第3話 おしゃべりな黒猫リン
(俺は本当に、こいつと会いたかったんだ)
そう思ったのは、わずか数十分前。
今、食堂に居るチルとイーアの間には、微妙な空気が流れている。
「いい加減に機嫌直せ」
キッチンのテーブルの上で突っ伏すイーアの頭を軽く拳を当てて、チルが言った。
だが、イーアは返事をしない。
「悪いって、ちょっと
イーアは先程入れたコーヒーにも、好物のクッキーにも口をつけていない。
つまらないなと思いながら、チルはその頭を軽く叩いてみる。ふわりと柔らかい金髪が指に絡んでくすぐったいが、イーアは一向に反応しなかった。
(そもそも、何でこんなに拗ねるかなぁ)
チルは自分のカップを覗き込んで、息を吐く。
一年ぶりに会ったイーアは、去年よりずっと大人になっていた。そんなイーアが、ピアの胸に興味を示すのも、仕方ないといえば仕方ない。
それを
ーーー実はそこまで見ていないが、チルの中では食い付かんばかりに凝視したことになっている。
(胸がデカけりゃそれでいいのか)
確かに、それは見事な胸だったけども。考えれば考えるほど、チルはむかむかしてくる。
第一、こっちだって文句を言いたいのを我慢しているのだ。
イーアは本来なら、銀の月の1週目にはこちらに着くと言っていた。それが伸びて、遅くなるという詫び状が届いたのが一週間前、今日は銀の月の15日だ。せっかく買ったイーア好物のクッキーも、もうだいぶ日が経ってしまった。
(まずは遅くなってすまないとかさ)
余計腹が立って、チルはイーアの頭を激しくかき混ぜる。
やはりイーアは微動だにしない。
(って、なんで俺は腹が立ってるんだ?)
口元にカップを持って行ったまま、チルはぴたりと動きを止めた。
そもそも、イーアが何をどう見ようがチルには関係ない。
まぁ『蒼眼の鷹』の中で、イーアのお守りを任されている立場としては関係ないとは言い切れないが、少なくとも今は無関係でいいはずなのだが。
思考が停止し、手の動きも止まった、その時。
「やーね。墓場の真ん中でじめじめして!」
突然、鈴の音のような声がした。
驚いてチルが顔を上げると、いつの間にキッチンに入り込んだのか、テーブルのはしに一匹の黒猫がちょこんと座っている。
「は?」
チルは一瞬猫に気を取られたものの、すぐに室内を見渡す。先程の声の主を探すが、この場所にいるのはイーアと自分、そしてこの猫の気配だけしかない。
チルは目の前の黒猫をまじまじと見た。漆黒の毛並みはところどころ光を弾いて白く光っている。琥珀色の虹彩と、キュッと絞られた瞳孔がいかにも猫らしいが、その目は好奇心にキラキラ輝いていた。
(普通の猫じゃないな)
まぁ、イーアと知り合ってから、それまで知識でしか知らなかった精霊や魔法を体感した。予想外のことがあっても驚かないが、それでもここにはイーアがいる。
何かあってからではまずい。
チルが少し身構えた時、猫はいかにも物知り顔で喋り出した。
「まあ、しょうがないわよね。イーアはまだお子様だし、童て」
「黙れ」
死んだように脱力していたイーアが、黒猫の頭を押さえて黙らせた。
一瞬呆然としたが、猫の言いたいことを分かってしまったチルは苦笑するしかない。
だが猫の方は、大きなイーアの手に押さえつけられては堪らないだろう。
「お前、乱暴だぞ」
とりあえず救出しようとチルが手を伸ばすより早く、ふるんと猫が体を振って、その手から抜け出した。そして器用にぺーっと舌を出す。
イーアは少し顔を上げて、その猫を悔しそうに見返していた。
「そうよー乱暴な男は嫌われるんだから!
ね、あなたがチルよね。チルさんよね!」
とん、と猫がテーブルを蹴り、飛ぶ。
すたっとチルの目の前に降りたち、じっとその顔を覗き込む。嬉しそうに髭がひくひくと動いていた。
「お、おう。さん付けなんていらねーよ。猫さん」
幽霊が見れ、子供の頃からそれなりに普通じゃない経験をしてきたチルでも、流石に喋る猫は初めてだ。
それでも、どうやらイーアと顔見知りらしいと分かったので、幾分か警戒は解いた。その猫が嬉しそうに自分の名前を呼ぶので、チルは首を傾げる。
「じゃあ、チルね! 私の名前はリンよ! よろしくねチル!」
そう言いながら、嬉しそうにチルの頬に額を寄せる。
チルは今まで猫を飼った事がない。動物に触れることも滅多にない。猫に擦り寄られる、という初めての経験に、さすがに緊張する。
「お、おう。って君はどこの子?」
流石にイーアの飼い猫ってわけではなさそうだが。嬉しそうな猫におそるおそる触れながら、チルは助けを求めるようにイーアを見る。
イーアは拗ねたようにそっぽを向いている。どうやらまだご機嫌斜めなようだ。
「えーと、あたしはね。チルのお話を聞いて、どうしても会いたくなって、イーアにここまで運んでもらったのよ!」
説明になっていない。
「そうしたらやっぱりこの魂の色! 間違いないわ!」
チルは苦笑いした。初めて触る猫は可愛いが、流石にいろいろ不明すぎる。
「リンは俺のお師匠のパートナーだ」
困るチルを見かねたのか、イーアがこぼすように話した。
「パートナー?」
イーアの師匠とは『黒翼の魔女』と呼ばれる伝説級の人物だ。チルはイーアから教わるまで、実在していることも知らなかったが、はたして そのパートナーとは。
「使い魔みたいなものよ!」
それに答えたのはリンだった。琥珀色の瞳を大きく開いて、真っ直ぐにチルを見ている。
そしてそっと、首を傾げた。
「ね、チル。驚かないで聞いてほしいのだけど……わたしね、昔人間だったの」
猫の口から出ているとは思えないほど、明瞭な話し方でリンがそう言った。
「はぁ」
「でね、人間の頃の私には子供がいてね。あなたはその子の遠い子孫なの!」
「はぁ」
驚く以前に、あまりにも突飛すぎて理解できない。そのチルの態度がご不満だったのか、リンがふぎゃっと叫んだ。
「遠い遠いおばあにゃんと孫むにゅめの再会にゃのよ! もうにょっと喜んで!」
あまりの衝撃だったのか、途中からニャーニャーと猫の鳴き声になった。器用に前足を上げてチルの胸元に手をかけて、そのままにゃあにゃあ言っている。
「孫娘……」
ということは、女だとバレているのか。
先程魂の色とか言っていたが、こういう人外のものにはやはり変装は意味がないらしい。
「俺、そもそも家族とかいないからさ」
柔らかいその背中に触れてみると、嬉しそうに毛並みがぴぴぴと波打つ。
リンは鳴くのをやめ、そっとチルの胸元に擦り寄った。びっくりするくらい温かい体に、チルは言葉を失う。
他人の身体の温もりには慣れていない。その相手が猫でも、命のある温かさに触れるのは勇気が必要だ。
「……ごめんなさい。わたしたちも、あなたの存在に気がついていなかったのよ」
そのままぺったりとくっつくリンを、引き離すことも出来ずチルは不器用な手つきでそっと撫でる。リンの体から猫独特の何かを転がすような音がした。
「でも、あなたの魂はとってもあったかい。きっと、私の旦那様のチカラが宿っているわ」
そう言われてもどうしていいかわからず、チルは困ってイーアを見る。
まだ拗ねているのかと思ったが、イーアは頬杖をついてこちらを見ていた。しかも何故か、蕩けるような笑顔でいるのはなぜなのか。
「何だよ」
「なんでも」
その言い方が、なんだか一歩先に進まれたような気がして悔しい。
だがやっと、イーアが帰ってきてくれたような気がして、チルはちょっと嬉しかった。
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