第10話 真夜中の失言と襲撃

 ごとり、と硬い音と共にテーブルに並ぶのは、イーアが拝借してきたという見るからに高級な葡萄酒。そして棚から取り出した果実水と二つの木製のコップ。

 そして仄暗い灯りのオイルランプと、流石に空きっ腹で呑むのはまずいと、木の実が数種類。

 チルは不貞腐れた顔で頬杖を付きながら、使用人のように細々と気を配るイーアを見ていた。


「おまえ、後でめっきり叱られるんじゃねーの?」

「だろうね。もう本当に勘弁してほしい」


 本音なのだろう。干された葉物みたいに萎れている。

「まぁ今回は、情報の正誤も確認せずに行動した僕が悪い」

 はっきりと言い切ると、イーアは椅子に座った。チルには葡萄酒を、自分には果実水をコップに注ぐ。

「だからやめろって言ったじゃん」

「うん。チルのいうことを聞かなかった僕が悪い。反省する」


 こうもはっきり非を認められると、それ以上責めることができない。会話が途切れてしまった。


 そしてイーアは今日の宮殿の話をしなかった。

 てっきり顔を合わせたら、真っ先にいろいろ聞かれると思ったのだが。


(ルッソが何か話したのか)

 ぐるぐると考えを巡らすが、頭がぼうっとして考えがまとまらない。ルッソはチルの気持ちを汲んで、黙っていてくれるだろう。

 ということは。

(俺だって気づいていないってことか!)

 チルはそう結論づけ、にんまりと笑う。

 嫌な予感を覚えたのか、イーアが嫌そうに片眉を上げた。


「で? 夜会でなんか良い出会いでもあった?」

 チルは知っている。夜会前のお茶会でイーアは大公から直々に、彼の孫にあたる公女との婚約を打診されているはずだ。それにどう反応したのか知りたい。


「ああ、そうだね」

 イーアはぐっと果実水を飲み干すと、ふわりと笑う。

「あったな」

 あまりにも甘く幸せそうな顔で言うものだから、拍子抜けしてしまう。

 なんと追求していいものか考えながら、へえっと答えた。

「よかったじゃん」


 誰だ。誰のことだろう。

 平然とした顔のまま、チルは考えを巡らす。

(さすがに三歳児の公女じゃないよな。……いやまさか可愛い公女に夢中になったとか? そういえばコイツ妹いるし……)


 そんな嵐のようなチルの心中など、知る由もないイーアはちびちびと果実水を飲んでいる。その顔は、何かを思い出しながら笑い、ずいぶんと楽しそうだ。


 そういえば、とチルは朧げな記憶を探る。

 親方だと思われる男のそばに、女がいたような気がする。しかも確かその女は、イーアと手を組んでいなかっただろうか。

(あれかーーー!!)


 顎に接してる自分の掌が妙に汗ばんでる。脳内でぐるぐると何かが回転しているようで、あるはずもない轟轟という音も聞こえた。


(そういえばあの女も乳がでかかったな! やっぱりこいつは乳か、乳があればいいのか!)

 迷走する思考のまま、チルはへらっと笑う。


「なあ、お前さ、昨日もピアをガン見してたよな」

 我ながら意地が悪いと思いつつチルが言うと、イーアは心底嫌そうな顔をした。

「あれは油断してたから」


「へぇ? 油断ねぇ。

 貴族の社交界にも顔出してんだろ? 女に迫られる事なんてしょっちゅうなんじゃね?」

「まぁ。そうだけど」

 ため息混じりに言う。その余裕がある感じが、チルは気に食わない。


「じゃあさ、誘惑とかされんじゃね? おまえガキだから、そういうのにコロッといっちまうんじゃねーの?」

 めちゃくちゃな脳内のまま、勝手に口が動く。あれ、何言ってるんだ俺、と思いながら、チルは話し続けた。

「なぁ、いろいろ経験しといたほうがいいと思うぜー? 貴族はそういうの、普通にあんだろ?」

 イーアの表情がすとんと抜けた。

「そういうの、俺慣れてるから手伝ってもいーぜ?」 

 へらへら笑いながら、言った。言ってしまった。


「……慣れてる?」

 イーアの声が低い。


「アルにもいたんだよな。夜伽役っていうの? ほら、俺はそのためにお前に着くよーにって、いわれて」

「誰に」

 チルの声を遮って、イーアが言う。

 その顔は無表情で、怖い。

 チルは背中に冷たいものを感じながら、それでも表情を変えないよう、顔面に力を込めた。


「えっと……みんな?」


 我ながら間抜けな返答だ。


「ふうん。『みんな』には、女性を口説くことすら出来ない腑抜けだと思われているんだね」

 イーアは氷のような声音で言う。

 チルは初めて、そんな彼の声を聞いた。


「え、っと……。そう言う話じゃなくてだな」

「『そう言う話』だ、チル」

 イーアは無表情のまま続ける。

「私にそういう存在は必要ない。この件に関して、これ以上君の言う『みんな』に干渉されるのは不愉快だ。この話はもう二度としないように」

 イーアはそう言うと立ち上がり、丁寧な仕草で食器を片付ける。その間何も喋れないチルを一瞥もしないまま、おやすみと言い残して屋根裏に続く階段を登っていった。


 呆然とそれを見送ったチルは、自分が呼吸を忘れていたことに気がつく。はっと息を吐くが、不安定でうまく息が吸えない。嫌な汗が流れた。

「……怒ってた」

 ようやく落ち着いて、そう呟く。

 テーブルの上には全く口のつけていない葡萄酒と、同じく手付かずのナッツ。

 それを見下ろしながら、チルはくしゃりと前髪を掴む。自己嫌悪で吐きそうだ。

「なにやってんだ。俺」


 どれくらいそうしていたんだろう。


『ほお、美味うまそうな魂のものがおるではないか』

 突然、声がした。


 チルは常に、周囲の気配を読んでいる。

 周囲には異常はない。この家にはチルとイーア、寝室ですぴすぴ寝息を立てていたリンの気配しかない。家の外には幽霊の気配はするが、入り込んだ様子はなかった。


 なのにそれは店側、食堂の入り口にいた。


 奇妙な生き物だ。

 頭は黒山羊だが、異様な四つの角が禍々しい存在を主張している。胴体は人間だが、奇妙な事に腕が六つあり、そして下半身は艶かしく光る、黒い鱗に覆われた蛇だ。


 ひっとチルの喉が鳴る。


『この屈辱の封印が解けた途端に、目の前に餌が転がっておる。これほど愉快なことがあるだろうか』


 その生き物が横長い瞳孔をきゅうっと絞った。その様子はあまりにも禍々しい。そして声は酷く歪んで聞こえる。まるで、何か金属を擦り合わせたような。

 何が起きたのかわからない。ともかく、これは良くない生き物だ。チルは本能的に逃げようとした。

 だが、体が動かない。まるで、テーブルに縫い付けられたみたいに。しかも、声が出ない。

(なんで!?)


 山羊頭の発する気配のせいか、意識が朦朧とする。奇妙な六本の手が伸びて、一切抵抗できないチルの手足を掴んで持ち上げた。

 すぐ目の前に、不気味なその生き物がいる。獣特有の異質な匂いと、鼻をつまみたくなるような悪臭が獣の口からした。


『しかも人間の女か。……■■■の匂いがする』


 その奇妙な生き物は愉快そうに嗤う。獲物を前にした捕食生物の笑いだ。空いていた一方の手がチルの顎を掴み、強制的に顔を上げさせる。

 動けない、声も出せないチルは、必死に黒山羊を睨み返した。それ以外、抵抗する方法がない。その必死のチルを見る獣面の山羊の顔が、にやり、と嗜虐的に笑った気がする。

『これは愉快そうだ』


(ふざけんなふざけんな!! なんだよこいつ!!)

 動かない足に必死に力を入れる。なんでもいいのでこいつを蹴り飛ばさなければ、気が済まない。

 だがチルの体は鉛のように動かない。


(ちくしょう! このやろうー!!)

 チルのひん剥いた目から、涙が溢れる。

 黒山羊は愉快そうにその涙に穢らわしい舌を這わせた。

(イーア、イーア!)

 この部屋の真上はイーアの眠る部屋だ。こいつが何かはわからないが、とにかくイーアに危害が及ばないようにしなければ。痛いくらい歯を食いしばり、微かに動いた足に力を込めたその時。


「汚い手であたしのチルに触ってんじゃないわよ! この三下魔物!」

 真っ暗な闇の塊が、魔物の頭部に飛びかかる。それと同時に、チルを掴んでいた四本の腕から血が噴き出た。


 放り出されたチルの体を、イーアが受け止める。いつ屋根裏から出たのだろう。その手には鋭く光る長剣が握られている。

「……イーア」

 ようやく動いた喉が、引き攣れたように彼の名を呼んだ。

「ごめん」

 帰ってきた返事は低く短い。


『おのれ、黒の眷属か!』

 黒山羊は叫びながら、未だ血が噴き出ている腕をやみくもに振り回す。

 振り払われたリンが空中でくるりと回転し、上手に着地する。その体から黒い靄が溢れているのを見て、チルは息を呑んだ。


「大丈夫、動かないで」


 強張った体に響く、イーアの低い声。

 彼は左手でぐっとチルを抱き寄せ、剣を大きく振るった。イーアの剣は長い。こんな狭い場所で振るうには向いていないはずだが、イーアは躊躇なく追ってきた手を切り払った。黒山羊が耳を塞ぎたくなるような奇怪な悲鳴をあげる。


「喋れる魔物くせに大した事ないわね!」

 リンがふんと鼻で笑いながら、四肢に力を込める。飛びかかろうとしたその瞬間、黒山羊の背後に大きな獣の口が開いた。鋭く尖った、刃物のような牙。小さな前歯の奥に見える、真っ赤な肉厚の舌。何もなかった空中に、突然巨大な肉食獣の口が開いたのだ。


「にゃ!」

 リンが驚いたように声を上げ、イーアのチルを抱える腕に力がこもった。


 その獣の口が、音もなく黒山羊の上半身を飲み込む。崩れ落ちる下半身の黒蛇を、丸太のような赤い獣の前脚が踏んだ。


「赤い……虎……?」

 そこにいるのは、巨大な赤い虎だ。その上半身の姿が見えたのも一瞬、赤い霧となり消えた。


「今のは…?」

 イーアが探るような目でリンを見る。リンは一瞬で動かなくなった魔物を、睨むように警戒したまだ。

緋虎ひこね。最強の神獣よ。わたしも初めて見たわ」

 チルは臨戦体制をとかない。

「神獣?」

 イーアが怪訝そうに聞き返す。


「神話の時代からいる女神の守護神獣よ。本体ではないと思うけど。……それがどうしてここにいるのかしら」

 リンが警戒を解かない理由はそれだろうか。


「あ」

 赤い虎。最近、自分はそれを見なかったか。

 未だ混乱しつつ、チルはイーアを見上げる。直ぐ目の前に澄んだ紫の瞳があった。その瞳を凝視したまま、なんとか絞り出すようにチルは言う。

「イーア、ごめん」

 イーアは首を傾げた。

「俺、黙ってたことがある」

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