生まれ、そして / 隠岐那 作
名古屋市立大学文藝部
生まれ、そして
上向きに差し出した傷だらけの左手首に刃の先端を押し当てる。安物のカッターであったためか、あるいは、何度も繰り返すうちに皮膚が硬くなってしまったのか、僕の体は異物を受け入れることを拒んでいた。
一瞬のためらいの後、それを無視して右手の力を強めると、とうとう体は抵抗することをあきらめ、かすかな感触ののち、鮮やかな血とともに内部を曝け出した。そのまま、ゆっくりと刃を動かす。傷口は一の字を描くように広がり、血は手首を流れそのまま滴り落ちた。その瞬間、妙な気持ちに心を満たされていくのを感じた。幸福感であるとか高揚感であるとか、ぼんやりとした思考でそれが何であるのか正体をつかむことは難しかった。しかし、確かな感触で心を埋めていく。この瞬間のために、このようなことをしているのだろうと思った。
床に落ちた血が丸を描くように広がり始めたことに気づいた時、同時に体が冷えていくのを感じた。それに切った場所がヒリヒリと痛んだ。直前までのあの気持ちは、まるで始めから存在しなかったかのように消え失せていた。手に握られたカッターは赤色に包まれ、無気力になった僕をいつまでも睨んでいた。
2
残念ながら、僕の幼少期の思い出の大半は、不幸なものであった。
生まれたばかりの状態で施設の前に放置されていたのを、偶然施設の職員が発見し、病院を経た後に施設に引き取られることになった。身元がわかるものは一切残されておらず、唯一親の気配が感じられるものは、僕の横に添えられていた『育てられなくてごめんなさい。この子をお願いします』と書かれた紙切れ一枚だけだった。両親は何を思い僕を生み、なぜ僕を捨てたのか、手掛かりがなかったため、それは今となってもわからなかった。
その施設にはほかに十人ほどの子供がいたが、僕は彼らと関わろうとはしなかった。他人に興味が持てなかった僕はいつも一人でいた。親の性格が僕に引き継がれたのか、親に捨てられたという事実が心に何か問題を引き起こしたのか、原因は定かではなく、一つでもないと思うが、とにかく僕は人と積極的に関わることはできなかった。
やがて小学校に入学したが、そこでもやはり一人でいることが多かった。
僕はこのまま、誰にも干渉されることなく日々の生活をやり過ごすことができればそれでいいと思っていた。しかし、現実はそう思い通りにいかなかった。
ある時、僕に親がいないことを周囲に知られ、それを同級生の男にからかわれたことがあった。
なぜだか僕は、無性に腹が立った。当時の僕は怒りを感じることは少なかったが、その時は自分の中に怒りが沸き立つのをはっきりと感じた。そして、彼を叩いた。彼は茫然とした表情であっけに取られていたが、やがて大声で泣き始めた。
現れた教員に事情を聞かれたが、主張の弱かった僕は事情を説明することなく、僕が突然、男を叩いたと伝えられた。
その日から周りの僕を見る目は異質なものを見る目に変わった。
同時に僕に対して、暴力が行われるようになった。僕が叩いた男はクラスの中心的存在で僕とは正反対に位置する人間で、男と取り巻きたちは僕を標的にした。
暴力は、教室の隅やトイレのような人目につかない場所で行われた。
複数人で僕を取り囲み逃げ場をなくしてから、殴ったり蹴ったりした。僕が痛みで声を上げると、彼らは笑って暴力を激しくした。彼らは、僕には親がいないからこうなったのは当然のことなのだと言った。僕はその主張に正当性がないと思ったが、反抗のできなかった僕は自分に降りかかる暴力にただ耐えるしかなかった。
暴力が日常的に行われるようになったころ、一度、教師が暴力の現場を目撃したことがあった。僕は彼女が教師として何か行動を起こすのではないか、せめて暴力を見た以上注意はするのではないかと期待した。だが、彼女は一目見ただけで特に何もすることはなかった。僕が教師という存在を軽蔑するようになったのはその時からだった。
教師が介入してこないとわかると、彼らの行為はエスカレートしていった。それは筆舌に尽くしがたいものであった。学校に行かないことも思い及んだが、それをすることは彼らに負けることだと考え、学校には行き続けた。
過酷な日々の中で、僕はあの時なぜ男を叩いたのか考えた。親に会ったことがなく、何の思い入れもなかったはずなのに、なぜ親がいないことをからかわれ腹が立ったのか。
僕がたどり着いたのは、嫉妬という単純明快な結論だった。テレビや物語で見る家庭、同級生が話す家庭。それらに対して自分が嫉妬していたのだと気づいた。子供らしく親の愛情を欲していたのだった。だが、どれだけ望んでも手に入らない。僕はその不条理に手を上げたのだと考えた。しかし、自分の中で疑問が解消したとしても現実が変わるわけではない。僕は鬱々とした日々を送った。
3
全身に流れる汗の不快感で目を覚ました。すぐにでもシャワーで汗を洗い流したかったが、
気分転換のために外に出ると、日光の
アパートを出て目的もなくさまよい、やがて近くの公園にたどり着いた。その公園は小さく中には母親らしき女と子供が砂場で遊んでいるのが見えた。親子だろうと思った。僕はその様子に心が和むのを感じ、ベンチに腰を掛けた。女は一度僕のほうを見たが、子供は気づくことなくひたすら砂で何かを形作っていた。
僕は不意に、自分の親のことについて考えていた。
仮に僕が親に捨てられていなかったら、あの子供のように無邪気に笑ったり、時には親に反抗したりするような人並みの人生を送れていたのではないか。親が僕の人生に何らかの期待を寄せ、それに応えられれば、自分に誇りが持て、将来的には自分が親として子供を導くような存在になれたのではないか。そのように考えたが、所詮はすべて妄想であり、考えるだけ無駄であった。親に捨てられた時点で、僕と親を繋ぐ運命の糸のようなものが断ち切れ、僕と彼らの人生が二度と交わることはないだろうという考えが頭の中を占めていた。かつては親を切望し憎んだが、今となっては憎悪の対象でなくなっていた。彼らにも並々ならぬ事情があったのかもしれないし、今の僕はある程度自由に生きていける。そう考えれば気が休まるように思えた。あるいはそう思い込むことで事態の深刻さから目を逸らそうとしていたのかもしれない。ただ問題だったのは、運命の糸が断ち切れたことによって自分が何者であるのかわからなくなり、自分は人間から生まれたのではなく、突如としてこの世界に発生したかのような感覚に陥っていることだった。そのせいで他者との間に隔たりを感じ、自分だけが世界から隔絶されていると思うことがあった。僕はこの感覚が厄介だと思っていたが、どうにもできず、いずれ勝手に解消されることを期待していた。
突然横から声を掛けられ身構えた。目をやるとシンイチが隣に座るのが目に入った。いつの間にか親子はいなくなっていた。
「仕事はどうしたんだ」
「休んだ」
僕がそう言うと、彼はあきれるように笑った。彼の笑顔には、僕を少なからず安心させる効果があるようだった。
シンイチは二年前、十九歳の時に僕と同時期に施設を退所した。その後、僕は工場に、彼は夜勤の警備員の仕事に就いた。示し合わせたわけではないが、彼の生活する寮と僕のアパートは距離が近かった。そのため、施設を退所した後でも、こうして会うことがあった。
「最近どうだ」
彼は僕に会うと決まってそう質問した。質問自体に意味はなく、間を持たせるための問いかけだろうと思い、適当な返事をした。彼は、そうかと
僕は彼の表情が以前と比べ、明るくなっているような気がした。
「何かいいことでもあったのか」
「よく気づいたな。まあ正直に言うと、彼女ができたんだ」
そう言うと彼は、照れたように笑った。
「最近は毎日が楽しい。変な話だけど、自分が必要とされているんだ、生きてていいんだって実感できるんだ」
僕は、気の利いた言葉が思い浮かばず、相槌を打つことしかできないでいると、彼は表情を曇らせた。
「でも、時々不安に感じることがあるんだ。この幸せはいつまで続くのかって。この日々を壊してしまうのは、ほかの誰でもなく俺なんじゃないかってな。……たしか昔、話したことがあったよな。俺の過去を」
「ああ」
「こう悪い方向に考えるのは、そういうことがあったからなんだろうな。
煙草の煙が、重力に縛られ生きる僕らをあざ笑うかのように、上に高く昇っていった。
その後も少しの間、他愛もない話をし、シンイチと別れた。
僕はふと気力が湧き上がるのを感じ、結局仕事に行くことにした。
叱責を受けるかもしれなかったが、それでも行かないよりはマシに思えた。
仕事の帰り道、にわか雨が降りだした。傘を持っていなかった僕は必然的に雨に濡れることになった。体が震え出し、急いで帰り暖を取ったが、震えはしばらく収まらなかった。
4
シンイチとは中学校に入ってから出会った。彼はもともとは別の区の小学校に通っていたが中学校に入るタイミングで施設に入所することになり施設の場所の都合で、中学校は同じところに通うことになった。
彼は、勉強はできなかったが活動的で正義感が強かった。
中学に入ってからも僕は暴力を受けていたが、シンイチはそれを見ると仲裁に入った。
それ以来、暴力を受けることは次第になくなっていった。
僕が彼に感謝を伝えると、彼は「困っている人を助けるのは当然のことだから」と言った。
僕は彼に親しみを感じ、よく話すようになった。
施設でも寝食を共にしていたため、僕らはすぐに打ち解けた。
友達と呼べる人がいなかった僕は、これが友達になるということなのだろうと痛切に感じていた。
「人生における親の影響力はどれくらいだと思う?」
あの時、学校の帰り道、シンイチは僕にそう聞いた。
僕には親がおらず、彼についても施設に時々面会に訪れる母親しか見たことがなかったため、何か訳があるのだろうとは思っていた。そもそも、施設には家庭に問題がある子供が集まるものだ。
「わからない」
僕がそう言うと、彼はその返答を予期していたかのようにうなずいた。
「実は、あの時、お前を助けたのは、人助けがしたかったとかそんな大層な理由じゃないんだ。俺の個人的な目的のためだったんだ。……ごめん」
訳がわからなかったが、これはお前を信頼しているから話すんだが、と前置きされて明かされたのは彼の辛い過去についてだった。
僕は、彼が幼いころから父親に虐待されていたこと、その父親が事故で死んだこと、母親の精神が不安定で施設に入らなければいけなかったことを聞いた。そして、僕を助けたのはそんな父親の面影を振り払うように努めて善人のように振る舞っていたことが理由だということを聞いた。
彼の話に思うところがあったが、うまく言葉にできず僕は何も言えなかった。
「だから、俺はただの偽善者なんだ」
あの時、彼はそう言ったが、実際に彼に助けられた僕にとって動機は関係なく、彼に対する見方は変わらなかった。
「それで、改めて聞きたいんだが、子供は親のようにしか生きられないと思うか?」
親がいないうえに、子供だった僕にその問いは難しく、やはり答えることはできなかった。
だが、彼はそこからが本題であるかのように
「どこかで聞いたんだけど、虐待されて育った子供は暴力的な人間になるらしい。虐待された時点で、俺には、もうそういう運命しか待っていないんじゃないかって不安になるんだ。あいつのようにはなりたくない。暴力を振るうくらいなら死んだほうがマシだって思ってる。だけど、自分の考えた通りに生きていけるとは限らないだろ。……はあ、嫌になるな」
気にしすぎだと僕は言ったが、その言葉がなんの解決にもなっていないことをわかっていた。
その日の夜、眠りに就く前、僕は自分の親はどんな人物なのかを想像した。周囲の大人たちの姿が浮かび、原形を留めないほどぐちゃぐちゃに混ざり合い、霧散した。彼の不安とは裏腹に、何事もなく月日は流れていった。
5
静寂に包まれた夜の自室で、わけもなく小説を読んでいた時、不意にチャイムが鳴った。静かな部屋にその音はやけに響いた。普段来客はめったにおらず、たまに来る業者には居留守を使っていた。今回もいつものように、無視しようとした時、聞き覚えのある声が聞こえた。シンイチだった。
ドアスコープ越しに外を見ると確かにシンイチであった。久しぶりに見る彼に奇妙な違和感を覚えた。
ひとまず家に上げようと鍵を開けると、不意に彼が勢いよく飛び込み、僕は部屋の中央に突き倒された。何が起きたのか理解する前に、彼の指が僕の首を締め上げようとしていた。
突き返そうと全身に力を込めたが、息ができず、十分な力が入らない。そうするうちにも彼は首を絞め続け、僕は感じたことのない苦しみを感じた。視界がぼんやりとし始め、周りの音が急激に遠ざかる。薄れゆく意識の中で目の前にいる彼が涙を流しているのが見えた。僕はその涙のわけも知ることなく死ぬのだと思った。
突如、目の前を白い光が覆い尽くした。さっきまでの苦痛は感じず、夢を見ているようだった。すると今までの記憶がまざまざと思い起こされた。
施設で僕はいつも一人でいた。
一人で泣いていた。
学校で僕は輪の中心にいた。
僕は殴られていた。
シンイチに出会い、僕らは笑っていた。
大人になった僕は自分を傷つけていた。
僕は生涯を振り返って惨めだと思った。自分の本当にやりたいことを何もできずに終わるなんて僕の人生はいったい何だったんだ。何が悪かったんだ。その時、確かな意志が芽生えたのを感じた。抗う。僕を捨てた親、暴力を振るう同級生、そんな末端のものではなく、もっと大きなあらゆるものの行動を決定づける世界に、すべての不条理に対して。僕はここで死ぬわけにはいかない。気が付くと、僕の手に何かが触れていた。それは床に置きっぱなしになっていたカッターナイフだった。血液で黒ずんでおり、切れ味はなさそうだったが、突き刺すにはちょうどいいだろうと思った。僕は力を振り絞り刃を出し、彼の腕に突き刺した。首を絞める手が離れた瞬間に、大きく呼吸をし、ありったけの力で彼を蹴り飛ばした。彼は棚の角に勢いよく頭をぶつけ、あおむけに倒れこんだ。動く気配はなかった。だが、僕もうまく動けず壁に寄り掛かった。僕は震える手で携帯を取り出し、一一九番にかけ救急車が必要とだけ伝え電話を切った。
何事もなかったかのように部屋は静寂に包まれていた。
「……なんで殺そうとしたんだ」
僕は呼吸を整えながら、彼にそう聞いた。
返事がなく、彼は気を失っているのだと思った。しかし、不意に彼が口を開いた。
「一緒に死のうと思ったんだ」
彼は魂を抜かれたような声でそう言った。
「……なんで死ぬんだよ」
「……彼女の話しただろ。……その彼女を信頼して俺の過去を打ち明けたんだ。……付き合っているのに話さないのはずるい気がしてな。……そしたらなんて言ったと思う?別れようって言ったんだ。カッとなって気が付いたら手が出ていた。彼女は泣いて去っていったよ」
「じゃあここじゃなくて彼女に謝りに行くべきじゃないのか」
相変わらず視界はぼやけていて、彼の表情は見えなかった。
「俺が一番嫌っていたあいつと同じことをしたんだ。俺はもう生きてちゃいけないんだよ」
「だからって道連れにしようとしたのか。何かの冗談か」
「悪いと思ってる。でも一人で死ぬ勇気もなかったんだ。結局は俺もろくでもない人間だったってことだ」
彼は苦しげな声をしていた。
幾分か鮮明になった視界で天井を見上げた。天井の木の模様が顔に見え、胸が騒いだ。僕は、昔の彼の質問を思い出し、自分の考えを言葉にした。
「……関係ないよ。どれだけ親がクズだったとしても関係ない。君は君だ。どう生きるかは自分で決められるんだ」
「……やめろよ」
「それに大げさかもしれないけど僕は君に救われたんだ」
気を抜くと失いそうになる意識を繋ぎ止め、言葉を紡ぐ。
「君に会うまでの僕はまるでもぬけの殻だった。楽しいこともなくただ毎日を過ごしていた。繰り返される暴力を受け入れてもいた。このまま死ぬんだろうなって思っていた。でもそんなある日、君が手を差し伸べてくれた。そこから世界が一変したんだ。君は自分のためだって言ったけど、それこそが君の本性なんじゃないか。ろくでもない人間なんかじゃない。人を救える人間なんだ」
「……そうなのかな。だったらいいな」
彼は弱々しくそう言った。
「ああ、だからお互いここで死ぬべきじゃない」
気が付くと安堵からか僕の目から涙が流れていた。返事はなく今度こそ彼は気を失っていた。
繋ぎ止めていた意識が遠のいていくのを感じる。外にはサイレンの音が鳴り響いていた。
5
長い冬が終わり、ようやく暖かくなり始めた四月。桜が舞い、植物が色とりどりの花を咲かせる道を僕は手に袋を持ち、歩いていた。袋の中にはおもちゃが入っていた。先日、子供が生まれたというシンイチにプレゼントをしに行くためであった。
あの日から、三年が経っていた。彼はあの出来事の後、殺人未遂で逮捕されたが、今までの境遇や情状などさまざまな事情が考慮され、起訴猶予となり刑を受けることはなかった。その後、当時の彼女とよりを戻し結婚をした。僕はそのことを誰よりも喜んだ。一度殺されかけはしたが、彼のおかげで自分の生きる目標が定まり、生きる意味を見出せたからだ。それに、親も友人もいない僕にとって、彼は大きな心の拠り所となっていた。今の僕の目標は、ソーシャルワーカーになることだ。そして、あの時、手を差し伸べてくれたシンイチのように苦しんでいる子供たちを助けたい。それこそが僕の生きる意味であり、本当にやりたいことなのだと考えている。そのために、仕事を続けながら、夜間大学に通い日々勉強している。
変化したこともあれば、変わらないこともある。僕の腕には相変わらず、傷が呪いのように刻み込まれていて、今後も一生消えることはないだろう。だが、もうそれ以上、傷が増えることはないという予感がしていた。シンイチが家の前で手を振るのが見え、僕も手を振り返す。過去は暗く辛いものでも、僕は今、前を向き、夢に向かって進んでいる。だからこそ、歩みを止めない限り、未来には無限の可能性があるんだ。
生まれ、そして / 隠岐那 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei
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