸、鶏小屋、家畜小屋が、ゆったりと馬蹄形にならんでいた。さながら、小さな農家の敷地のような雰囲気だ。

 この敷地と外の放牧地とは、古ぼけた木の柵で仕切られており、柵の向こうはそのまま、なだらかな谷底の草原へとつづいていた。そして、その先には、対岸まで一マイルはあろうかという、巨大なプーラ渓谷の、絵のような景色がひらけている。

「……つまり、上の屋敷が焼けたものだから、若さま御自ら、牧童小屋にひっこしてきた、ってわけかしら?」

 あたりを検分しながら、わたしはつぶやいた。

「よくもまあ、辛抱する気になれたものだわ」

 庭を横ぎり、古ぼけた柵にもたれて、谷を見わたす。プーラ河の白い河床は、このあたりでは、谷の対岸近くを蛇行しており、小屋の前には広い牧草地が、青くのびやかに続いていた。陽光を受けてかがやく草地には、ところどころ線をえがくように、あるいは四角く区切られたように、樺やモミの木立ちがのこり、プーラの川べりの土手にも、緑のやぶが、ほそい帯のようにつづいている。こうして見るぶんには、ほかの谷とあまり変わらない。ただ、本来なら当たり前にある村や人の姿が、どこにもないだけだ。

 驚きをもって、わたしはこの事実を受けとめた。

 人がいない。村もない。

 つまり――この谷は、本当に、すみからすみまで、ホローの領地なのだ。

 ほんの一週間ほど前まで、この谷が天狼の住みかであることなど、わたしは知らなかった。父も、兄も、もしかしたら母も、この場所に狼がいることを知っていたのだろうに――わたしだけが、知らされていなかったのだ。

 昨日のレイスの言葉からすると、ホローが滅びたのは、十年前。わたしが六歳のときだ。

 そのころにはもう、家じゅうが、わたしを獣から遠ざけようとしていた。部屋に閉じこめ、絵本にドレスに人形をあたえて、それでも言うことをきかなければ、地下のワイン倉に閉じこめてでも。突然、厳しくなった父さまに、わたしはおびえ、真っ暗なワイン蔵の戸を両手でたたきながら、あけて、出してと泣きさけんでいた――。

 ……って、やめよう。こんなことを考えるのは。

 ふと見ると、庭の南端の、草にかくれた柵のむこうに、細い野道がつづいていた。ときおり馬車も走るのだろうか、路上にはわだちものこっている。

 谷の出口に通じる道なのかしら? わたしは庭の端まで出て、南へむかう道をながめた。

 そのうちに、ホローに、レイス以外誰もいないなんて、やっぱり、嘘じゃないかという気がしてきた。百歩譲って、この谷全体が、ホローの領地らしいことは認めるとしても、ホローの現当主のご邸宅が、この馬鹿げた小屋一つだなんて、やっぱり信じられない。どこか、この道の先あたりに、瀟洒な館の一つくらい、残っていてもおかしくはないし、客用寝室の一つくらいあったところで、何の不思議もない。

 納屋にもどってトランクをあけ、日よけのボンネットをかぶってから、わたしはその道を下ってみることにした。もしもレイスがわたしに嘘をついているのなら、大人しくだまされている理由などない。

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