第11話 黒翼の魔女は愛でたい
イーアは剣を鞘に戻す。
魔を払うと呼ばれる神剣は、硬い魔物相手に造作もなかった。この剣は黄金の女神が携えていたという、千年経っても刃こぼれひとつしない、それこそ化け物のような剣だ。
魔物は古来から人間の敵だった。
だが、400年ほど前からほとんど姿を見せなくなり、今では『北の閉ざされた地』から、時折竜が姿を表す程度。竜以外の魔物など、ましてや人語を話す魔物など伝承の中にもない。
だが、そういう連中が存在することを、イーアは知っていた。
なので、なんの躊躇もなく剣を抜けたが、魔物の存在など知らないはずのチルはどれほど恐ろしかっただろうと思う。血の気の失せた顔で、両目からぼろぼろ涙をこぼすその姿を見た時、一瞬怒りで頭が沸騰しそうになった。
その魔物が消え失せて、それでもチルは小さく震えている。何故か悲しそうな顔でイーアに謝罪した後、店のほうに歩き出した。ぐちゃぐちゃに潰れた魔物の遺骸を、たたらを踏みながら超えてゆく。
「チル!」
リンが慌ててその後を追った。
自分もそうするべきなのだろう。
だが何故か、イーアの足は動かない。
イーアが魔物の存在に気がついたのは、屋根裏に登った直後だった。
昔、師匠の気まぐれに付き合わされ、精霊の世界に迷い込んだことがある。その時から、異質な気配には直ぐに気がつくようになった。
いつ飛び出すべきか決めかねていた時、あの魔物は言った。『■■■の匂いがする』と。
あれは精霊語だ。人間には理解できない。
だがあの音の響きは、師匠を意味するはず。『黒翼の魔女』ことイーアの師匠は、いつからこの世界に存在しているか、本人すら覚えていないような人外だ。チルがその師匠の子孫なのは間違いないが、魔物たちの言う匂いとは。
「……記憶は肉体に、力は魂に宿る」
イーアはぼそりとそう呟いた。
「ちょっとチル、どうしたの?」
だがすぐ、リンの慌てたような声に我にかえる。
慌てて追いかけると、チルは廊下の真ん中で座り込んでいた。
「何しているんだ。ともかく、休まないと」
「だめ、店の、カウンターに」
幼い子供のように、いやいやと首を振りながらチルが言う。
(店に何か……?)
イーアは、心配そうにチルに張り付くリンに軽く頷いて、店に行く。不気味なほど静まり返った店の中、カウンターの下のごたごたと物が詰め込まれているスペースの一角に、淡く光るぼろ布を見つけた。
屈んで覗き込む。何か布に包まれている物が淡く発光しているらしい。
光は徐々に弱くなっていく。
それを手とり、そして立ちあがろうとした時、つま先に何か硬質なものが当たった。あまりにも雑多に物があるので、おそらくカウンター内の棚の何処かから落ちたのだろう。呆れながら拾い上げる。
煙管だった。
(これは、確かピアが持っていた……)
何か、嫌な感じがする。
立ち上がり、カウンターの上を見回す。ピアが置いていた書類がカウンターの上に置きっぱなしだった。調査依頼らしいその文章を、暗闇の中、目を凝らしながら、イーアは読み上げる。
「煙から、山羊の化け物の幻が現れる煙管……」
書類を床に叩きつけたい衝動を堪えながら、イーアはかなり年代物の煙管を握る手に力がこもる。手の中でぱきっと音がしたが、きっと気のせいだろう。
振り向くとチルが立っていた。血の気のない真っ青な顔に、結えた紐が解けたのか、ばさばさな金の髪。痩身なので元から頼りない姿だったが、今はさらに、折れて消えてしまいそうな様子だ。
足下でリンが心配そうな顔でその様子を見上げている。
「イーアごめん、俺、黙ってた」
チルの唇が震える。
「それ、お前の母ちゃんの鏡だ。見つかったのに、黙ってた」
チルの膝が折れる。そのまま、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……黙ってたって、お前がここに来れるのは今年が最後なのに……。ごめん、本当に、ごめん……」
最後の方は、啜り泣く声にかき消され、ほとんど聞こえていない。
「チル」
身をかがめて顔を覗き込む。チルは焦点の合わない目でぼろぼろ涙をこぼしていたが、ぎゅっと目を瞑ってイーアから顔を逸らした。
「チル、僕は怒ってないよ? だから、泣かなくてもいい」
チルはそれでもこちらを見ない。
イーアはぐっと手を伸ばして、チルの頬に手を当てこちらを向かせた。
「僕は鏡のことがなくても、ここには来たよ。だから、泣かなくていい。大丈夫だから」
とたん、またチルの目から大粒の涙がこぼれ落ちたので、イーアは慌ててそのチルを抱き締める。妹にするようにその背中を叩いてあげると、すぐに体から力が抜けた。
「……おやすみ」
そっとその額にキスをした。
■■■■■
「やぁ。私の愛おしい妻ジークリンデ」
チルをベッドに運んだ後、イーアとリンが食堂に戻ると、そこにはまたしてもここにいるはずのない人がいた。
無駄に長い漆黒の髪は括りもせず、今日もだらだらと床まで広がっている。瞳の色が漆黒なので、今はまだ人に化けているわけではないのだろう。
抜けるような白い肌に似合わない、彫りの深い精悍な顔。纏っている服は古風を通り越して、古典の教科書にでも登場しそうなローブだが、それが妙に似合う。そんなどこかの古代神殿の石像のような男が一人、粗末な木の椅子に座って二人を迎える。イーアの師匠こと、黒翼の魔女だ。
イーアの姿は視界に入っていないらしく、足元のリンに蕩けるような甘い笑顔を向けている。無視されるのはいつもの事なので、イーアは全く気にしない。
「げ。なんでレヴィがいるの!?」
顔の良い伴侶に微笑みかけられていると言うのに、リンは本気で嫌そうな顔をしてテーブルに乗る。レヴィと呼ばれた魔女の方は、一向に気にしていない様子で、見ているこちらが胸焼けしそうな甘ったるい雰囲気を醸し出している。背後でお花が飛んでいるが、気のせいだろうか。
「師匠、こんばんは。いらしていたのですね」
彼は本物の人外なので、神出鬼没なのはいつものことだ。イーアの挨拶に彼は頷いて返す。
「愛おしいジークリンデが私の力を使ったので、何かあったのではと駆けつけたが。そこに穢らわしい物が転がっていたので消しておいたよ」
確かに床に転がっていた魔物の遺骸は無くなっている。しかも、床に染み込んだであろう血の跡まで綺麗に消えているのが不思議で仕方ないが、そこは考えるだけ無駄だ。
ちなみに、男なのに何故魔女なのかも疑問に持ってはいけない。昔、思い切ってイーアが尋ねると、『そうだからそうなのだ』という言葉が返ってきただけだった。
「ありがとうございます。手に余ったので、助かりました」
魔女は敬われるのが当然のように頷く。
そんな彼の前に、リンは件の煙管を置く。
「っていうか、これって全部レヴィのお仕事が手抜きだったからじゃないの?」
魔女は眉を寄せてそれを見た。
「これから、レヴィの魔力の匂いがするの! さっきの魔物を封じたのはレヴィでしょ!」
リンはぷりぷりと怒りながら、尻尾でテーブルをぱたぱたと叩く。相変わらず感情豊かな猫である。
(あ、チルと同じだな)
おばあちゃん猫と遠い孫娘の妙な共通点に気がついて、イーアは笑う。
その間もリンの抗議は続いていた。
「そのせいで、わたしの可愛いチルが食べられちゃうところだったんだよ!」
「これは400年ほど前のものだよ。経年劣化だ。仕方ない」
魔女はあっさりとそう言いながら、ここにヒビも入ってるしなどと嘯く。たぶんそれは自分がさっき拵えたものだと言うわけにもいかず、イーアは苦笑した。
「だったらなおさらちゃんと管理しなきゃー! もしかしてこういうの、いっぱいあるの?」
リンの追求に彼は首を傾げる。ただでも彫りの深い顔が、考え込むとさらに威圧感が増すが、リンはお構いなしだ。普通の人なら怯えて黙り込んでしまうだろう。
「あるな。大陸中の魔物を封印したからな」
「うにゃーー!! じゃあもうちょっとちゃんとしなきゃーーー!!」
ヒステリックに叫ぶリンの背中を愛おしそうに撫でながら魔女はイーアを見る。
「で、何が喰った?」
どうやら状況把握は済んでいるようだ。イーアは頷き、彼の前に鏡を差し出す。だいぶ使い込んでいるその鏡を見た時、漆黒の瞳が興味深そうに細まった。
「ほお、緋虎か」
長い指でその鏡を取り、そして裏面を見る。
「これが媒体になったのは間違いないな。……これは?」
「私の母が持っていた鏡らしいです。僕は記憶にないから、父に確認しなければ真偽はわからないですが」
魔女は頷く。
「間違いないだろう。これは
「私たちのうち誰かが、その『属する物』だと言うことですか?」
イーアの疑問には魔女は首を振って否定した。
「いや、ここにはそこまで緋虎の力を持つものはいない」
イーアは首を傾げる。では何故、あの赤い虎は自分達を助けたのだろう。なんだかしっくりこない、収まりの悪い気持ち悪さが残る。
「まぁ、とりあえず皆無事でよかったけどー! レヴィはこれからしばらく、他の物も封印が解けかかってないか確認作業してよね!」
この世界で最も強力で、恐れられている存在に、小さな黒猫はぴしりと命令する。魔女の方も愛おしそうに、困った顔で小さな黒猫の額を撫でている。
そういう甘い空気になると大抵自分は取り残されるので、イーアは空気に徹することにした。
だけど、この仲睦まじい夫婦の様子を見るのは、実は結構好きだ。
■■■■■
この大陸で最も豪華で、そして厳重な警備が施された宮殿の奥深く。
一般に後宮として知られているそこで、一人の若い娘がぼんやりと窓枠に切り取られた夜空を見てあげている。その金色の目は生気がなく、まるで魂が抜き取られた人形のよう。
その娘の美しく流れる、燃えるような緋色の髪を小さなてのひらがそっと掴む。最初は軽く、ついで強く髪を引っ張った。だが娘はなんの反応もしない。
「ケティ……」
その手の持ち主は銀の髪の幼女、朱色の瞳は不安に揺れながら、先ほどから微動だにしない娘を見上げている。小さな体を伸ばし、その体に縋りついた。
「ケティ」
もう一度、体を揺さぶりながら名を呼ぶ。そこでハッとしたように、娘の目に光が宿った。
「ごめんなさい、ぼうっとしてたみたい」
そして自分に縋り付く幼女を見て、驚いて目を丸くする。幼女はぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ごめんなさい。無視したわけではないのよ?」
そう言いながら、女はしっかりとその小さな体を抱き締める。幼女は全身に力を込めて、彼女に抱きついた。
「赤ちゃんがいると、どうしてもぼーっとしてしまって……ごめんなさいね。もう大丈夫よ」
それでも幼女は泣き止まない。不安そうに、彼女の膨らんだ下腹部を見る。そして、小さな眉間にきゅうっと皺を寄せた。
(こわい。こわい)
この不安を、どうやって彼女に伝えればいいのか、この子供はまだ知らない。
ただ、自分の世話役であり母親代わりの、彼女のお腹の中で育っているものに、漠然とした恐れを抱いていた。
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