7Welt 「庭には二羽ニワトリが死んでいる。」

 大学一年生の春休みのことである。珍しく早起きをしたので、家の前の通りを歩くことにした。雲一つない快晴で、どこからか微かにラジオが聞こえる。前日の雨で濡れたアスファルトは黒々と光っている。カブトムシの羽のようだ。

 「コケーコ、コ、コ、コケーコ」

数メートル先に一匹の鶏が見えた。鶏は誰も居ない通りを闊歩する。とはいえ、私の方が歩みが速かったため、じきに追いついていった。

七福商店街が近くなるころには、鶏の直ぐ後ろにまで迫っていた。私は鶏がどこに行くのか、無意識に楽しんでいたのである。

鶏は左に曲がった。住宅街に入り、三軒目の家の前まで来る。さらに、路地裏に入っていく。まだ7時だというのに、日の光は殆ど入らない。不気味かつ色を失ってしまったような、そんな印象を受ける通路である。

鶏は短い階段を、ちょんちょんと上がる。そして、眼前の重厚な扉をくちばしでつつく。それに答えて、扉がゆっくりと開いた。

 あれから、一週間が過ぎた。きっと、解凍の途中だった鶏肉は、腐敗しただろう。

私は今、『中華料理屋おかめ』のレジカウンターの下に、隠れている。ささくれだった木片が、背中をチクチクと刺す。ごま油の匂いが、鼻先をかすめる。カウンターに乗っていた埃は殆ど頭上に落下し、私は咳き込むのを必死に、こらえている。ちょうど、木片が背中を刺すのと同じように、鶏がそこら中をちょこまかと歩いている。

中華屋の床は腐っていて、周囲を伺おうにも指一本動かせない。少しでも動けば、ギィシと床が軋む。

鶏は八咫市・鉛町を、覆い尽くすほどになっているだろう。直ぐ近くで鶏の鳴き声がしている。騒々しい。今朝まで閑散としていた街の面影は、もうどこにもない。

 今朝、開いた扉の正体は詳しくは分からない。しかし、そこから大量の鶏が吹き出してくるのは見えた。一昔前の公園に常設されていた、水飲み場の蛇口を力一杯ひねったときのようだった。鶏は次々と周囲の人々を襲い始め、辺りは阿鼻叫喚となった。

私は迫り来る鶏の群れに、消火栓を噴射し、どうにかここまで逃れることが出来た。鶏は私のことを、血走った目で見つめていた。通常、鶏の一センチ程だ。しかし、その鶏の目は四倍くらいに肥大化していた。鶏の小さな頭に、ピンポン球のような目が張り付いていたのだ。思い出しただけでも、吐き気がしてくる。

 ふと、足音がした。鶏のように軽い音ではなく、もっと重い足音だ。革靴で歩くような、固くて重いゴツゴツした音が、床の微弱な振動とともに鼓膜を震わす。

私以外にも人間がいたことに対する安堵した。しかし同時に何故、足音の主は鶏に襲われないのかという疑念が生まれる。もしかしたら、鶏を遠ざける何らかの策をとっているのかも知れない。少しずつ、少しずつ、足音が近づいてくる。床を踏み抜かなぬよう、気遣かっているかのようだ。

私の心臓は、はじける寸前であった。店内でだだをこねる子どものように、鼓動は激しく胸を打つ。冷や汗が頬を通じて、スウェットに小さなシミをいくつも作る。鼻息も荒い気がする。私は右手で拳を作り、それを左手で覆った。何かを強く握っていないと、今にも叫び出しそうだった。

光が視界に入った。小さな円が壁で光っている。窓から侵入した光が、何かを通じて壁に反射している。私は、昔おばあちゃんの畑でみた、鳥よけのCDのことを思い出していた。反射に驚いた鳥は、作物を荒らさずに飛んで行ってしまう。この足音の主もその事を知っていて、あえて体に反射するものを身につけているのだ。そうだ、そうに違いない。

私はレジカウンターから這い出し、足音の主の方をみた。そこには、鶏の頭があった。血走った大きな目をぎょろぎょろと動かしながら、私の方を見ていた。訳が分からなかった。中肉中背のスーツ姿に革靴を履いている。手首には腕時計が光っていて、鞄まで握られているのに、頭だけは鶏そのものなのだ。

 「コケー!!」

その奇妙なにわとり男が、私の首元に食らいついたところで、意識が途切れた。

 沼の中から這い上がるように、ベッドからゆっくりと体を起こす。白いカーテンの隙間から、ローテーブルの上にかけて日の光が差している。花瓶が光を受けて、光っている。デスクの上には、画面がついたままのパソコンが10時28分をさしていた。

私は、ベッドからゆるりと足を下ろした。ツンっとした冷たさが、足の裏から背中を上ってくる。私はその時に初めて、先ほどまでの出来事の全てが、夢だったことを知った。肩の力がスッと抜けて、深いため息が喉の奥から、空気中へと霧散した。

ベッドから腰を上げて、キッチンに続く扉に手をかける。手を離すと、ドアノブは大袈裟な音をたてて、元の位置に戻った。

牛乳を取り出そうと冷蔵庫を開けると、嫌な匂いが充満した。明らかな腐臭であった。思わず顔をしかめて二、三歩後ずさりする。しかし、腐臭の原因は取り除かないといけない。私は勇気を振り絞り、両手で冷蔵庫を探った。ヨーグルトとピルクルを退けると、案外簡単に悪臭の原因は見つかった。百五十グラムの鶏のもも肉が二パックがそこにはあった。もう賞味期限は、二ヶ月以上過ぎている。色は黒く変色し、どう見ても食べられる代物ではなかった。なぜ、今の今まで気づかなかったのだろう。

私は腐った鶏肉を二パック、庭に放り投げた。

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