第1話 「ただいま」

 大通りからアロイス雑貨店へと向かう小道は、相変わらず高い塀に囲まれている。


 そこに感慨深い気持ちで立ちながら、イーアは息を吐く。

 最初に来た時にはこの小道のあまりの不気味さに怯えたイーアだったが、流石に3年目の今年は慣れてしまった。路地を滑る風が、イーアの短い金の髪を撫でるように吹いていく。


 この塀の向こうは300年以上も前の墓場だ。

 その時代の貴族の墓場は無駄に大きい石造りで、一族ごとに広い区画を陣取り、廟やら像やらごたごたとある。

 子孫が管理している墓場ならまだ良いが、その場合は郊外の墓地に移動していることが多い。この塀の向こうの墓場は、忘れ去られ誰にも見向きもされない、見捨てられた墓が並んでいるのだ。


 もちろん気味が悪いと思う。だけど今は、久々にこの路地に帰ってきた。それが嬉しい。

 この向こうには、イーアの友人のチルが居る。チルはなぜか男装をして、この国の諜報部隊『蒼眼の鷹』で働く女の子だ。その友人の顔を思い浮かべるだけで、イーアはなんだかふわふわとした気持ちになる。


 去年の夏、明日には皇都に出発せねばという日の真夜中、普段以上に元気なチルに連れられてこの塀の向こうで肝試しをさせられた。

 といっても墓場には特に嫌な気配はなく、むしろ幽霊の見えるチルの方が可哀想なくらい大変な目に遭っていたが。


 そんなチルに振り回されて寝不足のイーアが、翌日皇都へ向かう船の上で人生初の船酔いを起こしたのも含めて、良い記憶だ。


 初めて会った時以上に、去年は楽しく過ごせた。

 今年はどうだろう、と足を動かしながらイーアは思う。そんなことを考えているうちに、アロイス雑貨店の扉が見えてきた。

 路地の突き当たりに、突然現れた青い屋根の小さな建物に、イーアはふと笑みをこぼす。


 思わず言いたくなるのは、「ただいま」だ。

 だが、さすがにそれは気恥ずかしいので、イーアは口元を引き締めながらドアノブに手をかける。


 変わらない軋んだ音をたてる古びたドアの向こう側では、チルがカウンターに立っていた。


 暗い室内でも光を弾く、蜂蜜色の金髪。そして澄んだ湖のような、藍玉アクアマリンの瞳は驚いたように大きく開いて、そして嬉しそうに形を変えた。

 今日も少年のような姿だが、チルだ。暗い部屋の中でも、太陽のような眩しい気配を感じる。


「よう、イーア」

 目を細めて笑う。最初に会った時とはすごい違いだ、とイーアは心の中で苦笑した。


「チル、久しぶり」

 その笑顔が見れただけで、胸がいっぱいになる。きっと自分も笑顔になっているだろうと思うと、少し気恥ずかしい気もするが、イーアは自分のこの感情の意味を知っている。だから、隠したりはしない。


「変わりなかったか? みんな元気かな?」

 言いながら店に入ろうとして、イーアは硬直した。

 カウンターのそばに立つ、もう一人の人物の姿にその時ようやく気がついたのだ。


 女だった。

 肌の露出こそ少ないものの、豊満な胸を強調するようなドレスを身にまとい、漆黒の髪はまるで別の生き物のように艶やかに波打っている。蒼玉サファイアの瞳と、その下にある泣きぼくろが異様に色っぽい、妖艶な美女がひとり。

 そんな彼女がカウンターにしなだれかかっている様子は、この雑然とした店の中ではあまりにも不似合いだ。


「あらぁ、もう来ちゃったのぉ?」

 その女性は手に持つ煙管をくるりとひとまわしして、カウンターに置く。

 どうやら、チルと彼女は何か相談でもしていたらしい。手元に書類のようなものが置いてあった。


「やだぁ、聞いてたよりずっと良い男じゃないのぉ!」

 彼女はそう言いながら、ぱあっと顔を輝かせて、イーアを見る。


「は?」

 硬直したまま、イーアは目の前の女を見た。その艶っぽい唇と、何より主張の激しい胸を。

 その胸がぐいっと迫り、イーアは思わず一歩後退む。


「姐さん、いつからがきんちょ相手にするようになったの?」

 チルは興味なさそうに手元の紙束を弄っている。


「がきんちょって失礼よぉ、チルぅ。素敵な殿方じゃない。ねえ、お名前はなんておっしゃったかしらぁ?」

 女はますますイーアに迫る。さらに一歩引いたイーアの背中に、扉が当たった。


「ねーさん、怯えられてるじゃん」

「あらぁ、そんなことないわよねぇ? わたくしの名前はピアと申します。チルやルッソのお仲間、といえばわかるかしらぁ?」

「……とりあえず、少し離れてくれないか?」


 イーアがようやく言うと、彼女は少し唇を尖らせて数歩下がる。服装に似合あわない、少し幼い仕草だ。

 名前が出たルッソも『蒼眼の鷹』の一人なので、きっとおそらくこの女性もそうなのだろう。

 ルッソの名前を聞いただけで、イーアは眉間に皺を寄せた。通常は男性の姿で居るルッソが、昨年突然女装しイーアを仰天させた事件は、一年たった今でも忘れられないほどの衝撃だった。


「イーアと呼んでくれ。チルの友人だ。今年も世話になる」

 前半は目の前の女に、後半はチルに言ったつもりだったが、カウンターの彼女は呆れたような目でこちらを見て返事もない。

 さっきまで笑顔だったのにと、チルの名前を呼ぼうとしたとたん、ぐいっとピアが再びイーアに迫る。


「まぁ! わたくしもこの夏、この店におりますので、たびたびお会いすることになると思いますわぁ!」

「……店?」

「今ルッソ忙しいからなー。お前がいる間、姐さんが店番やってくれるんだよ」

 イーアの疑問には、チルが答えた。


「アロイスは?」

 確かこの店の店主は彼だったはずだ。

「アロイスはねぇ、西方に行ってるの。あちらは今ちょっとアレでしょう? なので、偵察を兼ねて買い付けですってぇ」

「……偵察、買い付け」

 それは部外者に言っていいものなのだろうか。だが、実のところイーアも西方に関わる問題を抱えている。もしアロイスと顔を合わせることができれば、何か情報を得られるだろうか。

「そうなのか」


「ええ、ですからお会いする機会もあると思いますわぁ! どうぞよろしくお願いいたしますねぇ」

 ピアはそう言うと、にっこりと笑う。その笑顔はやはり、この服装に合わない人懐っこいものだ。


「姐さん、そんな愛想振り撒いてたらウドに叱られっぞ?」

「はぁ!? なんでアイツの名前が出るのよぅ!」

 よほど親しい間柄なのか、二人はぽんぽんと言い合う。


「とりあえずわたくしは帰るわぁ。明後日は朝から来るから、よろしくねぇ」

 少し間伸びする口調で、ピアは言う。おう帰れ帰れとチルは追い払うように手を払い、それにべぇっと真っ赤な舌を出してピアが応える。

 そしてイーアにはにっこりと微笑み軽く手を振りながら、軽い足取りで店を出て行った。


「……なんだかすごい人だな」

 思わず、ぽつりと感想が溢れると、ぶふぉっとカウンターの方から変な音がした。見るとチルがにやにやと笑っている。

「チル?」

「あー……お前が健全なオトコノコに育ってて、よかったわー」

 ひひっと笑いながら言うので、イーアはさあっと全身の血が引いていくのを感じた。

 どうやら、先程ラウラの胸をしっかり見てしまった事に、チルは気がついていたらしい。

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