第8話

 その先に広がっていたのは、一面を草におおわれた、なだらかな扇状台地だった。プーラ河の白い河原と、その土手に沿った街道だけが、まっすぐに北へとつづいている。

 そして、その河と街道が行きつく先、ゆるやかにうねる平地が、左右からせまる山々に押しつぶされる、ちょうどその場所に、巨大なプーラの谷が、その、谷幅一マイルはあろうかという、U字型の入り口をひらいていた。

 わたしは声もなく、その谷に見とれた。

 深く山を刳る渓谷の両岸は、高さ数百フィートはあろうかという、垂直の岩山だ。けれど、そのあいだにはさまれた広い谷底には、光がみち、白くかがやくプーラの川床と、明るい緑の放牧地が、美しい森と入りまじりながら、ゆるやかに奥へとつづいている。

 明るい谷と、立ちはだかる岩山。そして、はるかその向こうにそびえる、遠い銀の峰々。けわしくも美しい、その景色のどこにも、人影はない。しずかな草原に、草波をゆらす風が吹きわたるだけだ。

「……行こう、アレク」

 馬の腹をかるくけって、歩き出す。山から吹きおろす風が、頬に冷たい。

 やがて、巨大な谷の入り口に位置する、無人の十字路にたどりついた。川べりの土手のうえの、道標もない十字路だ。

 わたしは荷物をあけ、図録の地図をたしかめた。まちがいない。ホローの牧場は、この十字路を西――つまり左に折れて、そう遠くないところにあるはずだ。

 目をあげれば、巨大な門のような谷の入り口が、眼前にそそりたっている。そのむこうにつづく青い山々は、生まれてからずっと、ディース屋敷の北の窓からながめていた、その、同じ山並みだ。

 とうとう、やってきたのだ。

 目をとじて、深く息を吸う。

 それから、路上に目をもどす。日暮れまで、もう、あまり時間がない。

 右手の土手についた細道を下り、広い砂利の河床をよこぎる。アーチを連ねた石橋のたもとで、アレクに水を飲ませる。

 それから、再びもとの十字路にもどって、針路を西に取った。

 細くのびる野道は、傾きはじめた日に向かって、山すその牧草地の上を、ゆるやかにうねりながら続いていた。夕日が山の端に近づき、山々が、草のうえに青い影を落とす。

 吹く風の冷たさに、わたしは思わず身をふるわせた。

 これだけの広さの地所に、人っ子一人いないなんて、いくらなんでも寂しすぎる。

 でも、田舎の古い屋敷へつづく道なんて、かえって、こんなものなのかもしれない。

 十字路を曲がってからずっと、道の北側の路肩に、野ばらにおおわれた、古めかしい石垣があることに、わたしはとうに気がついていた。腰ほどの高さの石垣は、貴族や大領主の領地の境界をしめす、古いしるしだ。つまり、この石垣から北はもう、ホローの領地なのだ。

「あと少しよ」

 アレクに声をかけ、速度をあげる。

 風がさらに冷たくなってきた。寒くなる前に、屋根の下に入りたい。

 やがて、行く手に、牧場の表玄関とおもわれる、背のたかい並木が見えてきた。落葉樹の見事な並木が、今いる道の少し先から、北側の山すそへ向けて直角に、牧草地をつっきっている。山すそに突きあたった道は、そのまま、つづら折りの登坂路に姿をかえて、山の中腹に立つ、白い城までつづいていた。

 わたしは思わず、感嘆の声をあげた。まるで、見事な絵のようだ――山肌にそびえる、大理石の城だなんて! 

 でも、感動ばかりもしていられない。あの城の風格からすると、夕食時に、正装する必要があるのは明らかだ。ふさわしいのは、真珠の首飾りと、重厚なイヴニングドレス。わたしのトランクに詰まっている、着古しの普段着なんて、とんでもない! でも、もちろん、今から服をとりに、家に帰るわけにはいかない。お城の方々に事情を説明して、わかっていただくしかないけれど――……ああ、また、非常識な娘と思われるんだわ。

「……父さまも馬鹿よね。こんなわたしに、嫁の行き先なんてあるわけないのに」

 落ちこみながらも、馬をすすめる。もう、腹をくくるしかない。

 やがて、並木の起点についた。ホローの正門にあたるはずの場所だけれど、道ぞいの石垣が少しとぎれて、入り口であることを示している以外には、それらしい門も、表札もない。ただ、高い木が列になって、奥へとつづいているだけだ。

 大きく息をすい、並木道に足をふみいれる。枝を広げる木々の下を、遠慮がちにすすむ。道は、残念ながら、ひどく荒れていた――路面は深い草におおわれ、倒木や折れた枝が道をふさいで、何度も馬をおりて、枝をどけなければならないほどだ。

 ようやくたどりついた並木のおわりは、草にうもれた、小さな広場になっていた。広場の奥は山の斜面に接しており、城へとつづく石だたみの登り道があって、その前に、守衛小屋のような、石造りの小屋がたっている。でも、小屋の窓は、よろい戸がしまったまま、ツタがからんでいたし、そのうしろの登坂路は潅木がしげり、敷石のあいだから草が吹きだしている。

 ――これは、想像以上の荒れようだわ。

 浮いた敷石に気をつけながら、わたしはアレクの手綱をひいて、急な坂道をのぼった。やがて、さきほど下から見あげた城が、すぐ間近にせまってきた。

 それは、見事な城だった。大理石の外壁は美しく、王侯貴族の別荘といってもとおるだろう。

 けれど、この城もまた、人が住んでいるようには見えなかった。斜面にそって重ねられたテラスや、噴水がしつらえられた庭園は、どこも、深いやぶにおおわれているし、左右に階段のついた表玄関も、浮き彫りでかざられたバルコニーも、吹きだまった枯葉と土にうもれている。 

 わたしはとまどい、あたりを見まわした。誰もいないはずはないのだ。ここにはあの、狼と少年が住んでいるはずなのだから。

 けれど、庭にも、城の前面にずらりとならぶ、くもった窓ガラスのむこうにも、人がいる気配はまったくない。もしかして、まちがったところに来てしまったのだろうか。背筋がひやりとするのを感じながら、わたしは草をわり、急ぎ足で進んだ。建物の角を曲がり、城の側面にまわりこむ。

 そして、そこで立ちすくんだ。



 美しい大理石でおおわれた屋敷の角を曲がった、その先につづいていたのは、きれいな壁でも、回廊でもなかった。

 くずれた壁と、折れた梁。

 そして、そのうえに残る、はげしい炎のあと――。

 この城で無事なのは、館の正面の壁だけだったのだ。裏側は、ケーキをぐしゃぐしゃにしたようにくずれていた。中央の大階段は焼け落ち、二階、三階の床も宙でとぎれて、ゆいいつ無傷な前面の壁に、張りつくようにのこった部屋部屋だけが、黒こげの蜂の巣のような姿を、むなしく宙にさらしている。

 火事だ。火事がおきたのだ。

 ――でも。と、目の前の、根元からなぎたおされた石壁に、私は目を走らせた。土台からえぐれた柱。割れた壁石のかたまりが、庭の向こうまでふっ飛んでいるところもある。まるで、巨人が槌で壊してまわったような、こんなことが、ふつうの火事でおこるだろうか。ただ燃えたというだけで、巨大な石組みが、根こそぎ掘りかえされたりするだろうか。

 考えうる、唯一の答えに、冷たい汗が首筋をながれる。

 ――狼。

 狼たちが、ここを壊したのだ。狼たちが、ここで暴れまわったのだ。

 だとしたら。

 ――だとしたら、もう、ドレス云々どころではない。まさに、この、わたしの足の下に、誰かの骨があってもおかしくはない!

「……嘘でしょう!」

 思わず身を引いて足元を見た、そのときだった。胸の中心が、ぎゅっと縮こまったような感じがして、いきなり、息ができなくなった。強烈な悪寒に全身がすくみ、どっと冷や汗が流れる。――なんだろう。この感じ。なにかの病のような、この感じ。でも、ちがう。病とは、ちがう。だって、わかる。はっきりと感じる。今、わたしをすくませているもの、声も出ないほどにおびえさせているものは――わたしの後ろに、ま後ろにいる。

 ふるえながら、わたしはゆっくりとふりかえった。

 そこに、純白の狼がいた。紫色の夕暮れ空を背景に、青白い雷光のように立っていた。金色にかがやく目でわたしを見おろし、黒い肉のひだでふちどられた口から、大きな牙がのぞかせている。

 まるで死神の鎌のような、その目と牙を一目見たとたん、わたしはなにも考えられなくなった。あの牙に引き裂かれること、噛み殺されることしか考えられない。あの口がわたしをくわえ、あの歯がわたしを噛みくだくのだ。ああ、頭の中が、血の赤でいっぱいになる――

 動かないわたしを、狼はしばらくのあいだ、見おろしていた。それから、ゆっくりと言った。

「見たところ、ディースにゆかりの方かと思いますが――」

 大きな口が、器用に人の言葉をつむいでいく。

「――なにかご用でしょうか?」

 わたしは答えなかった。答えようにも、声が出ない。

 すると、狼が、ゆっくりと耳をふせた。顔つきがさらに獰猛になり、金の瞳がつよくかがやく。その視線のあまりの恐ろしさに、わたしはその場にくずれそうになった。ばたりと倒れて、死にそうになった。このおそろしい存在を、このとんでもない生き物を、わたしはわざわざ、自分から見にきたのだ。――なんて馬鹿なことをしたもんだろう!

 そのとき、ふいに、人間の声が耳にとどいた。

「ディース? どうして知ってるんだ、お前」

 わたしは狼から視線をひきはがし、声のした方を見た。

 狼の少し後ろに、一人の少年が立っていた。

「あの日、あそこにいましたよ。このあいだの、あの農場に。人の目では、見えなかったかもしれませんが――夜でしたからね」 

 狼の答えに、少年はじっとわたしを見た。

「お前、ディースの獣使いか?」

 どれほど冷たい口調であっても、それは、まごうことなき人間の声だった。獣でも、死神でもない、生身の人間の言葉だった。わたしはぼんやりとそのことをかみしめ、それから我にかえって、あわてて頭を働かせた。

「あの、ええと、ちがうわ。わたしは、ディースの者ではあるけれど、幻獣使いではないの。女だから」

「じゃあ、なぜここにいる?」

 たずねる声はさらに冷たく、狼とは別の意味でおそろしかった。はんぱな言い訳など、とおりそうにない。わたしはあせって言葉をさがし、そして、ふいに、冗談のように、言うべき台詞を思いついた。自分でも思いがけない、その割には、うまい言い訳を。

「なぜって、わたし、その、たしかめようと思ったの。あなたの狼が、本当に呪いをかけられているのかどうか」

 その言葉に、少年とその狼が、さっと顔色を変えたのがわかった。

 いいところを突いたのだ。勢いづいて、わたしはつづけた。

「わたし、家の人たちに聞いたの。ホローの狼は、服従の呪いをかけられているって。でも、おかしいと思ったの、だって、あなたの天狼、しゃべっていたから。もし呪いをかけられていたなら、あんなふうに、あるじに反論なんか、できないんじゃないかと思って」

 少年が一瞬、おまえのせいだ、とでも言いたげな視線を狼にむけたのを、わたしは見のがさなかった。

「だったら、どうだと言うんだ」

 剣呑な口調で、少年が言った。おびえていることに気づかれまいと、わたしは肩をそびやかした。

「どう、ってことはないんじゃないの? 外の人たちはみな、ホローの天狼は呪われていると思っているのよ。ちがうなら、みんなにそう言うべきじゃない。よこしまな術をかけられた獣は、処分されてしまうのに。あなた、そんなことで、あるじとしての責任が果たせると思っているの?」

 もっともらしく言いながら、実のところ、自分でもさっぱりわからなかった――わたしったら、一体なぜ、こんなにえらそうな物言いをしているのかしら。

 相手の少年はめんくらっていた。それもそのはず、わたしのような素人が、天狼のあるじに説教するなんて、ありえない。

 だまりこんだ彼のとなりでは、狼が白い前足をそろえて、こちらを見ていた。白い毛におおわれたその顔からは、先ほどまでの恐ろしさは消えており、狼は、今は案外、この事態をおもしろがっているようにも見えた。おかげでわたしは、忘れていたことを思いだした。――そうだ、おびえる必要はなかったのだ。正気の獣は、人を殺さないのだから。

 あきれたような表情のまま、少年はいつまでたっても、何もいわなかった。居心地のわるい沈黙がつづくなか、最初に口をひらいたのは、なぜか狼だった。

「とにかく、戻りませんか。そちらのお嬢さんも、なにかお話があるようですし」

 とがめるような視線を狼におくり、少年はため息をついた。それから、くるりと後ろをむいて、歩きだした。

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