第6話

 今となれば、母さまがドレスを新調させた理由もわかる。若い娘の街行きの話がでれば、母さまがまず考えるのは、ドレスを作ることだろうから。

 母さまにとっての計算外は、わたしの行く先が大叔母の家だったことだろう。

 アリツィア大叔母の屋敷では、どんなに着かざったところで、見るのは大叔母の猫ぐらいだ。大叔母はリューマチのぐあいがわるく、ここ数年は家から出てもいないという話なのだ。

 そして、父さまにしてみれば、そこがまた、今回の話のありがたい点なのだった。わたしの縁談がまとまるまでの、あと一、二年のあいだ、わたしを世間から遠ざけておくこと。わたしについてのおかしなうわさが、あらたに広まるような事態だけはさけること。将来、わたしが手にするはずの、地位、身分、収入のすべてが、その一事の成否にかかっているのだから――。

 割を食ったのは、女中たちだった。とつぜん、お嬢さまの旅行の支度をととのえなければならなくなったのだ。それも一ヶ月や二ヶ月の旅ではない。急ぎの注文が出された品のなかには、冬用の外套までが入っていた――今はまだ、五月だというのに。

 決めなければならないこと、そろえなければならないものが無数にあった。上は父さま、母さまから、下は使い走りの小僧にいたるまで、家中がてんてこ舞いになった。

 そのなかで唯一、暇をもてあましている人間というのが、何をかくそう、このわたしだった。家じゅうでわたしだけは、なんの仕事もなかったし、なにかについて意見をもとめられることもなかった。たまに用事で呼ばれたとしても、せいぜいが服の仮縫いくらい、しかもそこでは、わたしの行き先をてっきり都とかんちがいした仕立て屋が、この服をお召しになったお嬢さまは、さぞかし都の貴公子たちの心をさわがせることでしょう、なんて寒々しいおべんちゃらをならべたてるのだ。

 それでも時はすぎていき、旅の支度はととのっていった。行きがけには、王都でいくつか宝石を見つくろうことも決まったし、都までは母さまとその侍女が、その先は、召使いと古参の女中が一人ずつ、つきそってくれる手はずもきまった。わたしはただ、だまって馬車に乗りこみさえすればいいのだ。

 そして、出立の十日前となり、五日前となった。わたしは部屋で、荷造りをはじめた。といっても、ドレスや靴は女中たちが支度してくれたから、わたしが自分でえらぶのは、身のまわりのささやかな品だけだった。お気に入りの本や、趣味の小物など――けれど、そういうものにこそ、かえって気を使わなければならなかった。若い娘にはふさわしくない、とアリツィア大叔母が考えるようなものは、はじめから持っていかないのが吉だった。

 刺繍に詩集、作法の本に、レース編みの図案――できあがった小ぎれいな荷物を前に、わたしはただ、ため息をついた。ばたん、とベッドにたおれこむ。

 ……行く前からすでに、退屈で死にそうだ。

 けれど、この退屈に終わりはないのだ。結婚して、年とって、死ぬまでつづくのだ。

 もういちどため息をつき、寝返りをうつ。

 すると、壁ぎわにおかれた、古い書棚が目に入った。棚板の上にならんだ、色あせた背表紙。それを何げなくながめるうちに、ふと、見覚えのある緑色が目に入った。作法の本がぬかれたあとの、かしいだ本のすきまから、色あせた濃緑の革表紙がのぞいていた。

「――こんなところにあったの?」

 それは、わたしが前にロイ兄にいった、あの三冊組みの幻獣図説の一冊だった。緑の革で装丁された、古びた大判の図説。勝手に書庫から持ちだしたものを、棚の奥に隠してぬすみ読むうちに、返すのをわすれてしまったらしい。

 おもわず苦笑いする。この本がここにあるのに、誰にもとがめられなかったということは、つまり、あれからあの獣がクレイディルかどうかをたしかめるために書庫にいった者が、一人もいなかったということだ。

「まあ、もう、どうでもいいけれどね――」

 体をおこし、ならんだ本の後ろから、重たい図説をひっぱりだす。ベッドのふちにすわり、ひざのうえに乗せると、唇に自然と笑みがうかんだ。

 黄ばんだ紙の上に踊る、ドラゴン、ワイバーン、サラマンダー。

 フェニックス、ユニコーン、天狼(フェンリール)。

 天を駆け、地を馳せる、今はもう、別世界のもののような獣たち――。

 

 見ているうちに、涙があふれた。

 この本を、持っていくことはできない。

 大叔母はゆるさないだろう。父も、母も、兄も。

 夢のように見事なこの獣たちを、すべて忘れなければ、大人になることはできないのだ。


 唇をふるわせ、涙をふきながら、泣いて、泣いて、泣いて。やがて、本をとじようとした、そのときだ。

 ばさりとひらめいたページの中に、それまで気づかなかった、巻末の見開きの付録が見えた。

 ひらいてみると、それは、古風な意匠でかざられた、この国の地図だった。

 東西南北をしめす矢じるしは、地水火風の絵でかざられ、ほかにも余白のあちこちに、雲や風や鳥や魚の、きれいなさし絵がそえられている。

 けれど、なにより不思議なのは、その地図の上に、村や街の名前が、いっさい記されていないことだった。王都があるはずの場所にさえ、城壁も城も描かれていない。

 かわりにその場所を占めているのは、蹄をふりたてたユニコーンだ。

 都だけではない。地図に描かれているしるしはすべて、町や村ではなく、化鳥や竜や蛇の絵なのだ。

「もしかして、これ……」

 つぶやきながら、指で地図をたどる。すると、王都から北にむけて街道をすすんだ先、丘陵をあらわす波形と、プーラ河をあらわす黒い線のあいだに、一頭のサラマンダーがえがかれていた。古風な絵柄の黒い竜が、牙をむき出し、炎を吐いている。

「……この国で飼育している、幻獣の地図なんだわ」

 ラスレー、イェード、シャビの三牧場は、王都の南に。

 セイロー、ディースの二牧場は北に。

 そして、もう一つ。

「ホロー……」

 ディースよりも、さらに北。

 プーラ河にそって北へむかう街道が、国境のルール山脈にぶつかるその場所に、翼を広げた、白い狼の絵があった。



 それからというもの、わたしは暇さえあれば、その地図をながめてすごした。

 地図によると、ホローの牧場は、北のルール山脈に源をもつプーラ河が、平野へむけて流れ出す、その、渓谷の出口あたりにあるのだった。ディースからの距離は、三十マイル。道順もそうむずかしくはない。あの夜走った、ロストックまでの道を、さらに北へ伸ばして走りつづければいい。

 ――三十マイル。

 馬ならば、一日もかからない。

 狼に会うために、北へむかう自分を想像すると、わたしの胸は踊った。

 でも、どうやって家をぬけだす? 女一人でどうやって旅する? 大牧場のご令嬢が、一人で街道をゆくなんて聞いたこともない。

 行きたい。でも、行けるわけがない。地図の上では、こんなに近いのに。わたしが男だったら、すぐにでも旅立てる距離なのに――。

 わたしは北向きの窓から、地平線にそびえる山々をみつめ、緑におおわれた山すそのどのあたりにホローがあるのか、たしかめようとした。けれど、遠い山すそは緑にかすみ、プーラが流れ出るという渓谷のありかも、そこにあるはずのホローの牧場も、もちろん、見ることはできなかった。

 結局、なにもできないまま、旅立つ前の夜がきた。別れの晩餐とばかりに豪華な夕食をおえて、部屋にもどると、階上ではたらく女中たちが、別れのあいさつをしにきた。壁にそってずらりとならび、お決まりの言葉をのべる女中たちを、わたしは冷たい目で見た。自分が使用人に好かれていないことなど、とっくの昔に知っている。面倒ばかり言いつける、わがままお嬢さまがいなくなるのは、さぞかしうれしいことだろう。

 やがて、女中たちは退室した。あとはもう、寝るだけだ。わずかな月明かりがさしこむ部屋で、ベッドに横たわり、天井をながめる。

 朝がくれば、わたしは馬車に乗せられる。長旅をゆられ、王都で、どうせそのまま嫁入りの支度になるのであろう宝石を買ってもらい、そして、そのあとはずっと、大叔母の家ですごすのだ。いつか父が決めた相手と結婚する、その日まで。

 ――結婚? 結婚ですって? 暗闇のなか、わたしは思わず、クスクス笑った。

 馬でクレイディルの鼻先に突っこんで死にかけた、このわたしが、結婚?

 ひとしきり笑い、それから、息をつく。自棄をおこしたって仕方がないのだから、ここはひとつ、まじめに考えてみるべきだ。天井を見つめ、なるべく正直に、自分に問いかける。

『さあ、ミリエル・ディース、白状しなさい。あなた本当は、どう思っているの? 父さまの言うような生き方が、自分にもできると思う?』

 すると、もう一人のわたしが、いやいや答える。

『――そうね。まあ、もしかすればね。まじめにやれば、できるかもしれない。まじめに、本気でやりさえすれば。どんな馬鹿な娘だって、結婚さえしてしまえば、それなりに、《誰々夫人》の座におさまっているもの。それができなかった娘など、みたことがないもの――』

 目をつむり、想像してみる。『誰それ夫人』となったわたし。服も、料理も、お客のもてなしも、流行におくれないよう気をくばるわたし。髪を結い、宝石をつけて、笑顔で夫に付きしたがうわたし。品よく、かわいらしく、紳士方に相づちを打つわたし――まあ、そうなんですの? 知りませんでしたわ! すばらしいですこと!


 目をあけて、じっと、暗闇を見つめる。

 たしかに、やればできるだろう。牢獄に入ったつもりになれば、やり続けられないこともないだろう。

 ――でも、ならば。このつらさは、いったい何なんだろう。どうして、こんなに苦しいのだろう。ただ我慢すればいいというなら、胸がつまりそうなこの気持ちは、一体、なんのためにあるのだろう。

 仰向けのまま、目をとじる。そうして、シーツに手足を投げだしても、胸のなかでは、何かが暴れまわっている。

 怒り、泣き、わめきちらしながら、それでも檻に引きずりこまれていく、あれは、わたしだ。

 これから、死ぬまで閉じこめられる、わたし自身だ。


 やがて、窓枠のむこうで、月が沈んだ。窓の外が少しずつ、明るくなっていく。

 鳥の声も聞こえてきた。朝がきたのだ。

 わたしは体をおこして、カーテンのすきまから外をのぞいた。

 すると、朝露におおわれた牧草地のなかを、北へとつづく小道が見えた。あの日、サラマンダーを追って駆けぬけた道。ロストックに、そして、その先のホローにつづく道。

 朝の青い光のなか、白く浮かびあがる細い野道を、わたしは見つめた。

 すると、どうしてだろう。今日、これから大叔母の家へむかうより、あの道をもう一度北へむかうほうが、ずっと、たやすいことに思えてきた。ずっと、自然なことに思えてきた。

 羽根布団をぬけだし、ひんやりとした床に足をおろす。積みあがったトランクから、刺しゅうとレースと作法の本を取りだし、かわりにクローゼットのなかの、着ざらしの部屋着と肌着をつめこむ。

 最後にあの幻獣図説をのせて、ふたを閉めると、髪をゆい、あの日以来、着ていなかった乗馬服の袖に手をとおした。

 身支度をととのえ、部屋のドアをあけると、家の中はしんとしずまりかえっていた。みんな、疲れきっているのだ。夕べは遅くまで、旅立ちの準備をしていたから。

 馬屋につづく通用口は、閉まっていた。鍵をもつ執事も、まだねむっているのだ。わたしは手近な窓のかんぬきをぬき、窓枠をのりこえて外にでた。肌にまとわりつく霧の中、まだ青っぽく見える木立ちをぬけ、うす暗い馬房に入ると、アレクが眠そうな目でわたしを見た。

「ごめんね」

 小声であやまり、わたしはアレクに鞍をつけて、出発した。

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