第七幕 秘めた想い


「ミルクセーキもあるんだよ。本もいろいろ置いてあるし、僕のパラダイスや。お嬢さんも遠慮しないでね」


「何もかも、初めてでビックリです」


 根本さんからの突然の話しかけに、薫は顔を赤らめながらも嬉しそうに応じた。彼は中年でありながら、誰もが誇りに思うような気さくで話し好きなおじさんだった。


 一方で、俺は好奇心を刺激されて店内をじっくりと見渡していた。カウンターには今どき珍しい年代物のレコードプレイヤーが置かれている。その上にはジャズやクラシックなどのドーナツ盤が並んでいた。


 書棚には小説やエッセイ、写真集、歴史書などの幅広い本が整然とそろっていた。聞くところ、根本さんが読んだ本も寄進しているそうだ。一瞬、僕が探している体内時計の本もあるかと思えてしまう。


「私、小日向薫です。先生、もうお嬢さんなんて呼ばないでください。ただの文学部一年の学生です。店名『ツインレイ』とはどのような意味なのでしょうか?」


 薫は改めて自分の名前を告げてから、根本さんを先生と呼び掛けて尋ねた。その目は好奇心であふれているように思えた。疑う必要がないほど、彼女もこの店を気に入ったのだろう。


「癒しの神さまの片割れってとこかな」


 根本さんからは意外な返事が戻ってきた。その一方で、薫の問いかけに教授の目は輝いた。きっと、若い女性と話すのが好きなのだろう。そんな彼の素直な姿に、思わず苦笑してしまった。


「なんて素敵なお名前でしょう……」


 彼女は感動したのか、甘く切ない声を漏らしながら、うなずいていた。しばらく、彼女と根本さんのやり取りが続いてゆく。


「気楽にしていいよ。マスターも優しいし、曲もリクエストできるからね」


「ありがとうございます。けど、せっかくですから、もっとお話を聞きたいです」


 薫はふだん使わない丁寧な言葉遣いで、礼儀正しく口にした。この店では希望の曲もかけてくれるらしい。マスターは俺のリクエストに快く応じてくれた。

 耳に届いてくる音楽は、大好きなジャズに変わっている。しばらく、素敵なメロディーに耳を傾けたくなる。俺たちがこんな店に入るなんて思ってもみなかった。


「無駄話の観客になったつもりで好きな物を頼んでね。お付き合いしたいけど、年寄りには冷や水や。僕はコーヒーで我慢するから」


「ありがとうございます。せっかくですからお話と一緒にご馳走になります」


 昼食もろくにとっていなかったことを思い出す。彼の温かい言葉に甘えて、お奨めのミルクセーキを頼み、軽食として海苔トーストとたまごサンドを薫とふたりでいただくことにした。


 けれど、根本さんがいくら良さそうな人でも、初めて話をする相手となる。まだ少し緊張が続いており、話題のチョイスに苦労していた。彼はそんな雰囲気を直ぐに感じ取ってくれたのか、自ら盛り上げ役になり話を進めてくれる。


「それじゃあ、ひとつ話をしようか『遠野物語』って知ってるかい? 随分と昔の本で知らないかもしれないが……」


「岩手県の民話集ですよね。かわいい座敷わらしが出てきます」


 さっそく、薫は興味深そうに身を乗り出して返事をしてきた。


「そうだね。あなたはさすがに文学部だ。魂の行方の章には臨死体験の内容も書かれてるよ。沢渡さんはどうかな?」


 俺は読んだことがなく黙ってしまう。岩手県と聞いて別世界を思い出していた。遠い昔に読んだ懐かしい「ホップの里」の物語である。自慢げに話す薫が憎らしくなっていた。


「薫は本当に調子がいいね……。僕は恥をかいてしまうよ。正直に言って、読んでいません。でも、幼い頃に幽体離脱じゃないけど、臨死体験はあります」


 ただ、俺は話題の矛先をかわせれば良いと思っていた。なのに、彼女ときたら、自分をからかってくる。


「勇希さんたら、またまた調子合わせて……本当なの? 初めて聞く話なんだけど」


 彼女はビックリしたように、また、肘で俺を突っついてきた。後ろから鉄砲を撃たれた気分となるが、嘘をついてはいなかった。


「おっ、突然の告白や。おふたりは仲良くて良いなあ。それはそうと、沢渡さんの大学の専攻は?」


 根本さんも臨死体験と聞いて、目をパチクリさせているのが分かる。残念ながら、あまり話したくないことまで聞かれていた。目の前にいる人は立派な医学博士だ。恥ずかしいので、本当は黙っていたかった。


「言い忘れておりすいません。先生と同じ医学を勉強しています。まだ、ひよ子にもならないタマゴですけど……」


「ほう、そう。医学生だったのか。縁深いお仲間が出来て嬉しいね。ましてこんな店で気づけるなんて奇遇だなあ」


「薫さんはどうかね?」


「私は歴史に縛られず、いつものんびりと元気に生きています。ただ、文学の世界には夢中です……」


 薫は嘘をつくのが得意ではなかった。その無邪気な笑顔の裏で、どんなに心が痛んでいても、見知らぬ人には白血病で辛い日々を送っていることを隠していた。時折、彼女の瞳に浮かぶ悲しみの影を見逃すことはできなかった。


 薫には初めて会った根本教授にそんなことを打ち明ける勇気はまだなかった。薫と教授には、信頼を築くための時間が必要だったのだろう。


「なら、小説の本題に入る前に、沢渡さんの話を先に聞かせてもらいたいね」


 俺は自分の恥ずかしい過去を話すのが嫌だった。でも、根本さんに誘われて記憶をさかのぼり、あの日のことを思い出していく。


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