【終】 お前は俺の親友

 帝国がこの大陸の王族や貴族に義務として課している事の一つに、定期的な皇都への出向と、皇帝への謁見がある。

 各国の王侯貴族たちとの謁見は新年の祭りの際に行われる。更に王族の出席が義務とされているもう一つの祭りが、この収穫祭だった。


 その年二回の祭りのためだけに存在しているのが、この西の宮殿だ。巨大な湖に突き出すような港を備え、幾つもの建物が並ぶ巨大なこの宮殿の規模は、皇帝の住まいとされる本宮殿よりはるかに大きい。


 さらに、本宮殿より豪華なのではないかと思うほどの華美な装飾、巨大なホールや、空きなく整備された広大な庭園、そして参加者のための控室は300近くあると言う。もちろん、近年は貴族の数が減っているので、使われなくなった部屋も多い。


 イーアはその宮殿を早足で歩く。背後に側近のアルと護衛騎士を何人か連れていたが、その全員が正装だ。イーアはまだ慣れない全身黒の衣装に、漆黒のマント。ただし、胸元のタイに飾られた宝石は藍玉アクアマリン、この淡い水色がイーアの気持ちを鼓舞してくれている。


 慣れた宮殿の中で、皇族に充てがわれた中央宮へと足早に進む。道を行くものは慌てて端により、首を垂れる。イーアはいつものように、それを一瞥もしなかった。

 無表情で強面の皇子と噂されている事は知っている。だが、そんな事はどうでもういい。誰彼構わず愛想を振りまくような芸当は、下の弟に任せておけばいい。


 角を曲がり、目指す部屋の前に行く。兵士が扉を開け、一歩室内に踏み込んだイーアは思わず息を呑んだ。


「イーア!」

 ガラス張りの大きな窓の前に立つチルが、こちらの姿を見て、名を呼ぶ。

 癖のないまっすぐな金の髪は彼女の自前のものだ。艶やかな蜂蜜色に輝くそれをハーフアップに結えあげ、生花の飾りを付けている。

 ドレスは胸の下から緩やかに広がる菫色のエンパイアスタイル。痩せすぎのチルにはこれがいいと、ピアが気合を入れて選んでいたものだ。なるほど、確かに似合う。


 スカートや肩を隠す袖の部分は、柔らかい布地を幾重も重ねているのだろう。ふわりと女性らしい印象だ。


 開いたデコルテには繊細なレース模様のようなネックレスがある。同じくさざめくような細工のピアスとその両方に使われているのは、イーアの瞳の色の紫水晶。

 本当はジルの瞳をつけて欲しかったのだが、これにはアルもウドも時期尚早だと反対した。


 そしていつぞやの夜会の、人形のような顔ではなく、戸惑いを隠さないその顔。ピアや侍女たちの手でしっかりと施された化粧は、いつものチルとは全く違う印象を与えるのに、イーアを見上げる大きな藍玉アクアマリンの瞳は何も変わらない。


 下町の生意気な小僧だったチルが、見違えるほど見事な淑女になった。


「チル」

 ここで気の利いた言葉でも言えればいいものを。やはりそれが苦手なイーアは、ただ早足で彼女に近づく。


「うわぁ、俺変じゃないか? 大丈夫か?」

 いつもの口調で、今にも泣きそうな顔でそう言うのだから、イーアは吹き出したいのを必死に堪えて笑顔を作った。

 心の中で凝り固まっていた何かが、そっと解れていくような錯覚を覚える。


「大丈夫だ。すごく綺麗だよ」

 ようやく絞り出した言葉は、なんだかとても不恰好だ。

「本当だ。見違えたな」

 アルは不躾なほど上から下までチルを観察している。思わず、イーアは自分の影にチルを隠した。


「そりゃそうよぅ! 可愛いいチルのために、私頑張ったんだからぁ!」

 彼女の足元で、淡いクリーム色のドレス姿のまま、襷掛けをして身支度を手伝っていたであろうピアが言い切った。

「この会場で一番かわいいわぁ!」


「ピア、ありがとう」

 イーアはまだ戸惑っているチルの手を取りながら言う。

「チルもありがとう。こう言う事は、悪友にしか頼めないからね」

 イーアがにっこり微笑んで言うと、チルは真っ赤な顔でお、おうと言う。

(うん、可愛い)


 先月の末、イーアに引きずられる様に皇都に連れてこられたチルは、そこからウドの実家のノルデン王国タウンハウスでみっちり貴族令嬢としての所作を叩き込まれた。と言っても、基本はルッソに教えられていたチルは、あっという間に貴族令嬢として必要な事を身につけることができたが。

 もちろん、完璧な淑女の鑑オティーリアに比べるとまだまだが、今はこれで十分だろう。


 チルが考えた設定『放蕩息子のイーア』で遊びに行った時は、反抗するチルを宥めたり、『これが本当に悪友のする事なのか?』と疑問を持ち始めたチルを言いくるめたりするのも楽しかった。


(騙されたまま、お嫁さんになってくれないかな?)

 一瞬浮かんだ不埒な考えを、イーアは黙って飲み込む。


「これはこれは見違えましたね。チルさん、とても可愛らしいです」

 ちょうど入ってきたウドが、ぱちぱちとわざとらしく手を叩いた。


 その後に入室したリアも、頬を赤く染め、緑柱石エメラルドの瞳を大きく開いて輝かせている。

 リアはアルの瞳の色に合わせた深緑のドレスを着ていた。全体的に落ち着いた、上品な雰囲気で纏まっている。アルと年齢が離れている事を気にしている彼女の、精一杯の頑張りを見たような気がして、なんだか微笑ましい。

 無謀とも思われたリアの恋を応援し、アルとの婚約まで漕ぎ着けたイーアの苦労も、彼女の笑顔を見ているだけで報われたような気がする。


 そのリアの手を割れ物を扱うような繊細さで、アルが取った。

 そして彼らしく、にやっと笑う。

「オティーリア嬢はチルと同い年だからな。大変かと思うが、フォローよろしく頼む」

「もちろんです! もうばんばん頼ってくださいませ!」

 淑女らしからぬ口調はチルから移ったかもしれない。イーアは思わず声を出して笑った。


 イーアはびっくりして見上げるチルの手を引いて、窓際に行く。不思議そうな顔でついてくるチルを見下ろしながら、背後でわいわい騒ぐ4人に聞こえない声量で言った。


「チル、黙っていたけど、僕はこのゴルドメア帝国の第一皇子、エルネスト・ジル・ゴルドメアだ。今の正式な身分は公爵、名前はエルネスト・ジル・シュヴァルツエーデ。秘密にしていて、ごめんね」

 チルは真っ直ぐにイーアを見つめた。まるで澄んだ湖のような、吸い込まれそうなその瞳から、イーアは目を離すことができない。


「うん。お前が何者でも、お前は俺の親友イーアだ」

 チルははっきり言う。

「だから、お前が行く場所、俺はついていくぜ」

 それは輝くような笑顔だった。


 やっぱり騙したまま奥さんにしてしまおうかな。

 イーアはもう一度、心の中で葛藤した。


「じゃあ、準備完了ねぇ!」

 ピアの声に振り向くと、アルとリア、ウドとピアがそれぞれ、手を組んで二人を待っている。

 イーアはチルの足幅を考えながら歩き出した。


「さて、ここでおさらいしましょう」

 ウドがチルを見てにっこり笑う。不健康そうな見た目のくせに、地顔が笑顔のこの男は、今はチルの兄だ。チルは一応ノルデン国王家の養女という事になっている。

「はい」

 口調を切り替えたチルが、真面目な顔でウドを見ている。


「あなたのお名前は?」


 ウドの質問にチルがどんな名前を名乗るか、何も聞いていなかったなとイーアは思う。

 というか、ウドはあえてそれを自分に知らせなかったのでは……? そんな疑問がイーアの脳裏を掠めたその時、


「えっと、本名を名乗るんだよな。えっと……

 ノルデン王国第三王女、ツェツィーリア・ノルデンと申します」

 チルは慌てて、イーアから手を離し、そして見事な淑女の礼をした。ウドは満足そうに拍手をする。


「は……?」

 イーアが呆然とチルを見ているが、ウドはそんなこと知った事じゃないとでも言わんばかりに、にっこりと微笑む。


「上出来です。そして男言葉もしばらく封印ですよ? では今日は公爵閣下のために、どうぞ宜しくお願いします」

「おう!」

 いかにも楽しくて仕方ないというウドと、真剣に頷くチル以外の三人は微妙な顔でイーアを見ている。

 アルは『あちゃー』と小さく言うし、リアも気遣わしげな目線をイーアに投げて寄越す。ピアだけが無言でウドの靴を思いっきり踏んだ。


 驚いたチルがこちらを振り返り、目の据わったイーアを見てぎょっとする。

「できたら、もっと違う場面で知りたかったな」

 イーアが額に手を当てて言うと、何も分かっていないチルは自分が何か間違えたのかと、勘違いをして慌てた。


 そんな彼女を安心させるため、イーアはにっこりと微笑みかけてから、ウドをひと睨みした。

 睨まれた方は涼しい顔で、微笑んでいる。

 ウドはどうやらイーアに対して思うところがあるらしいのだが、こちらは全く心当たりがない。


 まぁ、仕方ない。この面子が、今のイーアの仲間なのだ。

 イーアは気持ちを切り替えて、真っ直ぐ祝祭の会場へと体を向ける。

「さあ、行こうか」

 しっかり答える五つの声を誇らしい気持ちで聴きながら、イーアは歩き出した。

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