第9話 夜更けに肩をならべ

 ワルド大公城は小高い丘の上にある。

 レイナードは窓辺に寄りかかり、城下を見下ろしていた。

 もはや深夜と言ってもいい時間だが、街はまだ明るい。貴族たちのタウンハウスが並ぶ北部はそれほどではないが、ちょうど城の正面にある商業区や、その先の港湾部は昼夜関係なく、賑わっている。

 海には多くの船舶が停泊し、客船などの煌々とした灯りが夜の海の中に夜行虫のように浮かび上がっていた。


 だがそこから先は、厚い雲に覆われた月の光すら届かない、真っ暗な海が水平線まで広がっている。そしてこのぽっかりあいた暗闇は、この部屋からは見えないが東の方角にも存在するはずだ。

 旧市街地や下町のあるエリアのさらに向こう側は、対岸が見えないほど広い大河がまるで大地を裂くように流れている。蒼河と呼ばれているその河を遡れば、やがて皇帝の鎮座する皇都ヴィンダリアに辿り着く。


 皇都は巨大な湖のほとりにある。

 ほんの数年前まで、レイナードは皇都に住んでいた。軍務総督を務めていた叔父が体調を崩し、引退することがなければ今もそうしていたかもしれない。

 だが、今ここで大公国を支える柱として働くのも悪くはない。特に、自分より若い者たちが必死になって活動しているのを見るのは面白い。


 ふっと笑いながら、杯を手に取る。

 ごそごそとすぐ後ろのソファからルッソが顔を上げた。

「珍しく飲んでるねー。レイ」

「今日は面白いものを見せてもらったからね。アルトゥールも例の婚約者と上手くやっているようで良かった」

 これにはルッソは盛大にため息を吐く。

「なーにがうまく、だよー。あんなに泣かせてさー」

 ルッソはよっという掛け声をあげて立ち上がり、窓際に移動する。

 身長はレイナードが幾分か高い。並ぶと、自然と距離が近くなる。ルッソはレイナードの飲みかけのワインを躊躇なく飲み干して、満足そうに息を吐いた。

 

 そのルッソをじっと見たまま、レイナードは零す。

「アルトゥールは詰めが甘い。何度も、揃えるべきは文官だと言ったのだが」


 そのタイミングで、勢いよくレイナードの部屋の扉が開いた。真夜中の闖入者は血走った目で窓際の二人を見ると、叫ぶ。

「あの野郎、抜け出しやがった!!」


 闖入者ことレイナードの異母弟アルトゥールは、どすどすとやかましい足音をたてながら歩き、先ほどまでルッソが転がっていたソファにどっかりと座る。相当苛立っているらしい。


「想定の範疇でしょー。さっきはちゃんとお説教聞いてたから、えらいえらい。昔のアルはもっと逃げ足早かったじゃんねー」

 愉快そうな声でルッソが言うので、アルトゥールはこちらを睨みつけた。

「うるさい! どうしてルッソは俺に教えないんだ! あいつが勝手に動いたら、危険すぎるだろう!」


「まさか! オティーリア公爵令嬢とお前の結婚を良く思わない連中がいて、虎視眈々と破棄のチャンスを狙ってるなんてー! そんな怖いこといえるわけないじゃーん!」

 ルッソが芝居がかった言い方をするので、思わずレイナードはくつくつと笑う。


「お前な……!」

「第一、アルがミゲル男爵とその娘を使って内偵してること、二人は知らなかったわけだしー。その隙を突かれて、どっかの誰かが二人にいらぬ情報吹き込んだんでしょー。それはアルの失敗だよねぇ」

 相棒がしっかりと弟を責め立てるので、レイナードは愉快で仕方ない。彼の持つゴブレットに並々とワインを注いでやる。


 今回、件の公爵令嬢を襲ったのは帝国の男爵家の倅だった。

 酔っ払った時に、見知らぬ男に女を用意してやったと言われ、元々女遊びに慣れている彼は疑う事なくあの部屋に行ったらしい。もちろんオティーリアが何者かわかっておらず、酔いが覚めて蒼白どころか土気色の顔をしていた。ただし、護衛の私兵含めて、それ以上の情報は何も引き出せなかったのが口惜しい。

 一方のオティーリア公爵令嬢も、薬か魔導具を使われたのか、前後の記憶が曖昧だ。こちらからも何の手掛かりが見つからなかった。



「手札が少ないんだ。公爵領地の采配を任せている領政官も領官も、皆前公爵時代からの古狸だ。あそこに送り込めるような気概も能力もあるやつは、イーアの陣営にはいない」

 アルトゥールが苦々しくつぶやく。


「そんな悠長なことは言っていられないだろう」

 レイナードははっきりと弟に告げた。

「殿下は今年の新年祭で公爵になったが、あと五年後には帝国軍事総統だろう。そうなれば確実に領地のことは後回しになる。基盤を整えるなら、今しかないと思え」


 レイナードの言葉に、アルトゥールはガックリと肩を落とす。そのままずるずるとソファに沈み込んだ。


「あらぁ。撃沈しちゃったよー」

「ルッソが虐めるからだね」

「俺かなぁ。レイの方が意地悪だと思うけどなぁー」

 くすくすと顔を見合わせて笑う。

 そしてルッソは愉快そうに笑ったまま、レイナードに寄りかかり、その肩に頭を乗せた。


 ルッソは絶対に酒に酔わないくせに、レイナードと居ると普通に酔っ払いになる。レイナードは酒はあまり強い方ではないので、ほとんど酔うほどは飲まないのだが。


「お前らはいいよなーいいよなー」

 二十代半ばすぎの成人とは思えない恨みがましい声がソファの方からする。ルッソは愉快そうに笑った。

「言えばいいじゃんー。アルが頼めば、レイは力を貸してくれると思うけどなー」


 ソファから半身を起こしたアルは、恨みがましい目でこちらを見ている。

 そのまましばらくの沈黙の後、アルトゥールが観念したように口を開いた。


「レイナード兄上、多少の修羅場でも動じない、魑魅魍魎どもを蹴散らせる勢いもある文官が欲しいです。力を貸してください」


 ぶっと、レイナードの隣でルッソが吹き出した。

「あそこは魔界かぁー?」

 レイナードは静かに笑って頷く。

「そうだな。……ウドなら問題なかろう。小国とはいえノルデン王族、ノルデンならノイにもアルトにも属していない。そのうえ、ウドの妻は『蒼眼の鷹』の一人……今後はアルが直接内偵、なんて馬鹿なこともせずに済むだろう」


 レイナードがそう言い切ると、再びアルトゥールはソファに沈み込む。


「あー……ピアか。あいつ、チルを溺愛してんだよなぁー」

 ルッソがバツが悪そうに言う。

「俺たち、ピアに殺されるかもー」


「はぁ?」

 アルトゥールが再び顔を上げる。もう座るか動かないか、どちらかにすればいいのにとレイナードはその様子を見ながら思った。


「この前さぁ、夜会で親父さんに呼び出されてさー。ほら、おやっさん、自分の孫をイーアの妻にしたいだろ。チルに命令してさー」

 レイナードはふと、姪のゾフィーの愛らしい顔を思い出す。ゾフィーはまだ三歳、既に嫁ぎ先まで決められるとは、貴族は相変わらず難儀だと思う。

とはいえそんな自分は、いまだに結婚どころか恋人さえいないのだが。

「命令って、何を」

 アルトゥールの声が強張る。


「『ゾフィーが成人するまで、その体で公爵閣下をつなぎ止めろ』」


 呆れを含んだため息がふたつ。一つはソファの方から、もう一つはレイナードの肩の辺りから。

 レイナードはただ鼻で笑う。


 実際、貴族の結婚には政略が多い。

 十歳二十歳の歳の差はよくあること。相手が成人するまで公妾を持つことも、珍しくはない。


 だが、とレイナードは思う。

 まだ少年と言ってもいい皇子が、ルッソの妹分を見つめる目を、自分は知っている。といっても十数年前に見たその目は、もっと仄暗く、そして病んだような熱を帯びていた。

 その時の自分は子供で、あの視線の意味を理解もしていなかったが。今なら少し、わかる気がする。

レイナードは自身の柘榴石の瞳をそっと窄めた。


「父上も愚かだな。あの皇帝の息子が、一度決めた自分の伴侶を覆すはずなどないだろうに」

「あー、やっぱりそう思う? 困ったねー」

 ルッソが喋る度に、肩を伝って微妙な細動が伝わり心地よい。レイナードにもワインがだいぶ効いているようだ。


「お前たちが何を思ってあの少女を彼に当てがったのかは知らないが、選択としては悪くはなかったのではないか」

 レイナードが苦笑しながらそういうと、ルッソは黙り込む。アルトゥールもわかりやすいほど視線を逸らした。まるで、悪戯がばれた子供のよう。

 その二人が楽しくて、レイナードは笑う。


「父上のお考えがそうなら、アルトゥールもルッソも盛大に逆らうといい。きっと、悪い方向にはならないから」


 ______________________________


「だがあいつはオティーリア嬢の肩を抱いていたぞ! ゆるさん!」

「あれはどう見ても姉弟でしょー。アルの目ふっしあなー!」


 レイナードは愛称を使わないので、書く方も彼に合わせました。

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