二人きりの世界

三鹿ショート

二人きりの世界

 この世界は、明らかに異常である。

 何故なら、私以外の生物が存在していないからだ。

 だが、目にしないものは生物のみであり、かつて存在していたであろう人間たちが作り出した建物などは、そのままの状態だった。

 つまり、私を残して、他の生物が一瞬にして消え去ったということになる。

 その事実に、私は孤独感に苛まれた。

 家族の仲は良好とはいえず、近所づきあいもほとんどなく、近所で飼育されていた犬や猫の鳴き声を嫌っていたものの、それが無くなってしまったということに対して己が想像以上に寂しさを覚えていることは意外である。

 このような感情を抱くと知っていれば、もう少し態度を改めていただろう。

 しかし、後の祭りだった。

 眠れば世界が元に戻っていると信じ、私は何度も睡眠と起床を繰り返したが、私以外の生物を目にすることはなかった。


***


 何もせず、黙っていれば孤独感によって精神的な不調を来すおそれがあったため、私は考えを変えることにした。

 他者の目が無いのならば、好き勝手に行動することが可能である。

 私は衣服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ格好で外に飛び出した。

 今まで味わったことのない解放感に、思わず笑みがこぼれた。

 他にも、かつて好意を抱いていた相手の自宅に向かい、箪笥の中に入っていた下着や衣服を使用して自らを慰めたりしているうちに、数日が過ぎた。

 これまで生きてきた中で、最も楽しさを覚えた日々だった。

 同時に、最も虚しさを覚えた。


***


 当てなく街を歩いている中で、私は一人の人間を発見した。

 自分以外の人間の存在を、これほどまでに嬉しく思ったことはない。

 幸運なことに、その人間とは、私の知り合いだった。

 同じ会社に勤めている同僚であり、何度か食事にも行った仲ではあるが、それ以上の関係ではない。

 だが、今の私ならば、窮地から救ってくれた恩人として、彼女を女神のように扱うこともやぶさかではない。

 距離はあるものの、私は彼女に呼びかけながら、駆け寄っていく。

 無人であるために私の声は平時よりも響いているはずだが、奇妙なことに、彼女は私に対して何の反応も見せることなく、歩みを続けている。

 追いつき、傍らで呼びかけ続けたとしても、彼女は私に目もくれない。

 腹立たしくなってきたため、私は思わず、彼女の肩を押した。

 しかし、彼女は身体を一瞬よろめかせただけで、再び同じように歩き始めた。

 そこまで私のことを無視したいのかと、苛立たしさは強まった。

 気が付けば、私は彼女の頬を拳で殴りつけていた。

 彼女が地面に倒れ込んだ姿で見て、さすがにやり過ぎたかと思ったが、それでも彼女はゆっくりと立ち上がると、同じように歩みを再開させた。

 それらの反応から察するに、彼女は私のことを意図的に無視しているわけではないようである。

 彼女は物理的な接触には反応するが、それ以外の行為によって私に反応することはないらしい。

 まるで、目的地に向かうことを優先された機械のようだった。

 彼女が何処へ向かっているのかは不明だが、私のことを認識しないのならばと、下卑た思考を抱いた。

 早速とばかりに彼女を殴り倒すと、その肉体を味わった。

 彼女が快楽を覚えている様子は無かったが、私は違った。

 行為を終えると、彼女は乱れた衣服を直そうともせずに歩き始めるため、私は気が向くと彼女を押し倒すという行為を繰り返した。

 なんとも奇妙な光景であろうが、私は快楽を得られればそれで良かった。


***


 やがて彼女は、墓地へと到着した。

 そのまま迷いの無い足取りでとある墓標へと向かうと、手を合わせて、故人を偲ぶように名前を口にした。

 それは、私の名前だった。

 何故、彼女は私の名前を口にしたのだろうか。

 疑問を抱くと同時に、不意に思い出した。

 私は、既に死亡していたのである。

 加えて、その原因は、彼女にあった。


***


 彼女の言動から、私に対して特別な感情を抱いていたことは知っていた。

 だが、私はその反応に優越感を覚えただけで、彼女の相手をしようと思ったことは一度も無かった。

 彼女ではない異性と交際関係にあったことも理由の一つである。

 しかし、彼女はそのことを知らなかったのだろう。

 とある深夜、自宅に入ろうとすると、物陰で待ち伏せをしていた彼女は時間帯を気にすることなく叫んだ。

「私を裏切ったのですか」

 おそらく、私もまた彼女に対して好意を抱いていたと考えていたのだろう。

 だが、私は交際相手の存在を告げていなかっただけで、虚言を吐いたことはない。

 それを説明したが、彼女は受け入れなかった。

 それどころか、激昂し、叫び声をあげながら、私に向かってきた。

 彼女が身体を衝突させたと同時に、腹部を激痛が襲った。

 見れば、深々と包丁が突き刺さっていた。

 流れ出る血液を見て目を見開きながら、私はその場にくずおれた。

 一方の彼女は、弱っていく私を見て、動揺していた。

 ここまでのことをするつもりはなかったのだろうが、何もかもが遅かった。

 そこで、私の意識は途切れたのである。


***


 私の人生が終焉を迎えていたために、私以外の生物を見ることは叶わなかったのだろう。

 しかし、何故彼女だけを目にすることができたのか。

 それは、彼女が私の人生を終了させたことが原因なのだろうか。

 彼女に対して悪事を働いたわけではないにも関わらず、その手によって生命を奪われてしまったことに、超常的な存在が同情してくれたのだろうか。

 ゆえに、せめてもの慰めとして、このような世界が与えられたのだろうか。

 いくら考えたところで、納得することができる説明など、存在しない。

 私は、手を合わせる彼女を再び押し倒した。

 これから同じ料理だけを口にしなければならないが、仕方が無い。

 この世界から抜け出すことができないのならば、この世界に存在するもので我慢するしかないのだ。

 死してなお、生者であった時代と同じような欲望を抱いていることに、私は嘲笑した。

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