第13話 君がいるこの幸福を
「オティーリア!」
河港の突堤の上、貴族専用に整備されている船着場に立つリアは、イーアの声に弾かれたように振り向く。川沿い特有の強風が、彼女の金の髪を荒々しく踊らせているが、お構いなしだ。隣のアルも軽く笑って手を上げた。
「殿下、お会いできて嬉しいです!」
リアはひまわりのような笑顔で言う。今回、お忍び旅行の彼女は、来たとき同様こっそりと皇都に帰ることになった。
だが、側に控えているのは侍女だけではなく、バルド公国兵の姿もある。イーアはその兵士の姿を見て、ほうっとため息をついた。
「あれからまともに話もできなかったが、ちゃんと謝りたいと思っていたんだ。危険な目に遭わせてしまって、本当に済まなかった」
「まぁ、そんな事はお気になさらずに……。というか、わたくしも短慮で殿下にご迷惑ををおかけしました」
「いや。これからも君には苦労をかけるが、どうか着いてきて欲しい。頼りにしている」
イーアの率直な言葉に、緑柱石の瞳を細めてリアは笑う。
「ええ、エルネスト様。わたくしは幼いあの日より、ずっと殿下をお支えすると心に決めております。どうか頼ってくださいませ!」
「オティーリア嬢、そろそろ時間だ」
微笑むリアとイーアの間に、アルが割り込み、ぐいっとリアに顔を近づけた。
不機嫌そうな婚約者の顔を見上げるリアの頬に、さっと朱が走った。そしてそっと目を逸らし『アルトゥール様、近いです……』と弱々しい声で言うものだから、イーアも呆れたようにアルを見上げる。
「流石にこれは嫉妬ではないよね?
アルはイーアの頭を小突きながら、煩いわ、と言った。
「イーア、いい事を教えてやる。チルが使っていた柘榴石、覚えてるか?」
イーアは眉を寄せた。
この国の者たちは気がついていないが、あれは今、特別な理由がない限り使用を禁止されている魔導具だ。許される使用は、罪を犯したものにだけ、通常の人間では精神支配に耐えられないという。数年単位で使い続けると、廃人になってしまうとさえ言われている。
元々は人外の者への使用を想定していた。それだけ、威力が強く危険な代物なのだ。
「そんな難しい顔すんな。もうルッソが回収してるし、ヤツだってホントは使いたくなかったんだ」
アルはバツが悪そうに前髪をかき上げる。隣でリアが不安そうに二人を見守っていた。
「で、それが?」
「そうそう、あの魔導具を解除する時、使用者の真名を使わなきゃならないそうだ。人間なら、本名らしい」
「……本名?」
思わず鸚鵡返ししたイーアに、アルは愉快そうに笑った。
「そう、ルッソのやつ、チルの本名知ってるんだぜ。イーア、お前拷問して骨の一本くらい折ってもいい、あいつから聞き出しな」
俺も知らないがなと笑うアルを、イーアは睨みつけた。
「アル、君は友人を僕に売ったね」
「いーんだよ。たまにはあいつには痛い思いして貰わんと。と言うことで、頼んだぜイーア!」
物騒な発言である。
呆れ果てているイーアに、アルはひらひら手を振る。
(……できるわけないだろう)
ルッソの背後に立つ、あの涼しげな将軍の顔を思い出しながら、チルは心の中で肩を落とす。
「そういえば、殿下!」
アルに手を引かれながら、船に乗る不安定な橋を歩くリアが振り向いた。強い風に一瞬よろめき、慌ててアルが腰を抱く。リアはそのことすら気がついていないようで、こちらを見て笑顔で言った。
「帰ったら収穫祭がありますが……、わたくし、今年は殿下のパートナーは出来ませんので、ちゃんとお選びくださいね!」
強風に負けないよういつもより声が大きいが、満面の笑顔でそう言うリアの隣で、嬉しそうに困ったようにアルが笑っている。
「わかったよ。ご馳走様」
苦笑いしながら見送る。アルは船から降りてくるはずだが、イーアはそれを待たずに踵を返した。
公城でするべき用事と、図書館で調べられることは全部調べた。イーアはこの二日間、緋虎について調べているが、公都の図書館にも、公城の資料室にもびっくりするくらい情報はなかった。皇都に帰ってからもう一度調べなおすしかない。
母に関わりがあるというあの男も、あの夜会の後いくら調べても足跡を見つけることができない。まるで誰かが隠したように。その背後に大公国のものが存在しているのは間違いないだろう。つまりは、イーアに知られたくない何かがあるのだ。
多少の焦りを覚えて、イーアはため息を吐く。
(よし、卵を買って帰ろう)
進まないことにイライラしても仕方ない。ここはしっかり気持ちを切り替えて、残った夏休みを満喫するのがいいだろう。
イーアはそう決めて、真っ直ぐに歩き出した。
「チル、起きて。ご飯にしよう」
テーブルに突っ伏して寝ていたその肩をゆすると、バネ性の人形みたいにチルは顔を上げた。その頬にしっかり板目の跡が付いているので、思わずイーアは吹き出す。
「ぐわ、お前いつ帰ってきたんだよ!」
「だいぶ前だよ? ちなみにさっきピアは帰ったけど、君を運べないって嘆いてたよ」
チルの肩には毛布やらコートやらが数枚掛けられている。どうやらピアがかけてくれたらしい。
「さ、ご飯にしよう。朝からろくに食べていないだろう」
まだ呆然としている彼女の前に、たまご粥とミルクセーキを置く。途端に目を輝かせていただきます!と食らいついた。よほどお腹が空いていたのか、あっという間に食べ終えてしまった。
ゆっくり食べなきゃとか、こんなところで寝ちゃダメだとか、お説教はいくらでもあるのだが。今、イーアは彼女の向かい側に座って、黙ってその様子を見ている。
顔をあげたチルは罰の悪そうな顔をして、
「なんだよその顔」
と文句を一つ言った。
いつものように元気なチルが、文句を言ったり、目を輝かせてご飯を食べたりしているのが、イーアは嬉しくてたまらない。
実は昨日の夜も一昨日の夜も、こっそり眠っているチルの顔を見に行ったのだが、やはり話もできなくて寂しかった。
今はここ数日の疲労もすっ飛んでしまうくらい、幸せな気持ちだ。
「チル、鏡を見つけてくれてありがとう」
イーアが言うと、チルはきゅうっと難しい顔をした。
「あれは母上の鏡で間違いないと思う。……これで、僕らの母上の身元探しが、捗ると思う」
イーアはそう言いながらも、口の中に苦いものが広がるような感覚を覚える。
だが、今は母親の事を考えるのはよそう。そう思いチルを見ると、チルは匙を置いて真っ直ぐにイーアを見ていた。その唇が、震えるように言葉を紡ぐ。
「お前に、話したいことがあるし、聞きたい事がたくさんあるんだけど……」
だいぶ思い切って言ったようだったが、最後の方はだんだん尻すぼみになってしまった。
イーアは首を傾げる。
「うん、なんだろう」
チルは俯いて、一生懸命言葉を選んでいるようだ。
「だけどまだ、勇気ないから……だからこれだけは、知っていて欲しいんだ」
もう一度顔をあげたチルは、はっきりと言った。
「イーアがどんな身分で、どんな立場のやつでも、俺は友達でいたい。えっと、イーアは……お前は、俺が友達でもいいか?」
そんな泣きそうな顔で言わないで欲しい。そんなわかりきっている事を聞くなんて。
イーアは口元が綻ぶのを隠せない。
「チル、僕もだよ? 僕もずっとチルと友達でいたい。だけど」
一瞬嬉しそうに輝いたチルの顔が、さっと曇る。伺うような顔でイーアを見た。
イーアはちょっとだけ意地悪な気持ちが湧いてきた。
だが、今日はやめておこう。また熱を出されては困る。
イーアは、チルと友達では満足できない自分の気持ちを自覚している。だがそれをどう彼女に伝えるべきか、まだわからないままだ。
「チルは女の子だから、悪友は無理だね。ルッソとアルみたいな」
「あ! それなら安心しろ!」
チルが寝巻きのポケットを弄る。そして真っ黒な黒曜石のピアスを取り出した。一見するとそれは、今イーアが付けているものと全く同じだ。
師匠の黒翼の魔女は、石に力を込めるのを好み、特に黒曜石はお気に入りだ。公爵位を継いだ日に父から贈られたこのピアスも、師匠の作で魔除けの効果を持つ。魔物がイーアのいた時ではなく、チル一人の時に現れたのもこの影響だと思われた。
今チルの手の中にあるものは、黒曜石をカットしたごくシンプルなもので、明らかに師匠の作品だ。
イーアは嫌な予感を覚えた。
「これ、リンの友達の鴉さんから貰ったんだけど、なんとこれをつけると、まるっきり男の格好になるんだぜ!
幻術だけど、見る人間の脳まで影響するから、触ったりしてもバレないんだって! すげぇよな!」
すごく興奮気味に、目を輝かせて言うその姿を、イーアは信じられないものを見るのような目で見返す。
(あの夫婦、なんてものを預けたんだ!)
しかも魔女の通名が黒翼の魔女だというのに、その鴉を見てチルは何も思わなかったのだろうか。もしや師匠が認識障害でもかけたのかと一瞬思うが、イーアはテーブルの上で拳を強く握る。
(いや、チルは聡いのにどっか抜けてるから)
だが、この怒りをどこに向ければいい。イーアだって、女の子の姿のチルと並んで歩きたい。
「これがあれば、お前が皇都でお忍びで放蕩する時、ついていけるぜー!」
チルにとってイーアは、どれほど暇人なのだろうか。頭を抱えたい衝動を堪えながら、引き攣った笑いをイーアは浮かべた。
ちょうどいいタイミングで、キッチン後ろの勝手口が少し開く。リンが音も立てずに入ってきたのだが、即座にイーアに睨まれてすくみ上がった。狭いドアの隙間から漆黒の鴉まで覗いているのが、許しがたい。
「じゃあチル、そんな悪友であり親友の君に頼みたい事があるのだけど」
ぱあっとチルの顔が嬉しげに輝く。親友はまだしも、悪友にどこにそんなに魅力があるのかはイーアには分からないが。
「おう! なんでも聞いてやるよ! 俺はお前の親友だからな!」
よし、言質は取った。
イーアはにっこりと微笑みながら、ようやくその目が笑っていないことに気がついて怯えるチルを見つめた。
こんな可愛いチルを、絶対に逃さないと心に決めながら。
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