第9話

 夕闇がせまるなか、暗がりにうかぶ、狼の白い背中をたよりに、わたしは二人についていった。城の後ろに広がる、松林をすすむ。

 大きいと思っていた天狼は、こうしてみると、アレクより、少し小さいくらいの生き物なのだ。胴の長さは同じくらいだが、足や首は、馬よりも短い。

 天狼が大きく思えるのは、翼を広げたときに、そう見えるからだ。今は背中にたたんでいる翼は、先端がお尻の先にはみ出して、尻尾のうえで交差している。

 やがて、道は急な下りになった。やぶにおおわれた、荒れ放題の山道を、じぐざぐと折り返しながら下っていく。西の空にのこるわずかな明かりでは、足下すら見えず、石にけつまづき、枝に顔を引っかかれながら、けわしい崖を手さぐりでくだるのは、なんとも恐ろしい経験だった。

 どうにか平地にたどりついたときには、のどはからから、膝はがくがくで、人馬ともに怪我のないことが、奇跡のように思われた。わたしは草の中にしゃがみこんで、スカートの膝に顔をうずめ、大きく安堵の息をついた。

 つぎに顔をあげたとき、目の前にいたはずの狼は、もう、どこかに歩みさっていた。

 わたしが立ち上がって見まわすと、そこは小さな空き地で、周囲には、背の低い小屋がいくつかあるようだった。少年はそのうちの一つに入り、窓際のランプに火を入れた。窓からもれるオレンジ色の明かりをたよりに、わたしはアレクを手近な囲いに入れ、それから、服のほこりを払い、少年のあとを追って小屋の戸口をくぐった。

 すると、少年がふりかえり、嫌そうにこちらを見た。わたしはつい、その顔をまじまじと見てしまった――黄色いランプの下、粗末なしっくい壁を背に立つ彼の肌が、この国ではほとんど見かけない、浅黒い色をしていることに、はじめて気づいたのだ。

「で? あんた、いったい何の用なんだ」

 とげとげしく、少年は言った。

 それは、もっともな質問だった。わたし自身、自分で自分に聞きたいくらいだ。

 彼の肌色への驚きは、ひとまず脇に置いて、わたしは手短に、ここへ来るまでのいきさつを説明した。家のこと、牧場のこと、そして、あのクレイディルに襲われた日のことも。一通り話しおえると、わたしはたずねた。

「ねえ、あなたならわかるんじゃない? あの獣、クレイディルでしょう?」

 しばらくの間をおいてもどってきた返事は、認めるのが嫌とばかりに不承不承だった。

「……たしかに、あれはクレイディルだが」

「でしょう?」

 わたしは身を乗りだした。

「なのに、みんな、そんなはずはないというの。クレイディルはこんな場所にはいないし、天狼だって、しゃべるはずはないって。おまけに、女のくせにそんなことを言いだすわたしはおかしいからって、四百マイルもはなれた所にすむ叔母の家に、わたしをあずけると言いだしたの。気分が落ちつくまで、帰ってくるなって」

「賢明な判断なんじゃないのか」

 少年のその言葉に、わたしはむっとした。

「どうしてよ。わたし、間違ったことは何もいっていないわ。なのに、うそつき呼ばわりされて、誰一人、わたしのいうことを信じようともしないのよ。みんな、わたしのことを、馬鹿な小娘だと思ってるんだわ。――だいたいね、女のくせに、女のくせにっていうけれど、女ってだけで獣使いになれないなんて、変だと思うわ。こう言っちゃなんだけど、うちの二番目の兄より、わたしのほうが、よほど獣使いにむいていると思うもの。なのに、兄は竜にのって、わたしは叔母の家に閉じこめられるなんて、そんなのある?」

 少年は何も言わなかった。そうだとも、そうじゃないとも。かさにかかって、わたしは言った。

「だいたいね、父さまも母さまも、わたしのことなんて、何も考えていないのよ。かわいいのは兄さまばかりで、わたしのことは、どこか良い家にお嫁にやれば、それでいいとしか思ってないんだわ。でも、わたしは嫌なの――服や、客間や、お客のもてなしのことばかり考えて暮らす人生なんて。なのに、父さまや母さまが言うのは、そんなことばかり――何かあればすぐ、嫁の貰い手がなくなる、なくなるって! そりゃあ、わたしが嫁きおくれたら、親の世間体は悪いでしょうよ。でも、そんなに家の体面が大事かしら? あの人たちは、なにが娘の本当の幸せかなんて、考えたこともないんだわ!」

 しだいに感情が高ぶり、最後はさけぶように、わたしは言った。

 わたしの言葉がとぎれると、少年は笑った。とうてい、好意的とはいえない顔で。

 そして、言った。

「……ずいぶんと、親に愛されているじゃないか」

 その言葉に、わたしはひるんだ。

 わたしがどれだけ家族に甘えているか、その言葉は、一言で言いあてたのだ。

 少年はわたしに背をむけると、暖炉に火を起こしはじめた。それがすむと、外へ出ていく。わたしなど、いないも同然の態度。その背中からは、わたしへの軽蔑が、ありありと伝わってきた。――言葉などでいうより、ずっと強く。

 自分のしたことが、急に、恥ずかしく思われてきて、わたしはうつむいた。それはそうだ。勝手に人の家にあがりこんだうえ、いい気になって、自分の家族の悪口を言いふらしたのだ。これ以上、不愉快な客はない。

 思わず、両の手をぎゅっとにぎる。それなりの家で育ち、礼儀だって教わってきたはずなのに、どうしてわたしはいつも、できて当然の、あたりまえのふるまいができないのだろう――。

 やがて、水桶を手に、少年がもどってきた。と思うと、今度は別の桶をもって、ふたたび外へ出ていく。

 乳しぼりだ。おそらく、しばらくは帰ってこないだろう。

 わたしは息をつき、いすにすわると、テーブルにひじをついてうなだれた。

 今すぐ帰るべきだと、わかっている。赤の他人の彼に、これ以上、迷惑をかけてはいけない。でも、もう夜だ。今さら、一人で帰れやしない。今夜一晩、お世話になるしかない。じんわりと涙がにじみ、目をこする。ほんとうに、どうしてわたしは――。

「……ずいぶんと、親に愛されている、か」

 そう。たぶん、そうなんだろう。家族に死なれた彼とくらべれば、わたしなど、どうしようもなく恵まれているのだろう。

 それは、わかる。――わかっている。

 でも、と、わたしは顔をゆがめた。

 でも。

 だとしたら。

 ――だとしたら、どうすればよかったの? がまんして、叔母の家に行けばよかったのだろうか。ううん、それ以前に、父さまに竜のことを忘れろといわれたときに、大人しく、そうすればよかったの――?

 ぽとり。

 涙がテーブルに落ちる。

 ぽとり、ぽとり、とあふれる。

 ――でも。

 ――だって。

 できなかったのだ。

 どれだけ言われても、できなかったのだ。あんなに見事な生きものを、忘れることなどできない。あの誇り高い翼を、謎めいた瞳を忘れることなど、どうしたって、できない。

 思い出す。六歳のわたしは、ベッドのかげにかくれて泣いていた。怖い、怖い父さまに、竜舎に行くことを禁じられて。

 思い出す。四歳のわたしは、ただ、竜が好きだった。女に生まれたら、竜には乗れないのだと、そんな、当たり前のことにも気づかないほどに。

 思い出す。わたしは本当に、獣が好きだった。竜たちが好きだった。しなやかな翼も、黒い背中も、寡黙な瞳も、何もかも。いつかはきっと、わたしも乗りこなすのだと、そのときは、父さまよりも、兄さまよりも、よい主人になろうときめていた。

 ぽとり、ぽとり。涙が落ちる。

 いくつもあふれて、テーブルに染みをつくる。

 歯を食いしばり、声を殺して、わたしは泣いた。四歳の自分を、六歳の自分を思って泣いた。自分が女であること、どうにもならない運命を思って泣いた。

 きっと、あの頃も、わたしは今と同じように、わがままな子供だったのだろう。手に負えない子だったかもしれない。

 でも、獣に対する気持ちだけは、ほんものだった。あの翼。あの瞳。大好きで、あこがれて。自分の竜がもらえるなら、どんな努力でもすると、そう、本気で思っていた。いつかは立派な獣使いになるのだと、心の底から、そう考えていた。

 ゆっくりと、目をあける。

 涙の跡がついた、白木のテーブルを見つめる。

 そう。

 ――考えろ。思い出すんだ。

 今のままでは、いけないというなら。一体、何をすればいいのか。何が嘘で、何が本当か。六歳の、子供のわたしは、いったい、何がしたかったのか。

 そして。十六歳の、大人のわたしは、今、何をするべきなのか――。

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