君をめぐる幻想奇譚 ---Phantom Mirror Ⅱ---
ひかり
【序】ジルの瞳
男はふと、妙な違和感を覚えて足を止めた。
ここは小さな人工湖の隣にある広間。
周囲を大公家所有の林に囲まれており、静かで訪れる人も少ない、普段は恋人たちに人気の場所だった。
ここより林の奥には、はるか古代から存在するという神殿がある。そして今日はその門が開かれ、神殿の奥にあるという女神像が公開される『女神の祝祭日』だ。
その女神像を一目拝もうとやってきた人々で広場は混み合い、さらにその観光客を目当てに広場には出店が並んでいる。
帝国ではここ数年内乱が続いていたが、この夏ようやく皇帝が王座に復帰し、そのため祭りも一層賑やかだ。すでに夕刻と言ってもいい時間だが、あちこちに焚かれた篝火が広場をいつもと違う活気に包み、歩く人々の表情も明るい。
出店はどれも簡単なテントなどで作られた仮設の物だが、人々の多くが足を止めて、買い物をしたり出店で買い食いをしたりしている。
だが、違和感はそこではない。
獣的といってもいい感覚を研ぎ澄まし、男は周囲を見回し、そして苦々しい気持ちになった。
幸福な人々を見ると、気分が悪くなる。
こいつらは考えもしないのだ。自分達の平穏に生きているその下で、男のようなものがどれほど身を粉にして働いているか。男と目が合った子供が一人、泣き出しそうな顔で母親らしき女にしがみつく。なんて失礼な子供だと、男は唾を吐き捨てた。
だが今、逃してはいけないチャンスが近くにある。彼はさらに慎重に周囲を窺い見、そしてその後ろ姿を見つけた。
子供が一人、賑わう広間から離れ、林の中に彷徨うかのように進んでいく。
まだ明るいとはいえ、もう日は傾きはじめている。じきに暗くなるだろう。それなのにこの賑わいから背を向けて、暗い場所へと向かっていく様は異様だ。
こういうものは何かある。
男は自分の勘に従って、その子供を追った。
子供はふらふらと歩いている。質素なワンピースを着ているので、どうやら女のようだ。その裾から覗く脚は酷く細い。
近付くにつれ男はぎょっとした。
少女に間違いないが、この娘は子供を抱えていた。小さい肩ごしに見える子供の顔はすっかり寝入っているようだが、顔色は良い。午後の傾いた日の光を受けて、金の髪が美しく煌めいている。
娘の髪と色が違うが、姉と弟か妹だろうか。
その時、娘が足元の木の根に躓いた。慌てて木の幹を掴み転倒を避けたが、そのままその場に蹲ってしまう。
男はこの機を逃すまいと、娘の元に走りよった。
「大丈夫か」
声をかけながら、その肩に触れる。
びっくりするほど細い肩だった。
娘が驚いたように大きく体を震わせた。そして、恐る恐るというふうに男を見上げる。
男は素早く娘を観察し、そして再び目を剥いた。
赤茶色の髪に、紅色の瞳。目の色は少々珍しいが、どこにでもいるような娘だった。ひどく痩せているが、その瞳は生気に満ちてきらきらと輝いている。うっかり、美しいと思ってしまった。
そして何より男が注視したのは、その腹だった。妊娠している。臨月が近いのかもしれない。
衝撃を受けて起きたのか、腕に抱いていた子供が目を開いた。見事な紫水晶の瞳が怯えたような色を滲ませて、男を見上げている。娘の方は凡庸な顔つきだが、子供の方は違った。
幼いが、よく整った目鼻立ちで、どことなく高貴な雰囲気もある。もしかしたら貴族の血を引いているかもしれない。
「だあれ?」
娘が少し稚い口調で問い返す。
男はその声を聞いて我にかえった。そして得意の笑顔を顔面に浮かべ、少女に猫撫で声で話しかける。
「お嬢ちゃんがふらふら歩いているのが見えたからね。大丈夫かい?」
娘はきょとんとして男を見上げ、それから首を傾げた。
「もう、お金、なくなっちゃったから、どうしようかなって思っていたの」
娘の話し方は辿々しい。少し知能に問題があるか、外国のものか。
「そうか、誰かと一緒に来たのかい?」
男の問いかけに、娘は首を振る。
「わたしたち、ふたりだけ。エアネス、ママといっしょね」
そう言いながら抱きしめている子供に微笑みかける。
子供は怯えたような、警戒するような、そんな視線で男を見ていた。
ママということは、この娘はこの子供の母親なのだろうか。だが娘はどう見ても子供だ。
数年前の内乱でだいぶ規制が緩んだが、帝国の支配下の国家では婚姻は16歳以上と定められ、それ以下の年齢の子供に対する性交渉は罪に問われる。たとえどんな場末の娼館でも、この法を厳守しているはずだ。よほどの非合法な場所を除いて。
「じゃあ、どこかに行くつもりだったのかい? おじさんが送ってあげようか?」
娘は強く首を振る。
「どこにもいくとこないの」
唇を尖らせて少し拗ねるような言い方をした。
男は想像を巡らせる。
と言うことは、この娘はどこぞの貴族にでも手を出されて、妊娠し捨てられたと言うことだろうか。
これはいい拾い物かもしれない。男は娘に気付かれないように、にやりと笑った。
男は娼館も営んでいる。
この娘はひどく痩せているが、それなりに食わせれば、美しいとはいかなくても可愛らしい見た目になりそうだ。身内も行く場所もないなら、子供を産み育てるために生きていく方法が必要だ。うまく言いくるめれば、男の店で客を取るようになるかもしれない。
そしてなにより、この子供だ。
泣きもせず、ただじっと母親にしがみついている。その目に宿るのは、幼いながらも強い意志の光だ。
こういう子供は使える。
彼は大公国のために、間諜や密偵、暗殺などを行う組織の長だ。そしてその仕事に、意外と子供は使えるのだ。
最近もそのつもりで手に入れた子供がいたが、そいつは思った以上に泣き笑う、感情の豊かな子供だった。そういう子供はこの仕事に向いていない。散々躾けたが変わらず、しかもこの躾が厳しいと上から苦言を呈された。面白くない。
昔育てた子供は良かった。あまりにも出来が良く、つい手酷いことをしてしまったが。
と、男は慌てて笑顔を浮かべる。つい考え込んでしまったが、せっかくの拾い物だ。気持ちよく店に連れ帰りたい。
「これから暗くなる。金がないなら宿には泊まれんだろう。よかったら俺の店に来るかい?」
男は猫撫で声で娘を誘う。
すると娘は、ぱっと顔を上げて男を見つめた。その瞳が期待に輝いている。
「いいのですか? ナディはお金持っていないですが、いいのでしょうか?」
まるで警戒心がない。まるで誰にでも懐く犬じゃないか。
男は酷薄な笑いを隠しながら、娘に手を差し伸べる。
「ああ、もちろんさ。困っている人を見捨ててはおけないだろう?」
娘が男の手に捕まろうとした時、小さな手がその裾を掴んだ。弾かれたように娘がその腕の中の息子を見る。
「エアネス?」
子供は何も喋らず、ただ首を振る。
なるほど。
どうやらこの子供の方が勘が鋭いらしい。
男はますます満足する。やはり、欲しい。
「大丈夫だよ、心配しなくていい」
男がそう言いながら、娘の手を掴む。
娘は少し困惑したように、男と息子の顔を交互に見た。子供は泣きそうな目で、それでも母親の服を掴む手を離さない。
「ごめんなさい、わたしたち大丈夫です。手を離してください」
娘が男を見上げ、懇願するような弱々しい声で言う。男は内心舌打ちしながら、それでも笑顔を崩さない。
「でもどこにいくつもりなんだい? 流石に子連れで野宿は辛いよ?」
娘の心は軽い。言い募れば動くだろう。
男の心を読んだように、娘は強く手をひいた。
「大丈夫だからはなして」
そうして娘が暴れ、男は思わず力をこめてその胸ぐらを掴む。騒がれるのは面倒だ。多少乱暴な手を使ってでも、この子供を手に入れたい。
娘はすっかり怯え、体を硬くする。声も上げられず、大きな紅色の瞳が震えながら男を見上げていた。
(まるで動物みたいな反応だな)
娘の反応が男の嗜虐心を煽り、男は腕に力を込める。その時、粗末な上着が裂け、娘の痩せた胸元が露わになった。
その、色気のない浮き上がった鎖骨の上で何かが光る。
男は絶句し、それを凝視した。
これが何か、男は知っている。昔一度だけ、見たことがある。
先帝が晩年、一度大公国を訪れたときに。
この時、鋼の女帝と呼ばれた先帝は既に六十を過ぎていたが、その威厳のある姿は今でも鮮やかに思い出すことができる。
男は宮殿の衛士に扮して、彼女が進む回廊の隅に控えていた。
皇族にのみ着用を許される緋色のマントを身に纏い、豪奢なドレスで真っ直ぐに歩く、堂々たる女帝の首元に輝いていた宝石。女帝や、その孫たる現皇帝と同じ瞳の色の宝玉は、数代前の皇帝が皇后に贈ったと伝えられている皇帝家の至宝の一つだ。
「……ジルの瞳!」
この痩せ細った娘がどうしてこれを身につけているのか。
娘が男の手を振り払って立ち上がる。持っていた布袋が地面に落ちたが、それに構わず、そのまま蹌踉めきながら走り出した。
「待て!」
それを拾い追いかけようとする男を、娘の肩越しに小さな紫水晶の瞳が確かに捉えている。何かに撃たれたように、男は一瞬動きが遅くなった。
その隙に、娘は広場の方に走った。巡回していた警邏兵が駆け寄ってくるのが見え、男は舌打ちしながら、踵を返す。
ここで兵士たちに関わるのは、得策ではない。
しばらく走り、兵たちを巻いたことを確認して、男は息を吐く。
「クソッタレが!」
せっかく声をかけてやったのに、逃げるとは何と太々しい娘ではないか。そして、目の前にあった極上の獲物を手に入れられなかった。それが腑が煮え返るほど腹立たしい。
屋敷に帰ってから、彼の飼い慣らしている連中相手に八つ当たりでもしてやろう。
そこでふと、男はまだ布包を掴んだままだったことに気がついた。先程の娘が持っていた物は、どうやら木綿の手提げ袋だったらしい。中には何か硬いものが入っている。
「……鏡、か?」
だいぶ古い年代の物のようだが、小さな婦人用の手鏡だ。木彫りの枠はかなり劣化しているが、男はそれを見て息を呑んだ。
その鏡の背面に彫られているのは、見事な体躯の虎。何か岩のようなものに手をかけて、今にも空に躍り出しそうなその姿は、小さいながら見事な彫刻だった。
その虎の鋭い目に睨まれたような気がして、男は慌ててその鏡を袋に戻す。
そして改めて布包を小脇に抱え、足早に夕闇が濃くなる街へと歩き出した。
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