第27話 翼なき者を狙う獣


 かつて"死"というものがこれほど近くに来たことがあっただろうか。

 左の腕から血を流し、セシリア・ウィングは自問する。

 いいや、あるはずがない。温室で育ってきたこの身にこんなにも巨大な爪が喰い込んだのは初めてだ。

 深く抉られた脇腹に治癒魔法をかけ、フォルトナ・キャメロットが自答した。

 二人の目が明確な殺意と警戒心。そして隠しきれない恐怖心を宿して、同じ一点を見つめた。

 闇に染まった黒い鬣、渇き飢えた紅い隻眼、全長三メートルはある巨大な体躯。

 そして圧倒的な魔力量。

 恐らく万全な状態のセシリアが四人いてようやく互角といったところだろう。

 明らかに入学してひと月も経っていない一年生が遭遇して良い相手ではない。

 黒獅子の力量を鑑みれば、低くて十五層、高ければ三十層前後のモンスターだ。

 だが今は四層にいる。いったい何故か。

 それは首に着いた黄金色の首輪のせいだろう。


「セシリアさん、見えましたか?」

「はい。あれは『隷属の首輪』に間違いありません」

「違法魔導具ですわね。どこの誰だか知りませんが、厄介な事をしてくれましたわ」


 隷属の首輪はモンスターを従える魔導具だ。そして従えたモンスターの能力を底上げする効果もある。

 魔法の均衡を破壊しかねないその効果から魔導士協会はこの魔導具の使用を禁止し、市場に出回っている全てを回収、廃棄した。

 しかし一度広まったものを全て拾う事は不可能だ。

 闇市などで売買され、裏世界を巡り、今こうしてセシリア達の元へ回ってきた。

 裏に堕ちたものが再び表舞台に上がる。これが意味するところは即ち──"平穏をおびやかす脅威"である。


「グルル……」


 片目に火傷を負った黒獅子が一歩前に出る。

 それを見てセシリアとフォルトナは同じ分後退した。

 先程からずっとこうだ。

 二人が怪我をする度に黒獅子は攻撃の手を止め、二人が回復をするのを待っている。

 ゆっくり、小さく歩を進め、二人が下がるのを眺めている。

 モンスターの言葉など分からないが、奴の心は明け透けだ。

 黒獅子は遊んでいるのだ。傷つき、恐怖し、逃げ惑う二人をニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべて弄ぶ。

 それはまるで『死』とちう概念を理解した子供が路傍のアリを指でちまちまと押し潰すように。

 黒獅子の内心を見てとったフォルトナが舌打ちをした。


「獣の分際で私をムシャクシャさせますわね……」

「フォルトナさん……傷はもう平気なんですか?」

「お陰様で応急処置くらいは出来ましたわ」


 彼女の腹部にはまだ大きな穴が空いているが血は止まっている。

 普通人であれば致命傷だが、魔法使いにとってはこの程度かすり傷だ。


「しかしこのままではジリ貧なのも事実ですわ」

「あの鬣さえ何とか出来たら……」


 セシリアは唇を噛むと、黒獅子に向けて【疾突風】を放った。

 杖の先から放たれた風の塊。

 しかしそれは黒獅子には当たらなかった。

 黒い鬣が薄く緑色に光ったと思えば彼女の魔法は霧散した。


「風魔法を無効化する鬣ですわね。セシリアさんとは相性最悪ですわ」


 そう。二人が追い詰められた原因のひとつはこの鬣だ。

 風魔法を無効化するこの鬣のせいでセシリアの力が半減されてしまうのだ。

 ただでさえ圧倒的な力量差があるのに、こちらは主戦力のひとつが使用不可ときた。

 せめてセシリアの風魔法が通用すれば逃げる事が出来たかもしれないが、それは黒獅子が許さない。

 勝ち目が無いどころか逃げる手立ても思いつかないとなれば、絶望以外の何物でもない。

 それでも二人の心が未だ折れないのは両者ともにプライドが高いからだろう。


「敵が強いから諦める? ふざけるなですわ! 私の魔道は一本道。最初から最後まで逃げ道なんてどこにもないのですわ!!」

「『向かい風に立ち向かってこその神翼』。ウィング家の魔道に従って私もここは負けられません!!」


 恐怖に臆せず啖呵を切る二人の少女。

 それを受け、黒獅子は嗤った。

 その瞳にはもはや遊び心は映っていなかった。

 そこにあるのは勘違いして本気になった獲物を狩るという獣の本能──即ち原初の殺意だった。

 胸を貫かれ、頭を噛みちぎられる想像が二人の脳裏に浮かぶ。

 しかし二人は後退るどころか眉ひとつ動かすことは無かった。

 杖を構える。


「行きますわよ!」

「覚悟してください!!」


 フォルトナは叫ぶと同時に黒獅子目掛けて走り出した。


「『西方を司る白き虎 雷轟穿つ天道の弓──」


 詠唱をしつつ黒獅子との距離を詰める。

 しかし黒獅子もただでは彼女を近づけない。

 鋭い爪を持つ手を振り上げた。


「『大地を覆う竜の屍よ 我が意に応え姿を変えよ』──【テラレクトル】」

「グルァ!?」


 黒獅子の持ち上がった手の下の地面から土の柱が突き出した。

 柱が黒獅子の手を空中に拘束し、フォルトナに道を作り出す。

 目の前から障害物が無くなった彼女は無防備な獅子のお腹の下に滑り込む。

 魔力の篭った杖を上に向けた。


「──【雷の一矢レビンヴェロス】」


 灰色の杖の先から雷の矢が放たれる。

 雷鳴轟き、白光が洞窟を明るく照らす。

 そして雷矢は天井を穿った。

 フォルトナが視線を前に向ける。


「今のを避けるとは、なかなかやりますわね」

「グルルァ……」


 余裕だと言わんばかりにほくそ笑む黒獅子。

 次の瞬間、その身が消えた。


「──【三重障壁トレスセルト】」


 フォルトナは反射と同等の速度で死の気配が迫る方向に三枚の障壁を展開した。

 彼女の直感は当たり、その方向から黒獅子の拳が飛んでくる。

 しかしその威力は彼女の予測を大きく上回った。

 三枚の障壁が瞬く間に破壊され、フォルトナの体が横の岩壁に叩きつけられる。


「──がはッ!!」


 吐血。そして右手足の骨が折れる音を聞いた。

 地面に転がったフォルトナが痛みを抱いて蹲る。

 耳元で低い唸り声が鳴り響く。

 見ると、そこには巨大な黒い影が広がっていた。

 黒獅子が大口を開ける。


「──【水断アクアメーチ】」


 水刃が黒獅子目掛け射出された。

 それに気づいた黒獅子がフォルトナから離れて、その魔法を放った張本人──セシリアを睨む。

 彼女は倒れたまま動かないフォルトナの元へ駆け寄った。


「フォルトナさん! 大丈夫ですか!?」

「何とか生きてますわ……私とした事が、油断しましたわ…………」

「喋らないでください! 今すぐ治癒魔法をかけますから!!」


 セシリアがフォルトナの傷の上に杖を当てる。

 そして治癒魔法の詠唱を始めたところで、フォルトナにその腕を掴まれた。


「フォルトナさん……?」

「申し訳ないと思ってますわ……。私のせいでこんな事に……」


 途切れ途切れの声で言うフォルトナ。

 彼女は這う這うの体で立ち上がると、セシリアと黒獅子の間に立った。

 そしてセシリアの体を後ろに押す。


「逃げてくださいまし。……ここは私が命に代えてでも食い止めますわ…………」

「それなら私も一緒に──」

「──いいから黙って逃げなさい!! アナタも貴族なら分かるでしょう? 過ちを犯したものは相応の責任をとらねばならないということを。……お願いですわセシリアさん。私を貴族として胸を張れる形で死なせてくださいまし」

「フォルトナさん…………」


 セシリアとて彼女の気持ちはよく理解出来る。

 貴族──それも魔法家系の貴族にとって、自己の判断で味方を危ない目に合わせたというのは切腹ものの事案である。

 セシリアだって彼女の立場にあれば、同じ選択をした事だろう。

 しかし、自分事と他人事では話が別だ。

 それが自分のためとなればなおのことセシリアだけ逃げることは出来ない。


「────」


 だが、仮にセシリアが残って、それでどうなる?

 得意魔法を封じられた彼女が加わっても勝てないことは先程証明されたばかりじゃないか。

 セシリアが残ることで得られるものはフォルトナの死に泥を塗る事だけじゃないのか?


「…………」


 そう思った時、彼女はもう杖を握ることは出来なかった。

 黒獅子の重い一歩がジリジリとフォルトナに迫る。


「…………やめて」


 やめてやめてやめて。

 心では彼女を助けたいと叫びつつも行動に移せない自分が憎かった。


「リオーネさんなら……」


 不意に浮かんだ彼女の名前。

 そうだ。こんな時、リオーネならきっと迷わず助けるのだろう。

 あの時迷子の子供に手を差し伸べたように。

 セシリアが躊躇った一歩を彼女は易々と踏み越えていくのだろう。

 魔法の才能は無くても、彼女はセシリアなんかよりもずっとずっと強い人だ。

 そしてセシリアは誰よりも弱い人間だった。


「……助けて、リオーネさん」


 誰に届くことも無い小さな声。

 それは彼女の心の弱さが生み出した最後の願いだ。

 届くはずもない、叶うはずもない。そんな絶望の願い──



「──【ファイアボール】!!」



 刹那、どこからともなく飛来した火球。

 それは黒獅子目掛けて打ち出され、それに気づいた黒獅子がフォルトナから距離をとる。

 地面に着弾した火球が大量の粉塵と黒煙で周囲を覆い隠した。


「ちょっとやりすぎよ!」

「うっせぇ! 仕方ねぇだろ。ピンチだったんだから!!」

「だからってアナタねぇ……!!」


 どこか聞き馴染みのある会話が耳朶を叩く。

 セシリアは潤んだ瞳から何かがこぼれ落ちないように気をつけながら、風魔法で粉塵などを吹き飛ばした。

 開けた視界の中、白の長髪がふわりと振り返った。


「──助けに来たよ、セシリアさん」


 温かい響きを持った声音。

 それは冷めかけた希望を取り戻すのに十分な熱量を孕んでいた。

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