第6話 夜会のさなかに
大公家主催の夜会は公城の離宮で開かれる。正装したイーアはその離宮の大広間で静かに息を吐いた。
この大広間はワルド大公国の繁栄をまざまざと見せつける、豪華なものだ。出席している人間も大公国や周辺国の貴族だけだと言うのに、まるで皇都にでもいるような絢爛豪華さだった。薄っぺらな笑顔で擦り寄ってくる彼らに笑顔を返すたび、なにかが静かに消耗していく。
「お疲れですか?」
感情の感じない無機質な声につられ、イーアは顔を上げる。
鉄仮面に例えてもいいほど表情のない顔が、こちらを見下ろしていた。
この夜会の帝国からの正式な出席者の一人、宰相補佐のヴァイツ子爵だ。金の髪に眉目秀麗、すらりと伸びた手足は見事で、帝国貴族の間では大陸一の美丈夫と謳われている。
だが、彼と向かい合うとその外見より、その瞳に見入ってしまう。
この美貌のために幼い頃から苦労していたと言う彼は、驚くほど感情を表に出さない。だが付き合いの長いイーアは微かな感情の機微を見分けることができた。
どうやら心配してくれているらしい。
彼はイーアの幼い頃の家庭教師でもあり、歳の離れた兄のような存在だ。
「いや、ヴァイツの隣に立つと、この黒も霞んでしまうなと思ってね」
イーアは纏っている漆黒のマントをちょいと摘んで言う。
余裕のあるところを見せようと、ほんの少しの嫌味を加えた。イーアにとってはそんな軽口を叩ける相手がいるのはありがたい。
だがヴァイツはふっと鼻で笑う。
「それは殿下の威厳が足りないからでしょう」
あっさりと辛辣に切り捨てられてしまった。
イーアはそんな彼をちょっと睨み、それも効果が無いので諦めて、目を逸らした。きっと彼にとっては、自分はいつまでも子供なのだろう。
(この色が馴染めないのは本当なんだけど)
今日のイーアの正装は、慣れない公爵としてのものだ。馴染みのある緋色のマントではなく、その色は漆黒。ビロードの生地は光沢があるが、やはり黒は陰鬱な印象だ。
その下のコート、その下のトラウザーにブーツに至るまで、殆どが黒。袖や襟などには金糸で縁どりの刺繍がされていているが、コートの生地に施されている刺繍も黒い糸。イーアの継ぐ公爵家の歴史を象徴するように、驚くほど豪華な装飾が施されているが、なんだかしっくりこない。
(なんだか魔王にでもなった気分だ)
そんなことを考えていたイーアの背に、そっとヴァイツが手を掛ける。そのまま誘導されるように歩くと、会場の隅に豪奢なソファがあった。
「今回は公爵閣下にとってのはじめての戦場です。決して、気を抜かれることにないようにしてください」
いつもの呼び方ではなく、公爵と呼ばれイーアは背筋を伸ばす。見上げたヴァイツの顔はぎこちないが、微笑んでいる。
「そもそもスケジュールが急なのです。若いとはいえ、もう少し余裕を持った予定を組まないと…」
いつもと違う緊張の中にいるのに、降ってくるのはいつものお説教だ。ふっとイーアの表情が緩む。
「私は大丈夫だよ。ニコルは自分の仕事をしておいで」
思わず呼び慣れている愛称を呼んでしまった。ヴァイツは一瞬息を呑んで、それからふっと息を吐く。
何か見極めようとするかのようにじっとイーアを見た後、ヴァイツは一礼する。素早く踵を返して遠ざかる背中を見送った。
ソファに腰掛けると、少しだけ緊張が緩む。目線で促してリアも座らせた。
彼女も緊張していたらしい。ぎこちなく座ると、ほっとしたように微笑んだ。
その二人を隠すように、正面に守護騎士のザイルが立つ。
こうしていれば、大抵の貴族はイーアへの挨拶を遠慮するだろう。
「アルトゥール様、いらっしゃいませんね。やはり噂は作り話なのでしょうか」
彼女は不安げに会場内を見ている。
「だといいな……本当に件の男爵と関わりがあるとしたら、私は絶対に許さないが」
その声が、自分が思っていたより冷たいものだったので、イーアは乾いた笑いをこぼす。
チルには言わなかったことが一つある。
イーアは領地を継いだ今年初めから、自領について調べ始めた。あまりにも豊かな地で、古い貴族たちも多い。その記録や報告書に目を通しただけで、頭を抱えることになった。
多くの問題が見つかり、その一つ一つをあるべき姿に戻さねばならない。まだイーアの体は帝国にあるので、地元に派遣している文官たちと共に問題の把握に必死だった。
そしてその中で、不正な穀物の流れを見つけた。
どうやら、公爵領地から西側諸国に穀物が横流しされている。その流れを掴もうとした矢先、イーアの側近のアルがその容疑者と何度も会談しているという報告が届いた。しかもその男、バルド大公国の男爵だったが、その娘とアルが懇意になっているという。
イーアとリアの前で、言いづらそうに報告した気の弱そうな文官の顔を思い出す。イーアは激怒していたし、リアは今にも倒れそうなほど青褪めていた。きっとあの文官は生きた心地はしなかっただろう。
その時のことを思い出すだけで、イーアの眉間に深い皺を刻まれる。それを心配そうに、リアが見つめていた。
その姿を見て、改めてイーアは感嘆する。
声は愛らしい少女のままだが、その変装は見事だ。
元々背も高く、細身な体格だったこともあり、しっかり成人済みの男性に見える。チルが選んだ襟の高い服のおかげで、喉仏の有無も誤魔化せそうだ。
疑っていたわけではないが、チルの変装能力には舌を巻く。もちろんリアの演技力も大したもので、普段は楚々とした令嬢のリアが、今日は堂々とした貴族の青年だ。
「それにしても見事な変装だ」
イーアが改めてリアを観察しながら言うと、彼女は少し目を細めて笑う。笑い方ひとつ、なかなかの好青年ぶりである。
「チル様がお上手でした。それにわたくしのことも気遣ってくださり、お優しい方ですね」
イーアが驚いてリアを見返すと、彼女はそっと体を寄せる。
「『男のなりしてるやつに体触られるのいやだろうから』って、女性の姿で宿にいらっしゃいました。変装中も痛くないか苦しくないか心配してくださって」
それは意外だ。
今朝、アロイス雑貨店を出て行った時には男装のままだったのに、一体どこで着替えたのか。
「とても愛らしい方でしたね。殿下もチル様と一緒の時は、とても優しく微笑まれるんですもの。わたくし、びっくりしてしまいましたわ」
こっそりと言うリアの瞳には、隠しきれない好奇心の色がある。口調もいつものイーアを揶揄うものだ。
イーアにとって二つ年上の彼女は、子供の頃からそばに居る姉の存在に近い。実際、子育てに奮闘していた母を助けるため、彼女とその母親がイーアたち親子と一緒に暮らしていた時期もあったくらいだ。
「そうかな」
照れ隠しのように視線を逸らす。
「……というか、普段の私の顔が怖いと言うことかい?」
「そうですね。……今年に入ってからは、いつも思い悩んでいらっしゃるようでしたので」
リアは目を伏せる。
「まぁ……あまりにも色々ありすぎたからね」
ここ数ヶ月の混迷ぶりを思い出し、イーアは苦々しい表情を浮かべる。
「情けないけど、チルの顔を見た途端泣きそうになってしまった。私もまだまだ子供だ」
苦笑しながら小さな声で言うと、リアが嬉しそうに笑う。それはいつもの微笑みで、すっかり男装していることを忘れている。
「リア、悪いね付き合わせて」
「いいえ。……殿下」
リアが素早く、目配せする。そこでイーアは気がついた。
会場のあまり目立たない入り口に、男が立っている。歳の頃は四十くらいか。隣には美しく着飾った、男と同じ焦茶色の髪の娘が楽しそうに微笑んでいた。事前に確認している例の黒い噂のある男爵と、その娘だ。
隣でリアがひゅっと息を呑んだ。
その二人の後からアルが姿を見せる。三人は談笑しながら、会場を見回していた。
弾かれたように、リアは立ち上がる。
「待て、リア」
イーアは彼女の手を掴んだ。確かにここからは何を話しているか分からないが、アルは軍人だ。普通以上に感が鋭い。
「殿下……」
振り向いたリアの瞳が揺れる。その中に強い意志を感じて、イーアは手を離してしまった。
「リア!」
呼び止めようとその背中に手を伸ばした時、イーアの視線を遮るように数人の人間が近付いてきた。どうやら自分に挨拶をするつもりらしい。
内心ひどく焦りながらも、イーアは表情を取り繕う。今自分は公人なのだから。
先頭の男が口を開く。
「帝国の若き獅子にご挨拶申し上げます」
その声がざらりと、イーアの記憶の深く暗い場所を刺激した。
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