青碧の空 翠緑の谷 ーあおのそら みどりのたにー

青猫

第1話

 晴れた日には、丘をのぼる。

 屋敷の裏の小高い丘に、黒馬のアレクとのぼるのだ。

 街の塔ほどの高さもない、せいぜいが、『小高い』程度の丘だ。乗馬といえるほどの距離はないし、散歩にしても近すぎる。屋敷の裏で大声を出せば、丘の上までとどいてしまうくらいだもの。


 けれど――

 緑の草におおわれた丘の上に、こうして、あおむけに寝ころがれば。

 なだらかに盛りあがった丘の稜線が、あの息苦しい家をかくしてくれる。

 見えるのはただ、青い空と、緑の草だけ。

 澄みきった青と、あざやかな緑だけ。

 

 ここにいると、わたしはいらだちを忘れられる。

 いつかきっと、どこかに行けるような、

 そこで、好きに生きられるような、

 そんな気持ちになれるのだ。


 だから、本当はずっと、こうしていたい。

 風と草の中に、寝ころんでいたい。

 でも――


 

「――お嬢さま! ミリエルお嬢さま!」

 丘のふもとから、声がきこえる。

 細くて高い、エミリばあやの声が。

「――はやくお戻りください、お嬢さま! お食事の時間でございますよ!」

 いつだって、こうして、誰かがわたしを呼びもどすのだ。

 いつも誰かに見られている、いつも誰かに見張られている、あの家に。



 わたしはミリエル。ミリエル・ディース、十六歳。

 このあたりに古くからある、牧場の娘だ。

 といっても、我がディース一族の牧場は、どこの田舎にでもあるような、ふつうの農場とはちがう。うちが飼っているのは、牛や馬や豚といった、もしゃもしゃとした毛のはえた、つまらない生き物とはちがう。

 もっと大きく、恐ろしいもの。太古からつづく、『幻獣』の一族。

 火をはき、天をかける――『竜』だ。

 

 もちろん、一口に『竜』といっても、その種類は多い。都の貴婦人が連れあるくための、動く宝石のような小竜もいれば、巨大な体を引きずる、岩山のような地竜もいる。

 数ある竜の品種のなかでも、うちが得意としているのは、火竜。翼をもち、紅蓮の炎をはく、空の猛者。『竜飼いのディース』、『サフール地方のディース牧場』といったら、国中にその名を知らぬ者のない、幻獣使いの一族なのだ。

 とはいえ、ほんの何代か前までは、わたしたちディース一族だって、どこかの山奥で幻獣を狩る、ありふれた、流れの猟師にすぎなかった。それを、何代か前のご先祖さまが、戦場で、竜をつかって王さまをお助けしたとかで――その手柄で土地を拝領し、この地に牧場をかまえて、早百十余年。

 今では、数万の羊と、数十頭の竜をかかえて、それなりの富と、名誉を手にしているわけだ。城にあがれば、王さまにも拝謁できるし、港の豪商たちともつきあいがある。財産だって、都の貧乏貴族たちが、うらやましがる程度にはある。地方の家としては、なかなかのものだ。


 でも、そんなあれこれも――わたしには、あまり関係がない。

 だって、家をつぐのは、幻獣をあやつるのは、男だけ。

 女のわたしなど、一族の数にも入らない。

 それに、もう一つ。

 幻獣使いっていうのは、血なのだ。幻獣をあやつる力は、血でつたわる。

 だから、うちみたいな幻獣使いの家系は、結婚や、それにともなうあれこれに、ひどく気をつかう。血が薄まらないよう、獣を使う力のない、普通の人とは結婚しないだとか、一族の中でも力の強いものは、家の外には出さないだとか、そういった不文律が、山のようにある。

 で、その結果、どうなるかというと。

 男はともかく、女は、結婚までは、家の中でしとやかに暮らす。

 そして年頃になったら、おとなしく、家長がきめた相手と結婚する。

 それが、娘としてごく当たり前の、ごく普通の、かしこくも当然のふるまいだと思われているのだ。


「――アレク!」

 馬をよび、鞍にまたがる。

 この小さな丘からは、地平までつづく、広いサフール台地を見わたすことができる。

 はるかな山すそにむけて、折り重なる小さな丘と、そのあいだをうねる、木立ちに埋もれた川。

振り返れば、木立ちにかこまれて建つ、赤レンガのディース屋敷。いかめしい三階建ての母屋の奥には、馬屋がつづき、その先の広い庭と、こんもりとした木立ちの向こうに、ゆったりとうねる牧草地がつづいている。

 そして、その牧草地のさらにむこうに、灰色のサイコロを並べたような、十四棟の竜舎が見える。

 七つずつ、二列にならんだ、石づくりの竜舎の奥は、竜たちの運動場だ。竜の蹴爪に踏みあらされた土の上に、止まり木とよばれる、竜を止まらせるための岩が並んでいる。

 わたしは目をすがめ、運動場に出ている竜が、一頭か二頭くらい、いないかと探した。今日みたいに天気のいい日には、ここから、空をまう翼竜が見えることもあるのだ。

 けれど、今日は一頭も出ていない。ためいきをつき、歩をすすめる。


 かぽかぽとひづめを鳴らしながら、丘をまく細道を下れば、ふもとの屋敷は、もう、すぐそこだ。日陰の斜面と母屋とにはさまれた、しめった裏庭にたどりつけば、見えるのはただ、レンガの壁と、ツタばかり。

 ほんの気休め程度の散歩。ほんの気休め程度の自由。わたしに許されているのは、たったそれだけ。牧草地を越えたすぐそこにある、あの灰色の竜舎にだって、行くことはできない。

 わたしが行けば、竜舎で働いている男たちは、口をそろえて言うだろう。

 ――お嬢さま困りますよ、お帰りくださいよ。



 馬丁にアレクをあずけ、部屋にもどる。手をあらい、着がえて食堂に入ると、もう、母さまが席についてまっていた。

「おそいわよ、ミリエル」

 とがめる言葉と裏腹に、口調はおだやかだ。いつだって、おだやかで楽しげなのが、母さまなのだ。

「わたくしは、さきほどからお呼びしていたんですけれど」

 ぷりぷりしながら、エミリばあやが言う。年取ったばあやには、わたしの遅刻こそが日々の一大事なのだ。まあ、他に気にかけることもないのだから、仕方ないけれど。

「兄さまたちは?」

 席につきながら、わたしはきいた。二人の兄の、どちらも食堂にいなかったからだ。長兄としていそがしいロイ兄はともかく、いつもふらふらしているヤン兄までが、食事におくれるとはめずらしい。

 それに、父さまの姿も見えないけれど――こちらは、会合だの何だので、家を空けるのも、いつものことだ。

「みな、竜舎にいっているわ。急なお仕事なのですって」

 言ってから、母さまは思い出したように眉をひそめた。

「なんでも、どこか北の方で、農場が獣におそわれたのですって。こわいわねえ」

 なんですって? わたしは思わず、顔を上げた。どこかって、どこ? ――獣って、どんな? 

 でも、口に出して聞くまえに、母さまの関心は、ほかにうつってしまう。

「まあ、ともかく、わたしたちは、先にすませてしまいましょ。お父さまたちは、今夜はおそくなるとおっしゃっていたから」

「お父さまたちって、ヤン兄も?」 

「ええ、そうだとおもうけれど」

 上の空でいったきり、母さまは、入ってきたお給仕に目をむけてしまう 。もともと、牧場のことには関心がないのだ。この家に嫁ぐまで、牧場とも、幻獣とも、縁がなかった人だから。

 都の豪商の娘だった母さまと、父さまは、まわりの反対をおしきって結婚した。そこにどんな恋愛譚があったのか、そもそも恋愛譚があったのかどうかすら知らないけれど、その結果、都の商人たちとの付き合いが深まり、今の、すっかり富豪めいたディース家ができあがったのだから、父さまの決断も、それはそれで英断だったといえるのだろう。

 ゆげの立つ、あざやかな緑色のソラマメのポタージュを、給仕が皿にそそいでくれる。両手を組み、感謝の祈りをとなえていると、廊下から大きな足音が聞こえてきた。

 ばたん、と大きな音をたてて、食堂の扉がひらく。

「まあ、あなた。召し上がるんでしたら、すぐ――」

 あわてて、母さまが立ちあがる。けれど、母さまの言葉など、父さまは聞いていなかった。

「喜べ、フランシス。初陣だ」

「まあ、あなた。でも、何がですの――」

「ロイにくわえて、ヤンも、乗ることになる。火竜だぞ」

「まあ、でも、あなた――」

「ヤンも、もう十九だよ、フランシス。いつかは一人前にならねばならん。大丈夫、いい頃合だ。それに一月かかるキャラバンの旅より、近くの獣退治のほうが、お前も安心だろう」

「それはそうでしょうけれど、でも――」

 母さまはまだ、何か言おうとしていたけれど、父さまはもう、聞いていなかった。大またに食堂を横切り、ドアの手前でふりかえる。

「来なさい、フランシス、それに、ミリエルも。もうすぐ二人が、騎竜で前庭にくることになっている。お前たちに、初陣のあいさつをしにな。むかえてやりなさい」

 その言葉に、母さまが、優雅な身のこなしで席を立った。あとにつづいたばあやは、かわいいヤン坊ちゃまの初陣に、はやくも感涙気味だ。

 わたしも、仕方なく立ちあがる。この家の娘として、そうしないわけにはいかないから。



 暗い廊下に出て、女中たちの前を歩く。先をいく母さまのスカートがさやさやと鳴り、クリーム色のタフタがランプに映える。その、つやつやとした絹地をみつめながら、わたしは唇をかんだ。

 ――ヤン兄が、初陣。

 ヤン兄が。

 あんなに出来のわるい兄でさえ、男というだけで、竜がもらえる。

 わたしは、女というだけで、毎日、居間で刺繍をしていなければならないのに。

 シャンデリアがともる玄関ホールでは、男の使用人たちが、壁ぎわに勢ぞろいしていた。扉の外は暗闇。聞こえてくるざわめき。敷居をこえ、テラスに出れば、かがり火の焚かれた前庭は、人でいっぱいだ。竜舎の男たち。農場の男たち。下の村の村長と、助役たち。みな、二頭の竜と、そのあるじをまっている。植えこみの向こう、放牧地からひびいてくる笑い声は、村娘たちだろう。母さまに似て、すらりとした美男子のヤン兄は、村の若い娘たちに、たいそう人気があるのだ。

 やがて、竜舎のあたりで、ちいさな赤い火が二つ、ふわりと飛び立った。わきおこるどよめき。みながカンテラをふってむかえるなか、二つの炎はぐんぐんこちらに近づくと、植えこみの木立ちを飛びこえて、みなの頭上に踊りでた。

 とたんに、あがる歓声。ごおっと吹きつける熱気。輪を描きながら飛ぶ、二頭の火竜。思わず目が吸いつけられる。黒い皮膜の翼、しなやかな灰色の腹、息をするたびに鼻から吹きだす、真紅の炎。その炎を受けて、金と黒とに浮かびあがる、くっきりとした、正円の瞳。

 サラマンダー。

 何年ぶりに見るだろう。

 ほんの小さなころに、遠くから見たことがあるだけの火竜。ごつごつとした黒い背中、大きなうろこ。なにもかも、覚えていた通りだ。

 旋回をつづける二頭の竜の、つやつやと輝く黒革の鞍の上から、兄たちが、みなに挨拶する。まず、生真面目なロイ兄が。そして、新品の青い上着を着こみ、洒落者めかしたヤン兄が。ヤン兄の芝居がかった一礼に、竜の炎に赤々と照らし出された人々が、わあっと歓声をあげる。

「その翼なら、ロストックまではすぐだ! しっかりやれ、二人とも! ディースの男であることを忘れるな!」

 父さまが言い、さらに歓声があがる。祝福の言葉に手をあげて答えながら、兄たちはもう一度、庭をぐるりと飛び、それから高く舞いあがって、一気に西へと飛び出した。それを追いかける、ひときわ大きな喝采。今夜、ディースに、新しい竜使いが誕生したのだ。

 満足げな父さまの顔。誇らしげな母さまの顔。赤々と燃える竜の炎が去り、ふたたび暗闇にしずむ前庭で、人々は手に手にカンテラをかかげ、これでディースも安泰でだの、旦那さまの若いころを見るようでだのと、口ぐちにおべんちゃらを言っている。

 冷めやらぬ興奮につつまれたテラスで、わたしはゆれる明かりに照らされた、父さまと母さまの笑顔を見た。それから、竜が飛び去ったあとの、暗い空を見た。竜たちの吐き出す炎を、その、大きな炉のような熱を思いだす。彼らがはばたくだけで庭中に吹きあれた、熱い風を思いだす。そのままぎゅっと目をつむると、竜の吐息のように熱い涙が、まぶたを割ってころがりおちた。


 どうして?

 どうして、わたしはあれに乗れないの?


 その涙をだれかに見られる前に、わたしはテラスの石だたみを後ずさり、重い玄関扉を後ろ手にあけて、無人の屋敷へすべりこんだ。廊下を駆けぬけ、階段を駆けのぼり、部屋に飛びこんで、ふるえる指でドレスを脱ぎすてる。茶色の乗馬服に着がえ、髪を結いなおし、上着の下にランプをかくして、裏階段から外へ。芝生を走り、暗い馬屋に飛びこんで、馬屋番のカンテラに火をともす。

 すると、ほし草をはんでいた馬たちが、なに? というようにわたしを見た。黒い、濡れたような目に明かりをうつし、黄色いワラの先を、口からはみ出させたまま。

 馬鹿なことをしている。わかっている。

 馬鹿なことがしたいのだ。今、すぐに。

「……行こう、アレク」

 やわらかな毛につつまれた、黒い背中に鞍をのせる。

 従順な馬は、なぜ? とも、どこへ? とも聞かなかった。

 カンテラの明かりと月の光をたよりに、わたしたちは外へ飛びだした。

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