第4話
あれは、わたしが三つか四つのとき。
そのころ、わたしは毎日のように、父さまの馬に乗せてもらって、竜舎を見にいっていた。
けれど、竜舎につくなり、父さまは仕事の話をしにいってしまう。だからわたしはいつも、一人であちこちを見てまわった。
石造りの大きな竜舎の、ある棟には、生まれたばかりの子竜がたくさんいた。べつの棟には、しきつめられたワラのうえに、薄黄色の卵が大事そうにおかれていた。若い竜がたくさんいるところでは、大勢の男の人が働いていたし、かと思えば、空っぽの檻がいくつも連なっているところもあった。
それやこれやを順ぐりに、見世物小屋でも見てまわるように、わたしはながめて歩いた。
そしてある日、一番奥の、一番人気のない、がらんとした一角で、その竜にあったのだ。
それはあまりに年老いて、もう種類もわからないような、大きな雌の地竜だった。人間で言えば、九十歳のおばあさんというところ。鉄格子の奥の、日のあたる石だたみの上で、灰色の岩のように丸くなっていた。
あたりはあたたかく、日のあたったワラの甘いにおいがただよっていた。窓からさしこむ日の光が、石だたみのうえにななめの陽だまりをつくっていた。
わたしは鉄格子の前に立ち、その竜をながめた。すると、はじめはじっとしていた竜が、ゆっくり、ゆっくり、頭をもちあげはじめた。そして、わたしを見て言ったのだ。――おまえはだれだね?
それは低いかすれ声だったような気もするし、はっきりどんな声とはいえないような、不思議な声だったような気もする。とにかく、わたしを見て、竜は言った。おまえはだれだね?
わたしは、ミリエルよ、と答えたかもしれないし、なにも言わなかったかもしれない。どちらにしろ、竜はそれきりだまってしまった。そして、ゆっくり、ゆっくり、頭を床に落としていって――それといっしょに目も閉じていって、最後には、最初と同じすがたで眠ってしまった。
わたしはしずかに後ずさり、それからくるりと後ろをむいて、そのまま走って、走って、最初にあった老人に、とびつくようにして言ったのだ。竜が、わたしに話しかけたよ!
それはわたしが竜舎にいるときまって声をかけてくれる、年取った竜の世話係だった。名前はジャンといい、若いころからうちで働き、年をとって体が動かなくなってからは、同じように年をとって動かなくなった竜の世話ばかりしていた人だった。
ジャン爺はわたしの顔をのぞきこむと、あたりまえのように、おや、そうかい、と言った。そして、たずねた。
「どの竜だい」
「一番奥よ。あの、一番年を取ったやつよ」
「ああ、そうかい。あいつは、わしにも、ときどき話しかけることがある」
「そうなの?」
「そうだとも。年を取って、もうろくしとるんじゃな」
「でも竜が話すなんて、父さま言ったことないわ」
「旦那さまはおいそがしいからな。竜と話す、お暇がないんだよ。あの方には、ほかにもたーんと、せにゃならんことがおありになる」
「そうなの?」
「そうだとも」
そういうと、ジャン爺はしわだらけのかわいた手で、わたしの頭をなでた。それから、床に落ちた竜のふんを、長い柄のついたちりとりでかたづける仕事にもどっていった。
それからしばらくして、ジャン爺は体をわるくして牧場をやめた。そして、二か月ほどで死んだ。わたしの話を信じてくれる人はいなくなった。
わたしが竜が話したと言うと、ヤン兄は、わたしが竜ばかり見すぎたせいで、頭がおかしくなったんだと言った。それを聞いて、ロイ兄はもちろん、母さままでが不安そうにわたしを見た。
だからわたしも、いつからか、あれは夢だと思うようになっていたのだ。自分でこしらえたお話だったんだと。
カンテラをかかげた迎えの馬丁が、月明かりの下、ふるえながら歩いていたわたしとアレクを見つけたのは、真夜中を少しまわったころだった。
泥をかぶり、冷えきったアレクを見た若い馬丁は、はっきりと責める目つきで――もっというなら、軽蔑する目つきでわたしを見た。
わたしは甘んじてその非難をうけた。自分でもわかっている。クレイディルに竜をけしかけた兄たちがおろかだというなら、その場に馬でふみこんだわたしは、ありえないほどの大馬鹿なのだ。
気まずいまま家に帰りつくと、おどろいたことに、屋敷にはこうこうと灯りがともっていた。厨房からは湯気が出ているし、使用人たちも起きている。夜が早いはずの竜舎の男たちまでが、屋敷の外をうろうろしている。
いったいどうしたんだろう? 首をかしげながらも、わたしは裏階段から二階にあがり、部屋に入って、よび鈴で女中をよんだ。ところが、誰もやってこない。しかたなく自分で化粧室にいき、置いてあった水差しの水で手と顔を洗う。それから身支度をし、部屋にもどったけれど、それでもまだ誰もこない。怒り心頭のはずの父さまも、いっこうに姿を見せない。
どうしたっていうんだろう、本当に? わたしはとうとうしびれを切らし、階段の踊り場まで階下の様子を見にいった。するとちょうどよく、両手にリネンをかかえたエミリばあやが、階段をあがってきた。
「父さま、怒ってる?」
声を殺して、わたしは聞いた。すると、ばあやはこちらをにらんだ――その小さな目には、なんと、涙がたまっていた。
「お嬢さま、それどころではありませんよ。ヤンさまがあんなにお悪いと言うのに」
「ヤン兄が? 骨でも折ったの?」
「そんなんじゃございません、おかわいそうに、化け物の毒にあたられたんでございますよ。それがまた、なんの毒かもわからない、恐ろしい毒で、お医者さまも困っておられるんです。お父さまもお母さまも、たいそうなお嘆きだというのに、ほんとうに、こんなときに、どこへいってらしたんです。たった三人きりのご兄妹だというのに!」
最後まできかず、わたしは階段をかけおりた。そうだ。たしかにクレイディルなら、そういうこともありうる。あの忌々しい長虫は、牙に強い毒をもつし、唾液や体液にも毒があるのだ。たとえ噛まれていなくったって、狼の雷が落ちたときに、毒があたりに飛びちった可能性もある。暗い廊下を駆けぬけ、明かりのもれる居間にとびこむと、わたしはさけんだ。
「父さま、わたし、何の毒かわかるわ! クレイディルよ、あれは、クレイディルよ。ほら、あの、砂漠にいる――」
そこではっと、我にかえった。
部屋じゅうの人が、わたしを見ていた。父さま、母さま、ロイ兄と竜舎長、そして、竜舎の人たちが。
ロイ兄はむずかしい顔で腕組みし、だまってこちらをにらんでいた。母さまは、もう一つ心配事がふえた、という顔をしていた。竜舎長ははっきりと呆れ顔をし、竜舎の男たちにいたっては、わざとわたしから目をそらしながらも、ちらちらとこちらを見ては、ふくみ笑いをかわしていた。
そして、父さまは――
――もはや、父さまの顔を見る勇気は、わたしにはなかった。床を見つめたまま、わたしは声をしぼりだした。
「……おかしく聞こえることは、わかってます。でも、あれはクレイディルだったんです。書庫の本で見て、知ってるんです。唾液と体液には毒があるって、書いてあ――」
「――ミリエル」
それは今まで聞いたなかで、いちばん怖い、『ミリエル』、だった。
「おまえは、自分がなにをしたか、わかっているのか」
「……はい、父さま」
「ならば、これ以上恥をさらす前に、上がりなさい」
逆らうことは許されない口調。けれど、わたしは動かなかった。だって、まちがったことは言っていない。今夜わたしがしたことは、たしかにまちがっていたけれど、でも、今わたしが言っていることは、絶対にまちがっていない。
それに、これにはヤン兄の命がかかっているかもしれないのだ。救いをもとめ、わたしはロイ兄に目を向けた。
「ロイ兄は見たわよね? あの、土の中から出てきた頭と足を――」
「ミリエル!」
父さまが一喝し、わたしはびくりとふるえた。それでもその場にとどまっていると、父さまが言った。
「ロイ。ミリエルをつれていきなさい」
しんと静まりかえった部屋のなか、ロイ兄が黙って歩みでる。わたしの腕をとり、居間の外へつれだす。
そのまま長い廊下をとおりすぎ、階段をのぼり、二階のわたしの部屋の前まできたときだった。ふいに、ロイ兄が足をとめた。
「ミリエル、おまえ、あれがほんとうにクレイディルだと思うのか?」
その声にわたしは顔をあげた。ロイ兄はきびしい顔でわたしを見ていた。わたしはうなずいた。
「思うわ。あんなところにいるわけないことは、わかってる。でもあの足、体、どこをとってもクレイディルそのものだもの。毒があるというところも、あてはまる。たとえクレイディルじゃなくても、その仲間にまちがいないと思うわ」
ロイ兄は眉をひそめた。
「俺も、見たかぎりのことは報告したんだ。でも父さまも竜舎長も、なんの獣か見当もつかないという。――おまえは、自分が父さまよりもよく知っていると言うのか」
わたしは苦笑いした。
「それはちがうわ。ただ、わたしは竜舎にいけないし、竜の相手もできないから、ひまなときよく屋敷の書庫にこもっていたの。入ってすぐの右にある、三冊組みの大きな図説、兄さまもしっているでしょう。あれをながめていたのよ」
「だがそれは、本で見たというだけだろう――」
「そうよ。それも、白黒のさし絵でね。でも父さまや兄さまが知っているのは、この国の中か、隣国の街道ぞいで見かける獣だけでしょう。そして、そのなかにあれに似たものはいなかった――」
そこでわたしは、いいことを思いついた。
「――そうだわ、簡単なことじゃない! あの本をもって、もういちどあの丘にいったらいいんだわ。上から見たって、大体の姿はわかるでしょうし、それで本当にクレイディルだってことになったら、どんな薬がきくかも調べられるはずよ。なんなら、都の博士に治療をお願いすることだって――」
そのとき、いきなりロイ兄が声をはりあげた。
「あの丘には、もう決して行くな!」
わたしは思わず目をみはった。いつも冷静なロイ兄が、こんな声を出すのはめずらしい。
「だいたい、クレイディル、クレイディルと簡単に言うが、おまえはそれがどういうことかわかっているのか? もしそれが本当なら、王国の領土のどまんなかに、未開の地の化け物があらわれたことになるんだぞ。そのうえあの狼だ。あんなものとかかわり合いになったら、ディースは終わりだ。いいか、あの丘にはもう、二度と行くんじゃない。あの丘で見たことは、すべて忘れるんだ」
あまりの剣幕に、わたしは一瞬ぽかんとなった。
それからたずねた。
「天狼――が、どうして? どうしてそんなに問題なの」
ロイ兄はじっとわたしを見た。重大な秘密を教えてもいいかどうか、値踏みするような顔だった。それから、声を低めて言った。
「おまえは知らないだろうが、あの獣使いはホローの者だ。――ホローの家は昔から呪われている。その家の獣も、同じだ」
その言葉に、わたしは思わず息をつめた。
呪い。獣にかかわる者がその言葉をつかうとき、そこにはたんなる迷信以上の意味がこめられている。つまり――
「獣に、禁じられた服従の術をかけているのね」
いらだたしげにうなずき、ロイ兄はまわりを見まわした。眉根をよせて、低く答える。
「そうだ。だがこのことは、どこでも、誰にたいしても決して口にするな。女が触れていい話題じゃない」
「でも、本当に? あの狼、おかしなところがあるようには見えなかったわ」
「そんなもの、一目でわかるようにするはずがないだろう。だが、ホロー家の騎獣が何らかの術をかけられていることは、獣使いのあいだに広く知れわたった事実なんだ。なにしろホローの一族は、そのために破滅したんだからな。あの丘にいた、あの獣使い――あいつは、ホローにのこった獣使いの最後の一人だ。やつとおなじ血をもつものは、十年前、男も女も殺された。飼っていた天狼に、術をやぶられて殺されたんだ」
「天狼に?」
わたしは思わず声をあげた。ロイ兄があわてて、黙れと目で合図する。階下には竜舎の人たちがいる。わたしは口を押さえ、とっさに階段に目をむけた。けれど、頭のなかでは今聞いたことを、ものすごい勢いで考えていた。
飼われている幻獣が、人を殺すなんてありえない。というか、あってはいけない。だって、人の血を覚えさせてはいけないというのが、幻獣をあつかう上での第一にして最大の禁忌なのだから。一度でも人を殺した幻獣は、それきり人の命令を受けつけなくなる。それどころか、人間を好んで殺すようになるのだ。どうしてかはわからない。けれど、たしかにそうなのだ――。
だまりこんだわたしを見おろし、ロイ兄は重いため息をついた。
「……これで、まっとうな生業につく獣使いが、やつらに関わってはならない理由がわかっただろう。関わりをもったと噂されることすら、絶対に避けなければならないことが」
わたしはだまってうなずいた。ロイ兄のいう意味がよくわかった。獣使いが獣に殺される――それほどに忌まわしい、ありえないことを、ロイ兄は、わたしを信用して話してくれたのだ。その信頼をうらぎってはならない。ロイ兄の言うとおり、すべて忘れよう。あの天狼も、そのあるじのことも、すべて忘れてなかったことにするのだ。
けれど、そのとき。
ふいに、あの声が耳によみがえった。
『でも、彼らはあなたにとって、唯一の隣人でしょう――』
脳裏にひびくその声に、わたしは思わず目を見ひらいた。
そうだ、あの奇妙な声。聞いたことのない響きをもつ、豊かな声。
そしてあの――ゆったりと月の下を飛ぶ姿。
あれほど見事な、美しい獣が、けがれた呪いをかけられているというの? 忌まわしい術にその身をおかされていると? ……本当に?
気がつくと、わたしは兄に切りかえしていた。
「でもロイ兄、それっておかしいわ。というか、少なくとも今日見たあの狼は、禁じられた術なんてかけられてないと思うわ。だってわたし、聞いたもの。あの狼が――」
そこで、わたしはしゃべるのをやめた。自分が言おうとしていることに気づいたのだ。
それは、言ってはいけない言葉だった。少なくとも、今この場では絶対に。
なのに、とまらなかった。のろのろと、わたしはつづけた。
「――あの狼が、しゃべるのを……」
その瞬間、ロイ兄の明るい茶色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。そのままじっとわたしを見つめる。自分の妹がどこかおかしいことに、はじめて気づいたとでもいうように。
やがて、こわばった顔でロイ兄は言った。
「……とにかく、ミリエル。今は部屋に入れ」
背中を押されるまま、わたしは部屋に入った。背後でしずかに扉がしまり、足音が遠ざかる。
その音が聞こえなくなるまで待ってから、わたしはベッドにたおれこみ、シーツに顔をうずめて泣いた。
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