第5話 愛で世界を救うことになりました・5

 それは、手にした卵を落としてしまったような感覚だった。


 経験したことがあれば分かってもらえると思う。「しまった!」と一瞬痛切に思い、その後は……ただひたすら推移を見守る。


 地面と豪快に衝突して、グシャという快音を立てれば、むしろ快感とも思えてしまう。


 そんな経験だ。


 世界が滅ぶ感覚というものは、意外と後悔も何もない。卵を落として「ああ、やってしまった」という思いだし、ここまで行ってしまうとむしろ笑うしかなくなってしまう。


 しかし、世界は滅亡したというのに、僕の意識は未だ空中をさまよっている。


 これは一体何なのだろうと思うと、どこかから声が聞こえてきた。



『世界を救いますか?』

『▶はい いいえ』



 え、何、これ?


 もしかして、やり直せるの?



 さすがに出合い頭に世界を滅亡させて、「はい、さようなら」はあまりにも酷いので『はい』を選ぶしかない。



 と、急に世界が再生された。


 つまり、うっかり魔央が着替えている洗面所に入ってしまった場面に戻ることになる。


「ご、ごめん!」


 僕は史上最速で回れ右をして、そのままドアをバタンと閉めた。



 ようやく冷静になってくる。


 水の音を聞いて、迂闊に部屋に入ってしまったのは僕の不覚だ。


 それは認める。誰かが水を使っているかもしれないという単純な可能性を失念していた。


 しかし、此花婆さん、黒冥魔央くろやみ まおがいるのなら、そう言ってくれればいいのに。後悔というよりむしろ怒りが湧いてきた。


 これは僕の逆恨みではない。正当な怒りのはずだ。コミュニケーションミスのせいで、世界は滅亡してのやり直しを余儀なくされたのだから。



 およそ二分。


 ドアがノックされた。どうやら着替えが終わったらしい。着替えが終わってから出るのにノックするというのは聞いたことがないけれど、ノックされたので「どうぞ」と言ってみる。


「ど、どうも……。こんにちは」


 魔央が出てきた。非常に申し訳なさそうな顔をしているところを見ると、どうやら自分が何をしたかは理解しているらしい。


「こんにちは……、聞いていると思うけど、僕が時方悠ときかた ゆうです」


「あ、黒冥魔央です」


 ぎこちない自己紹介。


「すみませんでした。いきなり入ってきたので、びっくりしてしまって……」


 心底申し訳なさそうな顔をしているところを見ると、どうやら自分の手で世界をぶっ潰してしまったことを理解しているらしい。


 確かに驚かせたのは僕の落ち度だけど、その代価が高すぎやしないだろうか。過剰防衛のギネス記録間違いなしだ。


 ただ、彼女は破壊神だ。


 人間が部屋の中で虫を一匹見つけて恐怖のあまりバルサンを焚いて、関係ない虫まで全部殺してしまうようなことだってある。


 破壊神たる彼女の前では、僕ら人間はそうした虫のような存在なのかもしれない。


「大丈夫だよ。何だか分からないけど、元に戻せたし」


 文句を言いたいけど、ここで彼女を怒らせても何も良いことはない。


 ここは紳士的に振る舞うべきなのだろう。




 しかし、この、世界を元に戻せた……というのが謎である。


 恐らく、彼女のパートナーとして僕が選ばれた理由はこの能力があるからなのだろう。


 しかし、どうして僕がこんな能力を持っているのかがさっぱり分からない。



 魔央はうつむいたままである。


 視線を合わせようとしないけれど、どうやら怖くて僕の顔を直接見ることができないようだ。


「あ、無理しなくていいよ。テレビでも見ていたら?」


 出会いからして色々問題なので、一緒にいるのも気まずい。とりあえず気分転換してもらおうかと思ったけれど。


「テレビ……テレビって何ですか?」


 魔央は首を傾げて尋ねてきた。


 まさか、テレビを知らないの?


 声に出しかけて、はたと気づく。


 破壊神がテレビを観ていて、どうなるのか。


 不愉快な番組を見れば「こんな世界なくなってしまえ」と思うだろう。悲しいニュースを聞いたら、「こんな悲しい世界はなくなってほしい」と思うかもしれない。アニメやドラマで「世界を滅ぼせ」なんてセリフに共感する可能性だってある。


 そんな恐ろしいものを見せられるはずがない。彼女の周囲は、魔央にテレビを見せずに育ててきたのだろう。



 どうやら、魔央と生活をするにはかなり価値観を変えなければならないらしい。

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