5Welt 「獣者の武士」

「はぁ……はぁ……」

 女は森の中を逃げ惑っていた。木々が薙ぎ倒されていき、背後から何かが来ているのがわかる。

「逃さんぞ!!」

 牙がむき出しになり、猿のように森を駆け巡る獣者ケモノが女のわずか数メートル後ろをついて回る。

「あ……!」

 前日の雨によりぬかるんだ地面が、彼女の足を引っ張り、前のめりに倒れ込む。

 しめたとばかりに、獣者は女に飛びつこうとする。

 獣者とは人間の惨殺をこの上ない快楽としている異形の種だ。かつて、人間だった頃の面影はもうそこにはない。

「ぐっ……!」

 獣者が鋭い斬撃により後退する。

「誰だ!」

「生憎、獣者に名乗るのは遠慮している」

 その男の名は灰郎はいろうと言った。真白な白髪と、軽い足取りに合わせ揺らめく刀は、まるで火山灰が四方から覆い被さってくるような印象を受ける。

 獣者は己の爪を剥き出しにし、灰郎に斬りかかったが、その爪は切り刻まれた。

 獣者は素早く後退し灰郎と距離を取った。

「獣者、主は猿の獣者か?」

 灰郎は静かに尋ねる。

「そうだ。俺は猿の獣者、仗次だ」

「左様か……。何故、獣者に成り下がった?」

「は?いいぜぇ、獣者はよォ。飼主様の力を分けてもらって好き勝手人狩りが出来る……」

 大半の獣者は飼主により量産されている。そのため、飼主とは獣者にとって神そのものだ。

 猿の獣者は鼻をヒクヒクと動かすと、不気味な目つきで灰郎を睨みつけた。

「あんた、人じゃないね」

 灰郎は身構える。

「なーんだ、同族かよォ。こんなことしてねぇで、さっさとそこの女、狩っちまおうぜ?お前もそうしたいはずだ。そうだろう?」

 女は木陰でその身を小さくして震えている。先の転倒で足をくじいてしまい走ることは愚か、立ち上がることさえも困難なのだ。

 灰郎は己の手足に意識を集中させていく。

「エテ公と一緒にしないでもらいたい」

 灰郎は地面を蹴ると猿の獣者に向かって、疾風の如き足さばきで近づいた。

「速いなぁ……!」

 猿の獣者はニヤリと笑いながら、灰郎の一撃をかわす。

獣術じゅうじゅつ猿蟹さるかに

 猿の獣者が唱えると、辺の小石が浮き上がり灰郎を襲った。

「数が多い」

 灰郎は大量の石を刀で弾きながら木の陰へ隠れた。

「どうした?さっさと決着をつけよう。同族狩りは趣味じゃないしな……」

 猿の獣者は右と左の拳を力強く合わせ、術を唱える。

獣術じゅうじゅつ猿芝居さるしばい

「な……!」

 木の陰に潜んでいた灰郎がその場に倒れ込む。

「どうだ、朦朧とするだろう?お前は今、下手な役者のようにとんちんかんな動きしか出来ないはずだ」

 灰郎がよろけている間に、横腹に猿の獣者の足蹴りをくらい、木の幹に叩きつけられる。

「よし、終わりか。さて、女を狩るか」

 猿の獣者は震える女の元へと歩み寄る。鋭い爪を再び光らせ、狂人とも言える目つきでもって女を見つめる。

弥生やよいの構え・勁草けいそうしん

 灰郎が猿の獣者の脇から肩にかけてを削ぎ落とした。

「いってぇ……。さすが、半端といえど獣者だ、回復速度が早いというわけか。めんどくせぇ」

 猿の獣者は腕を瞬時に再生した。

 灰郎は構える。

獣術じゅうじゅつ炎猿えんえん

睦月むつきの構え・親縁しんえんの結び』

 灰郎は猿の炎を二つの斬撃により目に止まらぬ速さで切り抜き、その隙間を駆け抜け一気に間合いを詰める。

如月うづきの構え・二重ふたえ斬り』

「な……!!速い!」

 猿の頭部を斜めに切り裂いた。その威力と速さは凄まじく猿自身、まるで本物の刀と残像の刀で同じ場所に二度の斬撃をくらったように感じた。


「大丈夫ですか?」

 灰郎は女に手を貸してやると、首に腕を回した。

「ありがとうございます……」

 灰郎はゆるりと女の歩みに合わせて山を下り始めた。

「私の名は灰郎。あなたは?」

「私は茜です。は、灰郎様は制服を着てませんけど、獣絶部隊じゅうぜつぶたいの方なんですか?」

 獣絶部隊とは、獣者を駆逐するために編成された部隊のことである。毎年、試験を実施し、合格者の中でも優秀な者は大将となり若い芽を育てる。

「いいえ、拙者は違います」

「獣者が匂いが違うと言っていましたが、何か関係があるのでしょうか……?」

 灰郎は少し難しい顔をした。二人の間にしばしの沈黙が流れる。

「あ、すみません。変なことをお聞きしました。忘れてください」

 灰郎はゆっくりと話を始めた。

「拙者はつまるところ半獣者なんです。数十年前に飼主に弱みを漬け込まれ、獣者にされたのですが、拙者の特異体質が役立ったようで、今でも正気を保っていられます。まぁ、それが理由で獣者の抹殺を最重要視する獣絶隊じゅうぜつたいからは寧ろ鎮圧対象になっているのですが」

 灰郎は獣者にもなれず、人間にもなれない。狭間で一人、孤独な戦いをせざるを得なかった。

「人を襲いたくなることは?」

「ありますよ。けれど一度も実行してはいません。父が拙者を特別厳しく育てたので、自分を律する力が高いのです」

 茜は灰郎に尊敬の念を抱いた。獣者というものは阿片中毒者と同じように人殺しへの欲求を抑えられないというのに、それを理性の力で押さえつけることなど可能なのだろうか。

「灰郎様はお強いのですね……」

 茂みがガサガサと音をたて、何かが飛び出してくる。

「大将を、大将を呼んでください」

 獣絶隊の制服を着た若い隊員が瀕死の面持ちで灰郎と茜の前に這い出してきた。

「何事だ!獣者か?」

 灰郎は隊員に向かって尋ねた。

「はい……。二松です……」

 灰郎は固唾を飲んだ。

 獣者には階級を与えられている者がおり、松が一番強く、梅が比較的弱い。また、それぞれの階級に四人ずつ配置されている。つまり、二松とは松の中で二番目に力を持つ獣者ということになる。

「獣絶隊の者、茜を頼めるか」

「はい……」

 隊員は茜を抱えた。

「そのまま、山を降りてくれ。拙者は二松を切ってくる」

 隊員は大きく目を瞠った。

「そんな……!無茶だ!」

 灰郎は森の奥へ走り去って行った。

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