第3話

 その獣は、空にいた。

 月に照らされた丘のうえを、ゆったりと弧をえがきながら飛んでいた。

 わたしはごくりとつばを飲んだ。自分が見ているものが、信じられない。

「天狼……」

 ――翼をもつ白狼、フェンリール。

 地上でもっとも強いといわれる、幻獣のうちの一つ。

 図録の絵でしか見たことのない獣が、今、目の前を飛んでいる。白い体を月に輝かせ、大きな翼を、ゆったりと打ちおろしながら。なんてきれいなんだろう。なんて、堂々としているんだろう。

 わたしは言葉も出なかった。天狼をこの目で見られるなんて、夢のようだ。でも、夢じゃない。その証拠に、輪をえがいて飛ぶ狼の背中には、人の姿がある。

 人に馴らされた獣なのだ。扱いがむずかしいといわれる天狼を、誰かが乗りこなしている。

「……行こう、アレク」

 わたしは馬の腹を蹴った。

 急がないと、あの狼がどこかに行ってしまう。

「早く行こう」

 わたしはもう一度アレクを蹴り、それでも言うことを聞かないと、今度は強く蹴った。

 それでも、アレクは動かない。

 そこではじめて、わたしは馬を見おろした。そのおびえきった耳と、ふるえる体を。

 ――ああ、だめだ、これは。

 あのクレイディルに、さんざん追い回されたのだ。一生に一度、あるかないかというほどの、怖い目にあったのだ。今すぐ歩けなんて無理な注文だった。

 手をのばし、首筋をなでてやる。そうしながら、ちらりと丘のうえに見ると、月の浮かぶ空に、もう、狼の姿はなかった。どうやら、地上におりたらしい。

 急がないと。暗い水面に目をおとし、すこしばかりためらってから、わたしは覚悟をきめた。鞍からおり、冷たい水がペチコートの中に入ってくるのを感じながら、底の見えない沼に降り立つ。お腹の上まで水につかりながら、先に立って手綱をひっぱる。

「おいで、ほら。もう、怖くないから」

 精一杯、やさしい口調を心がけても、アレクは言うことを聞かなかった。後ずさり、いなないて首をふる。引きずられ、足をすべらせて、わたしは水中に倒れこんだ。ぽたぽたと髪から泥をたらしながら、起きあがる。でも、だめだ。ここで腹を立ててはだめだ。この馬がいなければいまごろ、わたしなど、血まみれの真っぷたつだ。馬鹿な主人を、よく、振りおとさずに守りきってくれた。

 ぬれた髪をかき上げ、暗い岸辺を見る。なんとかして、この子をあそこまで連れていかないと。こんな水の中に長くいたら、病気になってしまう。――とはいえ、一体、どうしたらいいものやら。

 考えあぐねるあいだにも、ぬれた髪が首に張りつき、冷たいしずくがしたたって、体がどんどん冷えていく。いくぶん温かい夜とはいえ、四月の末は、水浴びするには寒すぎる。わたしは情けない顔で馬を見あげ、手をのばして鼻先に頬ずりした。――お願い、歩いてよ。

 そのときだ。風にのって、かすかに、ロイ兄の声が聞こえてきた。

「助けてくれたことには、礼をいう。……だがおまえは、ホローの者だろう。ということは、それは、その狼は――」

 苦々しげにとぎれた言葉に、わたしはおどろいてふりかえった。誰にでも四角四面に礼儀正しいロイ兄が、こんな物言いをするなんて。しかも相手は、ヤン兄の命の恩人なのに。

 ところが、かえってきた返事は、さらに、度をこして無礼なものだった。

「――ああ、そうだ。何か文句でも? ホローの狼に助けられるぐらいなら、死んだほうがましだったか?」

 思わず、息をのむ。あまりにもはっきりと、相手を見下した言葉だ。

 しかも、若い。天狼を乗りこなすほどの獣使いなら、てっきり壮年か中年だと思っていたのに、まだ少年といってもいい声だ。声はつづいた。

「だが、こちらとしても別に、あんたたちを助けようと思ったわけじゃない。おろかなあるじに使われる竜を、見殺しにもできなかっただけだ」

 その言葉に、目をむく。――おろかなあるじですって? 我らがディースの長兄に、よくも言ってくれたものだ! 

 とはいえ、その言葉が正しいことは、認めざるをえなかった。万に一つも勝てる見込みのない相手に、サラマンダーをけしかけたのは、兄たちなのだ。

 そのせいだろうか。兄はただ、低く答えた。

「――そんなことをいう資格が、貴様にあるのかどうか、知らないが。弟が心配なので、これで失礼する。助けてくれたことには、感謝する」

 言うなり、夜空にぴしりと鞭の音がひびく。アシの葉のむこうに、二頭の竜が舞いあがる。

「ちょっと!」

 わたしはあわてた。まさか、わたしをこのままおいていくつもり? 

 けれど、その、まさかのまさかだった。二頭の竜は池のうえを越え、あっというまに遠ざかっていった。わたしに見えたのは、灰色の竜の腹と、兄たちの長靴の裏だけ。

 思わず、冷たい水のなかに立ちつくす。ロイ兄ときたら、わたしの無事をたしかめることさえしなかったのだ。馬鹿な妹のことなど、心配する気もおきないということか。

 いっそ、この場で泣きわめいてやろうか。一瞬、本気でそう思い、でも、馬鹿馬鹿しいからやめる。かわりに、自分に言い聞かせる。いい。もう、どうでもいい。わたしのことなど気にもかけない、薄情な家族のことなんて。かわりに、自分のことを考えるんだ。自分と、アレクのことを考えるんだ――暗くても、寒くても、みじめでも、わたしはこの子と帰るしかないのだから。

 やさしい笑顔をつくり、もう一度アレクの手綱をひく。顔をなで、首をさすり、鼻にキスして、ようやく一歩、歩かせる。

 ところが。

 いけそうだ、と思ったところで、またしても、アレクが足を止めてしまった――丘の上から、今までとはちがう、第三の声が聞こえてきたせいで。

「良かったんですか? あんな言い方をして」

 その声に、アレクの耳がびくっとふるえた。

 わたしも、はっと息を止めた。

 なに? この声。

「知るか。これで何か言ってくるようなら、やつらもよほどの恥知らずだろう」

 こたえたのは、さっきの獣使いだ。

「でも、わざわざ怒らせることもないでしょうに」

 ――その声に。ふたたび聞こえてきた声に、思わず、ぎゅっと目をつぶる。

 この声。みょうに調子のととのった、犬の鳴き声のような声。

 どくんと、心臓が強く打つ。どくん、どくんと打ち続ける。

 そんなこと、ありえないのに。あるはずがないと、わかっているのに――にもかかわらず、心のどこかで、わたしは、『それ』が正解だと知っている。

「こっちは命を救ってやったんだ、文句をいわれる筋合いはない。そもそも、ここに来ると言いだしたのはお前だろう。俺じゃない」

「それはまあ、そうですが。でも、彼らは、あなたにとって、唯一の隣人でしょう? ――多少、物わかりがわるいとしても」

 それきり、話し声はとだえた。

 かわりに、やわらかな羽ばたきの音がして、大きな月を背景に、狼が夜空に舞いあがる。

 その背に乗っている人影は、一つ。

 なら、今、しゃべっていたのは誰と誰?

 ふるえる手を、わたしはぎゅっと握りしめた。寒さのせいだけではなく、全身に鳥肌がたっていた。

 


 幻獣が、ときに、人の言葉をはなすことがあるという噂は、知っている。

 昔、知っていた。

 でも、わたしのまわりに、そんなことを本気にする人はいなかった。

 だから、わたしもそんなこと、本気にしなかった。

 ――本気にしないように、してきたのだ。もう、ずっと、長いあいだ。

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