第12話 変わりたくない、変わりたい

 結局、あの夜会の次の日、チルは熱を出して寝込んでしまった。

 午前中は熱にうなされ朦朧と過ごし、午後には熱は引いたものの、ぐるぐる回る天井を見上げて鬱々と過ごした。

 気がつけば隣にリンがいて、さらにリンのお友達という喋る鴉もいたので、寂しくはなかったが。


 さらに次の日、まだまだ気怠いものの、なんとか体を起こし食堂に行くと、ピアと彼女の夫ウドが居たので、チルは思わず目を丸くする。


 何の変装もしていないピアは、襟足あたりで切り揃えた黒髪と、夜空のような深い青の瞳を持つ。通常は体の線が出ない服を好むので、今日もシックなベストとスカートという、まるで文官のような服装だった。


「ごめんなさいねぇ。本当に反省しているわぁ」

 チルを椅子に座らせると、ピアは深く深く頭を下げる。

「余計なおしゃべりに夢中で、肝心のことを忘れるなんて、だめな大人だわぁ」

 ピアはしゅんと項垂れて言う。その背後に立つ彼女の夫のウドが、にっこりと微笑んだ。


 アロイスなどはウドの事を『アイツ、うさんくさいよね。ボク苦手』と言うが、チルは何かと世話を焼いてくれるいい奴、という認識しかない。


「私からも謝罪をさせてください。ピアが君や『高貴な君』にも多大なご迷惑をおかけし、大変申し訳ありませんでした」

 ウドはぴったりと折り目でもついているのかと思うほど、綺麗に体を折って頭を下げる。


「いや、俺は大丈夫だったけど……『高貴な方』って」

 チルは苦く笑う。


 するとウドはにっこりと微笑んだ。

「家でピアが『高貴な方』がどれほど自分好みだったか滔々と語るので、多少の嫉妬を覚えたのです。どうかお気になさらず」


 ウドは長身だが、筋肉はほとんどない。ひょろっとした長身な上、肉もつかないので不健康感が漂う青年だ。出身は大陸北部らしいので、この辺りの人々より肌が白いのも、その要因の一つかもしれない。

 細く結えた薄い土埃色の髪も、色素の薄い灰色の瞳も、チルは嫌いではない。


「本当に困った人ねぇ」

 のんびりと頬に手を当てて言うピアは、重度の筋肉好きだ。むっちり鍛え上げた筋肉より、無駄なく美しく整っている筋肉が好みらしいので、確かにイーアはぴったりだったのだろう。

 そんな彼女がなぜ、ウドと結婚しているのか、チルはわからないままだ。少しだけウドに同情してしまう。


「うわぁ。それはねえんじゃね?」

「だってぇ」

 子供のように駄々をこねているが、ピアは今二十五歳だ。ウドはその二つほど上だったはず。


「ほら、毎日食べるご飯は質素なものでいいけどぉ、たまにはお肉とか食べたいじゃなぁい?」

「姐さん、それ最低」

 質素な飯と例えられた、ひょろひょろなウドはそれでも全く笑顔を崩していない。慣れたものである。

「ピアはこういう人なので、お気になさらず、大丈夫です」

 そう言うと、居住まいを正すようにまっすぐに立って言う。


「さて、今日ここに伺った件ですが……高貴な方とは何か、お話はされましたか?」

 ウドの問いかけに、チルは首を振って答えた。

 イーアはこの二日間、午前中は公城に行っているらしい。昨日の午後には帰ったが、その頃まだチルは起き上がれなかったので、少し顔を合わせた程度だ。


 ウドはひとつ頷くと、真っ直ぐにチルを見る。

「ではチル、我々と共に皇都に行く気はありませんか?」

「は?」

 あまりに突飛な話に、チルの顔が引き攣った。


「突然の話で驚かれるのも当然と思います。実は、私は急遽、高貴な方の補佐文官になることが決まりまして……ええ、全く急な話でして。今日から仕事を引き継ぎ始め、今年の秋には皇都に行き、来年の年明けには高貴な方の所領に出向することになりました。この歳で領政官です。いえ、もしかしたら領政長官かもしれません。大出世になります」

 チルは盛大に眉を顰め、それから頬杖をついたまま二人から視線を逸らした。ウドはその様子を少し目を細めて見ている。この反応も、予想していたのだろう。


「それに伴い、もちろんピアも同行しますが……出来るだけ信頼できるもので周囲を固めようと思います。だがそれでも人手が足りないのが現状でして、そこで君を勧誘できないものかと思い至ったのです。

 君は潜入に関してはトップクラスの才能があり、何より高貴な方の信頼を勝ち得ています。思い切って、お願いに伺ったと言うわけです」

 あまりにも澱みなく、つらつらと話すものだから、つい不貞腐れた顔をしたことも忘れて聞き入ってしまう。だが、顔はそっぽを向いたままだ。


 確かに胡散臭いかもしれない、とチルは思う。


「残念だけど俺もう役に立たないぜ」

 チルはため息混じりに言った。

「なぜそう思うのでしょうか?」

「潜入の天才って言われてたのだって、ガキの頃だ。しかも魔導具を使ってな。もう変装も出来ないし、魔導具も没収された」


「変装も出来ないとは? 君の姿は最近の夜会で数回目撃しました。貴族の令嬢にしか見えませんでしたが」

 ウドにまで見られていたなんて。


 チルは頬杖のまま、大きくため息をつく。大袈裟に手を振ってみせた。

「だから、どこの誰かわからない、誰の記憶にも残らないようなガキの姿で潜入して任務をこなす、が俺の存在価値だったんだ。ガキの変装はもう難しいし女の姿は目立つ。だからもう俺は利用価値がないんだよ」


「やぁだチル、そういう言い方はだめよぅ」

 ピアがぷうっと頬を膨らませる。

「確かにあの胸じゃ、男装はきつそぅむぐ」

 言いかけたピアの口を素早くウドが塞ぐ。

 さすが夫婦と言うべき早業だ。


「ならば、従者としてあの方をお支えしてみるのはどうでしょう?」

 ウドはにっこり笑う。

「女性でも男性でも、従者としてお仕えする事は可能です」


 チルは答えない。


「ゆっくり考えていただいて構いません。……私は城に戻りますが、チル、この勧誘はくれぐれも『高貴な方』には秘密に願います」


 思わず、そんな子供のような事を言うウドの顔を見上げてしまい、チルは直ぐに後悔する。

 ウドはまるでいたずらっ子のような顔で、薄い唇のすぐ前に人差し指を立てている。

「彼の方をびっくりさせた方が、面白いでしょう?」


 やっぱりこいつは胡散臭いやつだ。とチルは確信した。



 ウドが帰った後、慣れた様子でピアがお茶をいれてくれた。食欲はあまりないので何も食べていなかったが、温かい湯気を感じると気持ちが落ち着く。

「チル、あのねぇ、聞きたいんだけどぉ」

 ピアはちょっとだけ言い辛そうに、カップの中を覗き込む。

「チルはやっぱりぃ、従者になるのも嫌なほど、あの坊やが嫌いなのぉ?」


 チルもコップの中、紅い色の中にぼんやり映る自分を見る。

「……まだこの話、続くのかよ」

「うん、ごめんねぇ」

 ピアは困ったように笑う。

「……俺はただの殺し屋家業の『チル』で、あいつはどっかのいいとこの坊ちゃん『イーア』だ」

 吐き捨てるように言うと、なんだかどこか、苦しい。いつも突然やってくる、息ができなくなる夜みたいに。


「そこから変わりたくないのねぇ?」

 チルは躊躇いながら、頷く。

「そっかぁ。そうよねぇ」

 ピアはそっとお茶を口に含む。

「実はねぇ、あなたを皇都に連れていきたいって言い出したのは、ウドなのよぅ」


 チルはふと顔を上げる。

 どちらかと言うと中性的なピアの顔が、困ったように眉を落としている。

「ウドは帝国の宮殿にも知り合いがいるんだけどぉ……。最初、わたしが見た坊やと、例の高貴な方が、別人じゃないかって思ったらしいのぉ」


 チルは首を傾げた。

 ピアは言いにくそうに続ける。


「つまりぃ……例の高貴な方はね、いつも怒ってる顔した、こわーい人だって噂されてるらしいのよぉ。お店で会った坊やは、あなたを見てニコニコしていたでしょう?」


 チルは思わず目を丸くした。

 自分の知っているイーアと、その噂の人物は結びつかない。


「だから、チルがいたら、もっと彼の方が楽になるのではないかぁって。だからチルをお誘いしたのよぉ」


 チルはぱちぱちと瞬く。

 そこでどうして自分が勧誘されるのか、理由がわからなかった。


「もし、チルが今のままが良いなら、それなら尚更、しっかり話さなきゃ」

 ピアはゆったりと笑う。


「チルが今までどう生きてきたのか、これからどうしたいのか、そして坊やとどういう関係でいたいのか。

 そしてしっかりお話を聞かなきゃ。坊やがどういう立場の人で、これからどうなるのか。そして、チルとどういう関係でいたいのかも」

 

「それは……」

「関係なんて、どんどん変わるものよぉ。私とウドだって、最初は顔を合わせれば喧嘩ばかりしてたのに、いつのまにか毎日話す関係になって、親友になって、夫婦になったわぁ。

 でもぜんぶ繋がってるのよぉ。だから私たちの関係は何も変わっていない。ライバルであり親友であり、そして夫婦」


 ピアは一呼吸置いてから、はっきりと話す。

「私はこの前ちょっと会っただけだから、言い切ることはできないけどぉ。 

 たぶんあなたと坊やの望む関係は、おんなじだと思うの。だから、チルはそんなに怖がらなくていいんじゃないかしらぁ」


 開け放した裏口から、夏らしいぬるいそよ風が吹き込む。ふと、先日この店に着いたイーアが見せた、あの笑顔を思い出す。


「……うん。ありがと、姐さん」

 ちょっと湿っぽいチルの声に、ピアはどう致しましてぇ!と笑顔で答えた。

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