第2話

 月明かりの下、丘を巻いてつづく道を、西に走る。木立ちにおおわれた段丘をこえ、ゆるやかに波うちながらつづくブドウ畑を駆けぬけ、サフール地方を南北につらぬくプーラ河にでると、増水した砂利の河床にかけられた、長いアーチ橋を一気にわたった。

 ここから、街道沿いに北へむかう一帯が、ロストックだ。

 わたしは北西の空に目をこらした。こうして、夕映えも消えた空に目をくばっていれば、二頭の竜の居場所は、すぐにわかるはずだ。サラマンダーというのは、とにかく、盛大に炎をあげないと戦えないのだから。

 はたして、すぐに、西の丘の向こうに、赤い光が見えた。一度。そして、もう一度。近くには火事もあるらしい。木々におおわれた遠い丘の、黒い稜線のむこうが赤い。

 いそがなければ。サラマンダーが二頭もいれば、決着はすぐについてしまう。森が切られて、もう、五百年にもなる。今さらこのあたりに、危険な獣など、あらわれるはずがないのだ。

 なのになぜ、父さまが、秘蔵っ子の火竜を、二頭も送り出したのかといえば――つまりはそれだけ、ヤン兄の腕が不安だったということだ。誰も、そうとは口に出さないけれど。

 丘を駆けのぼり、駆けおりる。不安げに首をふりたてるアレクをはげます。畑と木立ちと放牧地。しめった夜風。つゆにぬれた草のにおい。木立ちをすかして、路上を、青く、まだらにてらす月明かり。

 と、ふいに、黄色いカンテラの光が、ゆく手に、何かを照らしだした。思わずきつく手綱をひくと、それは、そばの放牧地の柵からはずれた、古びた白木の木戸だった。蝶つがいがちぎれ、板も割れて、まるで、なにかに体当たりでもされたようだ。

 思わず、首をかしげる。家畜がこいの木戸を、こんな風に開けはなしておく農夫などいない。中に入っている牛や馬は、歩く札束も同然のものなのだから。それに、番をしているはずの犬たちはどこへ?

 いぶかしく思いながらも、馬をすすめる。放牧地につづく畑を、足なみを落としてすすむ。

 すると――まただった。今度は、道の反対側。柵の横木が押しやぶられて、ななめに道をふさいでいる。

 こんどこそ、わたしは立ち止まった。このこわれ方、さっきと同じだ。まるで、大きな動物が、内側から体当たりでもしたような。

 ――もし、もしも、牛や馬が、自分で木戸や柵をこわして、出ていったんだとしたら?

 そんな馬鹿げた考えが脳裏にうかんで、わたしは思わず顔をしかめた――そんなこと、あるはずがないでしょう! けれど、一度思い浮かべた情景は、なかなか頭から離れない。あわてふためいて木戸に押しよせる牛たちの姿が、まざまざと目にうかぶほどに。でも、そんなこと、あるはずがない。あるはずはないのに――。

 気がつくと、馬の足がとまっていた。わたしの手のひらも、じっとりと汗でぬれている。

 なぜだろう。ひどくこわい。

 引き返すべきだ。そんな気がする。

 けれど。丘のむこうに見える、赤い空。木立ちにおおわれた、黒い稜線の先には、ときおり、舞いあがる火の粉も見える。もう、すぐ、そこなのに。ほんの少し、のぞき見るだけでいいのに――。

 少しのあいだ迷い、それから、わたしは心を決めた。

 一目でいい。なにがなんでも、竜の姿を見てから帰る。

 わたしには、今しかないんだから。こんなふうに、家の近くでサラマンダーが戦うことなんて、たぶん、もう、一生ないんだから。

 竜使いならば誰でも知っているはずの、戦う竜のすがたを見る機会は、わたしには、今夜が最初で最後なのだ。

「――行くわよ」

 迷いをふりすて、アレクの腹を蹴る。アレクがいやがっているのが、よくわかる。ためらいがちに歩きはじめる馬の腹を、もういちど蹴る。それでやっと並み足になるのを、さらに蹴る。

 そうして、最後の丘をこえると、炎が見えた。道を下ったさき、浅いくぼ地の底で、農場が燃えている。炎をあげる母屋。その上で輪をえがいて飛ぶ、二頭のサラマンダー。菜園と生け垣も燃えている。人の姿はない、逃げたのだろうか。

 ぐるり、ぐるり。竜たちが音もなく旋回をつづける。まだ、獲物をしとめていない証拠だ。わたしは目をこらし、燃える炎の明かりをたよりに、農場をおそったという獣をさがした。農場のまわりをくまなくながめ、それから、背後の丘に目をむける。

 すると、妙なものが目に入った。赤い火明かりに照らされた、暗い丘のあちこちに、子馬くらいの大きさの、黒っぽいものが転がっているのだ。形はさまざまで、丸っこいものもあれば、トゲトゲと何かがつきだしているものもある。しかも、その、妙なもののまわりでは、地面がひどく掘りかえされている。あるところでは、斜面にすじを引くように。またべつのところでは、芝土に渦をえがくように。

 なんだろう? 赤く照らされた丘を、わたしはじっと見つめた。

 そして、答えをさとった瞬間、全身の毛を、ぞっと逆だてた。

 でこぼことした黒いものは、牛だった。なだらかな丘の斜面に、三十頭か、それ以上の牛が、点々と転がっているのだ。どの牛も、体を裂かれ、足を宙に突きだしている。あるいは、全身をばらばらに引きちぎられて、飛びちっている。

 死んだ牛のまわりでは、丘が掘りかえされ、緑の芝土の表面に、巨大な畝のようなすじをえがいていた。そんなふうに掘りかえされた土のすじが、あたりの丘一面に、乱暴な字のようにのたくっていた。どんなに大きな鋤を使ったって、こんなに太い土のすじを、丘の上につけることはできない。こんなの――こんなの、幻獣にしかできないことだ。

 血の気が引くのが、自分でもわかった。こんな、こんなの、まともじゃない。わたしの知るかぎり、幻獣は、こんな無茶苦茶な殺しはしない――。

 逃げなくちゃ。回れ右しようと、わたしは震える手で手綱を引いた。

 とたんに、アレクがはじかれたように走りだした。はずみでカンテラをとりおとし、両手で馬にしがみつく。明かりもなしに、暗い斜面を疾走する。

 すると、うしろから、竜の羽ばたきが追いすがってきた。炎のにおいの風を巻いて、ロイ兄の竜が、すうっとわたしの横にならぶ。けれど、ヤン兄の竜は、わたしの真上で身をよじり、わたしの髪にふれるほど近くで、大きくもだえるように火を吐いた。熱風に肌をあおられ、ぞっとする。一歩まちがえば、今ので焼け死んでいる。

「馬鹿!」

 竜の鞍から身を乗りだし、ロイ兄がどなった。

「ここで何してる!」

 たずねられても、返事をする余裕などなかった。かわりに、必死の視線で答える――わたしだって、知ってたら来てないわ! ロイ兄は舌打ちし、さらに体を乗りだしてどなった。

「とにかく、はやくもどれ! やつがまた、どこからあらわれるか――っ」

 その瞬間、奇妙なことが、立てつづけにおこった。

 まず、ロイ兄のどなり声が、言葉の途中で派手にひっくりかえった。

 同時に、わたしの心臓が、どくんと一インチも跳ねあがった。

 同時に、アレクが前に飛びだした。そのまま走る。走る。わかる。来る。追われている。背後で、地面のしたで、何かがわたしたちを追ってきている。足元の土がうごき、地面が割れ、ぶちぶちと音を立てて、芝土が引きちぎられていく。

 ミリエル! ロイ兄の叫びが聞こえても、わたしはふりむかなかった。見なくったって、わかる。感じる。すぐ後ろ、ま後ろの地面の中から、何かがすごい速さで迫ってきている。地表をつきやぶり、空を横ぎり、巨大な丸太のような牙を、今、わたしの背中めがけて――!

 そして。

 祈る間さえない、一瞬のあと。

 わたしはふりむいて、見た。わずかな時間差で空をきった、黒光りする二本の牙を。その持ち主である巨大な長虫が、水に飛びこむ魚のように、ざぶりと地面に頭をつっこむところを。たぐられる縄のように、それは地面へもぐっていった――その、ありえない速さといったら!

 土くれをしぶきのように浴びながら、わたしは前にむきなおり、駆けつづけた。今、今は、アレクのほうが速かった。でも、また来る。また来る。まだ、すぐ後ろにいる。

 アレクが走る。丘を下る。丘のふもとで弧をえがく夜道の先に、ぼんやりと、木立ちにかこまれた黒いものが見える。あれは池だ。さっきそばを通った、池だ。

「あそこへ!」

 精一杯叫んだはずの唇は、ただ、わなないただけだった。けれど、馬にはわかったらしい。アレクは最後の一息で、木立ちを突きぬけ、土手を飛びおり、岸辺のアシを割って、池に飛びこんだ。

 水しぶきがあがり、水面の月がくだける。

 そして、そのとたん。

 背中一面に感じていた獣の気配が、すっと引いた。

 逃げきったのだ。

 がちがちと鳴る歯のあいだから、わたしはどうにか、息をすいこんだ。すって、はく。すって、はく。目をつむり、ふるえる体を両手で押さえつける。落ちつけ。落ちつくんだ。今、今は、とりあえず逃げ切ったのだから。ああ、でも、どうしよう。どうしよう――クレイディル、クレイディルが、こんなところに出るなんて!

 一瞬しか見なかったけれど、まちがいない。ムカデのような体。関節がある無数の足。なにもかも、屋敷の書庫にある図録の絵姿にそっくりだもの。

 でも、だとしたら、どうして? どうして、あんなものがここにいるの? クレイディルは、はるか南の砂漠にすむ獣だ。焼けるように熱い、かわいた砂を好むのだ。天地がひっくり返ったって、こんなところにいるはずがないのに。

 でも、逆にいえば、あれがクレイディルだからこそ、わたしたちは助かったのだ。砂漠の熱砂にすむあの毒虫は、水がきらいで、ぬれるのもきらいだ。水のそばにはあらわれないと、図録の解説にも書いてあった。こんなに小さな池で、動きを止められるかどうかわからなかったけれど、追ってこないからには、大丈夫なのだろう。

 顔をあげ、あたりを見まわす。逃げるなら、水伝いだ。あの虫はたぶん、まだ、近くにいる。

 けれど、月明かりに照らされ、ぐるりをアシにおおわれた池に、出口になりそうな流れは、一つもなかった。雨水のため池なのか、流れこむ川も、流れ出す川もない。

 でも、なら、いったい、どうすれば? 二人の兄の助けは、期待できない。サラマンダーの炎では、あの皮の厚い毒虫に、たぶん、やけどすら負わせられない。

 でも、だったら、どうすればいいの? もしもクレイディルが、朝までこのあたりをうろうろしていたら――? 冷静になろうとしても、涙がこみあげ、わたしはぬれた手で目をこすった。

 そのときだ。

「ヤン!」

 するどい叫びが耳をつき、わたしははっと顔をあげた。見ると、丘のうえを飛ぶサラマンダーの、一頭の鞍があいていた。

 まさか、落ちたの! そうさとったわたしが、がく然とするのと、月にてらされた丘の上に、何かがぼこりと頭を出すのとは、ほとんど同時だった。土を割り、夜空に伸びあがったそれは、ついさっき、わたしのうしろにあらわれた、あの化け物にちがいなかった。

 耳をふさぎたくなるようなヤン兄の悲鳴がきこえ、そして、もういちど、もっと高い悲鳴がきこえた。嘘。嘘だ。あまりにもあっけなく、兄が死のうとしている。

 その瞬間。


 ――どおん。

 

 と、天地を打ち鳴らすような音が、あたりにひびきわたった。

 空と丘とに光が走り、すべてが昼のように明るくなる。

 そして――

 目に焼きついた白い残像が消え、暗い空の下、すべてのものが、ふたたびその色をとりもどしたとき。

 顔をあげたわたしの前に、四頭目の獣があらわれていた。

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