第7話 それはまるで魂のない人形のよう
「帝国の若き獅子にご挨拶申し上げます」
そう言いながら恭しく首を垂れる男を、イーアは妙な違和感を感じながら見返した。
白髪混じりの黒髪の、どこにでもいるような男だった。年齢はおそらく50を過ぎている。だいぶ緩んだ体をしているが、元々は武人だ。動きに癖がある。人好きするような笑顔を浮かべているのが、妙にひっかかった。
その隣で淑女の挨拶をした娘は、娘というより、むしろ歳の離れた愛人のような雰囲気だ。こちらはデコルテの大きく開いた真紅のドレスを身に纏っている。波打つ黒髪も、体の線を強調するようなドレスもいかにもそれらしい。
彼女は艶っぽい瞳でイーアを見つめている。
多くの貴族がイーアへの挨拶を遠慮しているなか、男が率いる一団は堂々とイーアに話しかけてきた。
その尊大な態度に多少苛立ちを感じながら、笑顔を返す。娘の頬に朱が走った。
「我々は無冠の者ですので、お話しさせていただける事を心より嬉しく思います。私はバーラー、東方軍の末席に身を置くものです」
男はどこまでも
自分はこの男を知っている。
「堅苦しい挨拶はいらない。……どこかで会っただろうか?」
イーアの質問に、男はどんな感情も伺えない目で返した。その顔には今でも笑いが張り付いているが、目だけが異様なほどこちらを値踏みするような様子で見ている。
「いえいえ、私のような身分のものは、公爵閣下にお会いするなどとんでもないこと……お初にお目にかかります。ですが、私が飼っている猫が、公爵閣下に大変懐いているようでして」
イーアは眉を顰める。
「……覚えがないな」
内心、すぐに笑って怒る、
バーラーはそれも想定の内だったのか、やはり何ひとつ表情を変えずに続ける。
「あの猫は躾がなっていないので、てっきり閣下にご迷惑をおかけしていると思っていましたが。覚えがないとは、はて」
男の声が、イーアの記憶の深いところをざらりと舐める。
ますます嫌悪を感じて、イーアは黙った。
「こちらの猫の方が躾がなっておりますゆえ、多少毛色は違いますが。閣下に愛でて頂ければ幸いと思い、連れて参った次第でございます」
そう男が言い、隣の娘が一歩前に出る。そして静かに淑女の挨拶を行なった。
その娘を無視して、イーアは男を睨み続ける。
「なんの話かわからぬと言っている」
そう言いながら素早くあたりを伺う。リアの行方も気になるしが、この剣呑な雰囲気を周りに悟られたくない。
だがこの男の取り巻きのような連中が、イーアたちと会場との間に壁のように立っている。この男たちにとっても、会場で目立つことは本意ではないらしい。
イーアは素早くザイツに目配せする。
ザイツは主人に馴れ馴れしく話しかけている男に対して、苛立ちを隠さず睨むような目で見ていたが、イーアの視線を受けて躊躇うような視線を返した。
ザイツにはリアを探しに行ってほしいのだが、護衛騎士という立場上イーアのそばを離れる決心がつかないのだろう。
イーアは目の前の人間を無理矢理避けさせ、この場から去りたい衝動を堪えながら、バーラーと名乗った男を冷ややかに見返した。男はそんなイーアの変化を気にする風でもなく、にやりと笑いを深くした。
「おやおや。公爵閣下は私の猫を盗んでおいて、知らぬ存ぜぬとおっしゃるのですか? やはり、母君と同じ、恩知らずでいらっしゃる」
男の言葉に、イーアは動きを止める。
皇族相手にあまりにも不敬な物言いだ。そして、母とは。
あまりのことに、背後に立つザイツまで硬直している。
その隙に、娘の掌がそっとイーアの腕に触れた。そこからぞわりと、全身に悪寒が走る。
イーアが見ると、娘は紅潮した頬で見つめ返し、さらにその胸まで寄せた。自分がイーアの歓心を買えると信じて疑わないのだろう。
「誰の許しを得て私に触れている」
イーアが娘に投げかけた言葉は短い。目の前の貴公子を熱っぽい目で見ていた娘は一瞬で青ざめた。
「あ……。あの……」
それでも男の命令に従って、娘は果敢にイーアに微笑みかける。それはこわばった表情の、愛嬌も何もないものだったが。
「おや……この猫は気に入りませんでしたか? 金毛に比べれば見劣りはしますが、よく懐くいい猫で」
「黙れ」
イーアは強く男を睨み、男がはじめて怯んだ。だがすぐに何かを言おうとする。それを遮ったのは、よく通る静かな声だった。
「公爵閣下、そのような恐ろしいお顔をされていては、女性に逃げられてしまいますよ?」
一人の青年がそう言いながら、二人の会話に割り込んだ。
初めて見る顔だが、その顔には見覚えがあった。黒の短髪に、挑戦的な釣り上がった
そして彼の右側には、同じ黒髪の妖精のような娘が立っている。その姿に、イーアは眼を見開く。
鬘だろう黒の長髪は、夜会の煌々とした灯りに照らされ、キラキラと輝いている。白い顔も、
妖精という言葉がまさにふさわしい。なのに、その顔はごっそりと表情を削ぎ落としたように、にこりともしない。まるで、陶器の人形のように。
(チル?)
「グラーツ、貴様!」
目の前の男が、青年の名を呼ぶ。知らない名だが、ルッソに幾つ名前があってもおかしくない。
「ええ、マスター。……しかし今は私の方が階級が上ですので」
後半は声色を落として、脅すように言いながらルッソはにっこり笑う。
「これ以上公爵閣下への不敬行為はよろしくない。思わずしゃしゃり出て来てしまいました」
そう言いながら、男をしっかりひと睨みし、呆然とするイーアの方にくるりと向いた。
イーアはずっと、その隣の娘から目を離せない。
「この者が閣下に大変失礼をいたしました。ワルド軍を代表してお詫び申し上げます」
イーアは何も言えない。するとルッソは身を乗り出し、イーアのすぐそばで囁くように言う。
「さらに無礼を重ねるようで申し訳ないのですが、どうにも妹が人に酔ってしまったようです。よければ閣下、一休みできる場所まで連れて行っていただけないでしょうか?」
(妹……?)
ルッソの隣の娘は確かに彼と同じ髪色、同じく整った顔立ちも、少しきつめな目元もよく似ている。だが、ルッソのことだ。こんな化粧など朝飯前だろう。
「……わかった」
彼女のことをルッソに問いただしたいが、今はリアのことが心配だ。
ルッソのことだ。何か考えがあるのだろう。
イーアは纏っていたマントを外し、後ろに控えるザイツに投げる。
「ここにいろ」
「しかし」
「命令だ」
手を差し出すと、彼女は静かにその腕に自分の細い指を添える。見慣れたその手も、その細い首筋も、間違いなくチルのものだ。
いつもびっくりするくらい、必死にしがみついてくる手なのに。
(……まさか)
イーアはまるで鮮血のような色合いの柘榴石を観察するが、結論を出すことは出来ない。とても奇妙で、不安な気持ちのまま歩き出した。並ぶ娘はその後に従うようにしながら、イーアを誘導する。
その瞳には、何の感情もない。まるで静かな湖の水面のよう。それがあまりにも落ち着かない。
そうして大広間を出ると、彼女が手を離し真っ直ぐに歩くので、イーアは慌ててその背を負った。
「チル?」
何度目か名を呼ぶものの、何の返答も返ってこない。
そうして歩くうち、参加者が休憩するための部屋が並ぶ場所に出る。
その廊下に立つ一人の男が、足早に近づく二人を怪訝そうに見ていた。
彼女は無言で男のそばに立ち、にっこりと微笑む。その次の瞬間には、男の目が空になり、その場に倒れた。一瞬で男を気絶させたらしい。
ようやく追いついたイーアの耳にも、室内から争う声が聞こえる。その一方は間違いなくリアの声だと確信し、イーアは思わずその扉を蹴り開けた。
「リア!」
ソファの上に男にのし掛かられるようにしているリアと、その男と目が合う。まだ若い、貴族の子息という所だろうか。
「ひいいい」
イーアが駆け寄ると、男は情けない声をあげて後ろに転がる。リアを人質にでもされたら面倒だったが、それほどの気概もなかったらしい。
真っ青な顔で少し乱れた襟元を押さえているリアを素早く見る。
だがそのリアが真っ青な顔のまま叫んだ。
「殿下、後ろ!」
リアの声を受けて振り向くと、男が数人部屋に雪崩れ込んでくる所だった。服装から察するにこの貴族の護衛といったところか。
イーアは鞘のままの剣を構えて対峙する。人数は三人ほど。この程度なら一人でもなんとかなる。
だがイーアが動くより先に、桃色の影が踊り出た。抜刀した男の一人に、無音のまま躊躇なく細いダガーを突き出す。あの武器は知っている。暗殺用の暗器だ。
「殺すな!」
イーアの命令に、少女の陶器のような眉が少し動く。すぐに逆手に切り替えた。イーアが手前の男を制圧している間に、後ろの二人は仲良く床の上に転がっていた。
「あらら、もしかして突入したの? 無謀だねー」
まとめて男たちを縛り上げていると、ルッソが呆れたように言いながら、この部屋にやってきた。数人の大公国兵がルッソの指示を受けながら、男たちを連行して行く。
「この子に任せとけばよかったのにー。流石に公爵閣下自ら乗り込むとか、だめでしょ」
黒髪の娘の頭をぽんぽんと触れながら、ルッソが言う。公爵と呼びながら、口調はいつもと変わらない。
「リア、大丈夫か?」
「……はい」
そんなルッソを無視する形になるが、イーアはリアに駆け寄る。そっと肩に手を置くと、痙攣するように震えていた。
「イーア、これはどういうことだ!」
怒りを含んだ声に振り向くと、アルが駆け込んでくる所だった。いつもの飄々とした雰囲気はなく、激しい怒りのオーラが全身から出ている。男たちを連行する兵士たちがすれ違いざま、ひぃっと悲鳴を上げた。
その後から入室したのは、黒髪の涼やかな男性、この国の第二公子、レイナード・ワルドだ。彼も眉を寄せて、室内を見回す。
「アル様……申し訳ありません、わたくしが」
「君には聞いていない。イーア、どうしてここにオティーリア嬢がいる」
「すまない……彼女に調べて欲しかったことがあって連れてきた」
イーアの答えに、さらにアルは眉間の皺を深める。
「オティーリア嬢はお前の秘書だが文官だ。その彼女に内偵の真似事をさせようとしたということか」
アルの激しく怒気を孕んだ声に、リアがさらに震える。思わずイーアがリアの肩に手を回すと、何故かアルの怒気が増した。もはや視線だけで殺されそうな勢いだ。
「アルトゥール、話したい事はあるだろうが、後にしなさい」
背後からレイナードの水音のような静かな、それでいて凜とした声が響く。
「殿下、あなたは今夜の夜会の主賓です。会場にお戻りを。話は終わってから伺ってもよろしいでしょうか?」
問う形だが、これは命令に近い。
イーアは黙って頷いた。
「ザヴアーランド公爵令嬢は別にお休みいただける部屋に案内させます。アルトゥール、お連れしなさい」
「……俺はイーアにつく。これ以上、離れるわけには」
アルが言うと、レイナードはにっこりと笑った。その笑顔が、めちゃくちゃ怒っているアルより怖いのは何故だろう。
「却下だ。彼女の婚約者はお前だろう」
そう言いながら、アルとは似ていないすっきりした一重の目でアルを睨む。
「自分の婚約者をエスコートもできないのか。馬鹿者」
容赦がない。
ついでドアの前に立つルッソと少女の方を向いた。
「お前たちはここの後始末を。夜会の後には殿下を客室にご案内するので、ルッソは来るように」
さっさと指示してしまうと、あらためてレイナードはイーアに向き合った。
「というわけで陛下、お供が私でもお許し下さい」
さわやかな微笑みでそう言われると、もはや抵抗は無理だ。仕方ないので、イーアはリアの目を見る。いつのまにか震えの収まった彼女がしっかりと頷いたので、イーアは立ち上がり、ルッソと少女を見た。
ルッソは相変わらず考えの読めない顔で、その隣の少女も、感情の無い人形のような顔のまま。
やはり少女の首元の柘榴石が気になる。イーアが少女に話しかけようとすると、ルッソがそっと手を伸ばし遮った。
「イーアは会場に戻らねばだろ?」
そう言われたら、何も言えない。
ルッソは困ったような、それでいてイーアを安心させようとするような笑顔を見せた。
「大丈夫だから。そんな悲しそうな顔しなさんな。さ、行っといで」
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