第8話 息ができない

 深夜。

 お腹の辺りでまるくなっているリンの温かい体を撫でながら、チルはなかなか寝付けずにいた。

 実のところ、全身は怠く、頭はぼうっとしている。ルッソに頼んで、久々に石を使ったからだ。


 イーアは四歳の頃親方に引き取られた。

 親方はチルの外見を気に入り、すでにしっかり受け答えする様を聡明な子供だと思ったという。

 毎日厳しく躾けられ、折檻され、そして暗殺者としての技術を叩き込まれたが、親方の思惑に反してチルは物覚えの悪い子供だった。

 何より、何かの命を奪う事を極端に嫌がった。そうして幾つになっても仕事を覚えず、チルが七歳の時、業を煮やした男はチルにあの腕輪を付けた。

 真っ赤な、まるで一瞬前に流れた血を固めたような、大きな柘榴石のついた魔導具。




 過去を思い出すと、思い出そうとすると息ができなくなる。殴られて痛かった。人を殺すことを強いられて、恐ろしかった。

「……ひっ」

 喉が引き攣る。お腹の辺りでもぞもぞとリンが動いたので、起こしてしまったかと焦ったが、リンのすやすやと気持ちよさそうな寝息が聞こえた。チルはほっとして、もう一度布団に潜る。




 柘榴石は、他者の意思を奪い、命令を実行させるものだったいう。

 魔導具の使用に周囲が気がついたのはチルが十二歳ほどの頃。当然のように大問題になり、親方は『蒼眼の鷹』を追われ、チルの身分も新しい団長預かりになった。

 石を使っている間の記憶は残っていないので、それ以前の記憶はとても曖昧なものでしかない。たぶん、覚えていない方が良かったのだろうと思う。


 柘榴石は今はほとんど使っていない。今の団長に使用を知られたら、きっとしこたま怒られるだろう。だが、今回はどうしても使うしかなかった。あの会場には会いたくない人がいたのだから。


 大人になったからか、最近では柘榴石を使用しているときの記憶は残る。だが全て朧げで、まるで水の中にいるような感覚だ。

 なので久々に会った親方の顔を、チルはほとんど見ていない。だが。


『大丈夫、親方はチルのことに気がつきもしなかったよー』

 柘榴石を使った後は、自我が戻るまで時間がかかる。公城の整えられた庭の隅で、階段に座りぼうっとしているチルに、ルッソはそう声をかけた。

『うん』

 返事をするのもしんどい。

 だがなんとか気持ちを奮い起こして、チルは顔を上げる。子供の頃、あんなに怯えていた親方より、今は別のことが気になって仕方ない。


『イーアは俺に気がついた?』

 これには、ルッソは困ったように笑う。

『どうかなー? あの子、鈍感だけど、チルのことだと鼻が効くからなー』

 チルが脱力したように欄干に頭ぶつけたので、ルッソはさらに困ったように笑う。


『チル、これが最後だよ。もう俺はお前を荒事には連れて行かない』

 普段間伸びする話し方とは違う、しっかり意思を込めた声だった。


 チルはぼんやりとルッソを見返す。

 自分をまっすぐに見るルッソの目に言い逆らう方法をチルは知らない。


『なんで……』

『それが大公の意志だからね。柘榴石も俺が持つ。もうお前は、こういう仕事をしないでいい』

『なんでだよ!』

 チルは握っていた柘榴石のついたチョーカーををルッソに投げつけた。体の感覚が戻っていない状態で投げられたそれは、あらぬ方向へ飛んでいき、苦笑いしながらルッソはそれを拾う。

『じゃあ俺は、もうなんの価値もないじゃないか!』



「くそっ」

 

 再び胸を強く押されるような感覚がして、チルが息を吐く。

 その時、かたりと店の方から音がした。


 アロイスはアルの命を受けて西方に行っているはずだし、イーアは今晩は公城に泊まると聞いている。つまり、この店には今チルとリンしかいないはずで、それ以外は外にも変わった気配はない。


 チルはリンを起こさないようにそっと体を起こし、枕元のダガーを握った。

 足音を立てずにドアに行く。家中の鍵は閉めているはずだが、鍵なんて針金一本あればなんとでもなる。


 寝室を出ると向かいがアロイスの部屋、左側は台所兼食堂だ。右側が店だが、またかたり、という音が店の方からした。

 足音を消したまま、店へと向かう。

 麻で出来た雑なカーテンの合間から店を覗き込んだ時、ガチャリと音がして玄関のドアの鍵が開いた。そしてすぐに誰かが入ってくる。

 その誰かは几帳面に室内から鍵をかけ、疲れ切った様子でカウンターの方へと歩く。

 その暗闇でも光る金の髪を確認して、チルは思わず素っ頓狂な声を上げた。


「イーア!?」


「あれ、チル起きてたのか?」

 イーアの方も驚いた様子で紫の目を見開く。

 そしてにかっと笑い、手に持っていた瓶を掲げる。どうやら葡萄酒のようだが。

「じゃあ、ちょっと付き合って」


 品行方正なイーアが酒とは珍しい。


 チルはすぐに、カウンターに置いているオイルランプに火をつけた。ぼんやりとした灯りに照らされ、疲れ切ったイーアの顔が浮かび上がる。服装は夜会の時のままだ。こんな豪華な格好でこの下町まで来たのかと思うと肝が冷える。


 そもそも、彼が公城から出るのを大人たちが許可するわけがないので、抜け出してきたのだろう。


 困ったやつだなーと、チルは苦笑する。

 色々思うところはあるが、何となく不安に押しつぶされそうな夜は、こいつの顔を見れて嬉しい。


 そんなチルを首を傾げて見ていたイーアの顔が、みるみる赤くなる。そっと視線を逸らしながら、ものすごく小さい声でつぶやいた。


「……チル、いつもと違うね」


「あ?」


 今夜は一人だけだと思っていたので、男装用の胸当てをしていない。普段も寝る時はしていないのだが、イーアがいる間は必ずつけるようにしていたのだが。

 そのうえ、今のチルはアロイスのお下がりのシャツ一枚しか着ていなかった。

 その男物のシャツを押し上げて、しっかりと主張している胸をイーアに見られたらしい。


「ぶぁっっかやろおぉぉ!!」

 思わず叫んで自室に飛び込むと、ベットの上でリンが驚いたようにぴょんと飛び上がる。


「にゃに? にゃ? 帝国軍でも攻め入ってきた??」

 どうやら盛大に寝ぼけているらしい。

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