第10話
いつのまにか、涙はひいていた。やがて、少年が戻ってきて、ミルクの入った桶を、ごとんとテーブルにおいた。その、着古したシャツの背中にむかって、わたしは口をひらいた。声に出して言うには、ずいぶんと勇気がいったけれど――
「ねえ、あなた、ここに一人ぐらい、人が増えてもいいと思わない? わたしを、ここで雇わない?」
少年はぎょっとしたようにふりむき、まじまじとわたしを見た。それから、いらだった声で言った。
「馬鹿も休み休み言ってくれ」
「どうしてよ。幻獣使いの子弟が、よその牧場に修行にでるのは、よくあることでしょう」
わたしの言葉を、少年は聞きながした。そのまま、外に出ていってしまう――と思ったら、こわばった顔でもどってきて、こう言った。
「あの馬の世話は、あんたしてたのか」
「え? いいえ?」
「だろうな。じゃなきゃ、あんなところに放ったまま、そう、とうとうとしゃべれるはずがない」
いまいましげに言いすてると、ランプをつかみ、ふたたび出ていく。
アレクに何かあったのだろうか? わたしはあわてて後を追った。
少年は、わたしが囲いに入れたアレクを、外に引き出していた。そのまま、裏の小さな沢に引いていき、水を飲ませる。それから柵につなぎ、なれた手つきで馬具をはずし、鞍についていたわたしの鞄とトランクを、土の上にほうりだした。
「……あの、馬丁は?」
おそるおそる、わたしはたずねた。まさか、自分で世話をする気なのだろうか。
「いない」
は? 聞きかえそうとして、声がつっかえる。いないですって?
驚くわたしに目もくれず、少年はアレクの体を、家畜小屋から取ってきた馬ぐしとブラシでみがいた。布できれいにふきあげ、ランプの光で足とひづめをしらべ、さいごに、顔のまえにカラスムギの桶をおいてやると、アレクはゆったりとした息を一つもらし、しずかに麦をかみはじめた。
少年はふりかえった。
「あんたに、いきものの世話なんかできるわけがない」
わたしは顔を赤くした。彼の言うとおりだと思った。けれど、口ではべつのことを言った。
「だって、とうぜん、馬丁か使用人がやると思っていたんだもの。――あなただって、牧場主のくせに、なにも自分でそんなこと、しなくたっていいじゃないの」
こちらに背をむけ、井戸の水をくみながら、少年はこたえた。
「ほかに誰がやるんだ?」
「え?」
「ここにはほかに、人間はいない」
言いながら、桶の水で手を洗い、あまった水をばしゃんと草むらに放る。
わたしは聞きかえした。
「――嘘でしょう?」
だって、ホローは大牧場だ。領地だって、ディースよりもずっと大きいし、歴史も古い。財産だって、どれだけあるか。
そのあるじが、一人ですって?
「嘘でしょう」
もう一度、わたしは言った。
「そんなはずないわ。だって、羊はどうするの? 獣は、牧草は、毛刈りはどうするの」
「ここにはまともな綿羊はいない。放牧も、まともにはしていない。毛も刈ってない」
「そんなの無理よ。だって、それじゃあ、牧場とはいえないじゃない。だって、それじゃ――」
「ここは牧場なんかじゃない。とくにこの、十年ほどは。あんた、誰に何を吹き込まれてきたんだ?」
少年は歩きだした。わたしはそのあとに追いすがった。
「だって、ここは大牧場のはずでしょう。お城だってあったんだし、領地だって広いんでしょう。それが、たった一度の事故やなんかで、つぶれるはずが――」
その言葉に、少年がさっとふりかえった。
「たった一度の事故やなんか、か。そういう言い方は、はじめて聞いたな。あんた、少しおかしいんじゃないのか?」
あぜんとしたわたしに、少年はつづけた。
「そいつが食い終わったら、向かいの放牧地にはなしておけ。木戸を閉めたら横木を入れるのを、くれぐれも忘れるな。あんたの馬が逃げだすのは勝手だが、うちの牛どもまで迷ったら困る」
言いおわると同時に、少年はわたしの鼻先で、ばたんと小屋の戸をしめた。
わたしは窓の明かりと月明かりをたよりに、アレクが麦を噛みおわるのを待たなければならなかった。それから、手探りで木戸をさがし、アレクを放牧地に入れ、言われたとおり、木戸の横木をはめなおした。
小屋の戸をノックするには、勇気がいった。どうぞ、の声がないのに中に入るには、さらに勇気がいった。それでも覚悟を決めて、蝶番のすきまから、黄色い光がもれる扉を押しあけると、少年は暖炉の前の腰かけにすわり、小さな足つきのフライパンで、たまねぎとソーセージをいためていた。
はしたなくも、わたしの目は、そのフライパンに吸いついた。――あれ、二人分あるかしら? いくどかつばを飲みこんだあと、わたしは思いきっていった。
「……それ、わたしもいただいていいのかしら?」
嫌な顔をかくしもせず、少年はため息をついた。それから、皿を二枚とり、それぞれにたまねぎとソーセージをのせ、フォークを一本ずつそえてテーブルに置いた。
「ありがとう」
わたしはお礼をいい、二つある椅子の一つをテーブルにひきよせて、食べはじめた。
すると、ミルクをそそいだカップが、どん、と音を立ててテーブルに置かれた。つづけて、ぶあつく切ったパンのかたまりが、皿の上につっこまれた。自分のしでかしたことに気づき、わたしは青くなった。なんてこと――あんまりお腹がすいていたから、食事をふるまってくれた人を待つことも忘れて、食べはじめてしまった!
思わずたじろぎ、それから、ひらきなおる。――いい。もういい。やってしまったことは仕方がない。どのみち礼儀など、とうに、どこかに吹っ飛んでいる。
「ありがとう」
もう一度、ていねいに礼をいい、今度は少年が座るのを待って、わたしはパンに手をのばした。かたまりを割って口に入れ――あわてて吐きだす。それから、まじまじとパンを見た。
パンには血がついていた。こちこちになったパンの皮で、口の中がざっくりと切れたのだ。思わず、あぜんとする――いったい、焼いて何日たったら、こんなふうになるんだろう。いや、それよりも、こんな刃物みたいなもの、どうやって食べろというの?
目を上げてうかがうと、少年はちぎったパンをミルクに突っこみ、しばらくしてから引き出して、噛みちぎった。――なるほど。それが、ご当主様の食事作法というわけね。内心でつぶやくと、わたしは同じようにパンをミルクに突っ込み、それから、噛みちぎった。母さまが見たら、卒倒まちがいなしの作法だけれど、とにかく、お腹がペコペコなのだもの。
おどろくほど粗末な夕食が終わると、少年は暖炉の前にすわり、無言で炎をながめはじめた。居心地のわるい沈黙に、わたしが視線をさまよわせていると、小屋の外で、ばさり、と翼の音がした。鳥よりずっと大きな羽ばたきの音に、思わず、いすから飛びあがる。――天狼だ!
少年が立ちあがり、床の洗い桶に、食べおわった食器を入れた。戸口をあけてどなる。
「シファ、今からディースに飛べ! この女を送りかえす!」
その言葉に、わたしは息をのんだ。
ディースに飛べ? ――それはつまり、わたしをあの狼に乗せてくれるということ?
思わず胸が高鳴り、けれど、そんな場合ではないと思いなおす。ホローの狼になど乗って帰ったら、今度こそ、親子の縁を切られてしまう。
――でも、もう、それでもいいかしら。甘い誘惑が胸でささやく。どうせ、今だって、勘当寸前なのだもの。だったらいっそ、乗る機会があるときに、乗っておくべきなのじゃないかしら――?
ところが、当然聞こえてくるはずの、はい、という狼の返事は、いつまで待っても聞こえてこなかった。不思議に思い、少年の後ろから外をのぞくと、思ったとおり、戸口を出てすぐのところに、白い狼がすわっていた。ただし、翼はたたんだまま。
「――シファ」
少年の声が険しくなった。
「嫌とは言わせないぞ」
険をふくんだあるじの声に、けれど、狼はまったく動じなかった。
「……わたしにも、意見をいう権利はあると思いますが」
おだやかにいって、ちらりとわたしを見る。炎がひらめくような一瞥に、わたしは思わず、体をこわばらせた。狼は口の端に笑みをうかべた。
「たしかに、あまり向いているようには見えないですが」
「なら、放っておけ」
フー、と黒い鼻から息をもらし、狼は少し、首をかしげるようなしぐさをした。ぱたり、ぱたりと尾で地面をうち、静かに言う。
「……あなたにも、理由はわかっているはずですよ」
これには、少年は答えなかった。長い、長い沈黙のあとで、ただ、だまって息をついた。
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