第八幕 追憶の森


 遥か彼方の遠い過去を振り返ると、道すがら死にかけたことが何度かある。


 あの出来事は、まだ小学生の低学年の頃だった。実に不可思議で、後々まで恐ろしいトラウマとなった。


 冬の寒い日、サッカーの自主練習から疲れて帰り、宿題だけ済ませて夕食を終えると、すぐに自分の部屋へこもった。


「勇希、早く寝なさい。起きられんよ」


 いつもの通り、母親の騒がしくて疎ましい声が届く。


 ────夜中に目が覚めると、近くの布団から黒い煙がもうもうと立ち上り、あと少しで部屋の中に火の手が回りそうだった。


 長い黒髪を振り乱しながら、母親がバケツで一生懸命布団に水をかけているのを覚えている。


 いつの間にか寝落ちしている間に、つけっぱなしのストーブが布団のそばに倒れていたらしい。記憶はおぼろげながら、いくつかの光景が浮かんでくる。


 天使の羽や美しい蝶が舞い降りる光に満ちたお花畑のような美しい世界なんか現れてこない。すべては嘘だ。目の前には、どんよりとした雲が漂い、自分の魂がどこか遠いところへ散りかけている。


 突然、目の前に現れた白い蝶が、涙雨の中、傘を差す自分の胸にとまり、ぴたりと羽を閉じてしまう。まるで悲しい予兆のように、その少女の羽から綿毛が風に乗って離れ、焼け焦げた醜い蛾のように羽の色を変えていく。


 川べりを歩いていると、あちこちの水たまりにうつろな波紋が目を引く。川の水は水草や藻が生い茂り、深い褐色と複雑な色合いを帯びている。その中に蝶が止まる木の影が映り込み、水面に独特な色彩のハレーションを生み出して、何とも言えない美しい情景を感じる。



 醜い蝶は命のかすかな残り火を燃やすように、サイレンの音が鳴り響く中、自分と一緒に白い建物へ吸い込まれていく。全身に稲妻のようなものが走り、背中や足が熱くなり、焼け付くような痛みに耐えた。


 あのとき、俺は一度死んだようにぐったりと倒れていた気がする。いや、本当に死んでいても不思議ではなかった。すぐ近くには無言の男の姿が見えてくる。それは父さんの見たことのない真剣な顔だ。


 父親は小児科の医者だから、僕を見捨てないでくれる。俺の終焉のときを覚悟していたのかもしれない。


 けれど、大勢の医者が慌ただしく動き回る恐ろしい部屋に疾風のごとく運ばれ、目の前の景色は変わっていく。まばゆいばかりの光に包まれ、無機質な機械に取り囲まれてしまう。


 蝶は俺の胸のうちで濡れた羽を小刻みに震わせ、涙をこぼすようにもがいていた。白衣を着た医者が両親に何か伝えている。


「命が危ないから直ぐに手術が……」


「足を切っても命だけは助けてください」


 おぼろげながら、ひとりの女性が医師にすがりつき泣いているのが見えた。あれから、何日寝たままだったのだろうか。


 目を閉じると、蝶は俺の胸中で最後の力を振りしぼって、羽を覆う微小な細片を自ら剥ぎ取り、「そっちに行ってはだめ。早く戻って」という声を残していった。


 飛べなくなった少女は羽をいたわりながら、遠くにお花畑が見える青白く光る空洞に吸い込まれていくような気がした。


 思わず、彼女との大切な糸が切れた気持ちになり、傷ついた蝶を大きな声で何度も呼び戻した。でも、あの美しい姿は舞い戻ることなく、二度と見ることはなかった。


 後から聞けば、三日間も生死の境をさまよっていたらしい。


 しばらくして窓から柔らかな光が届き、疑う余地もなく「勇希」と呼ぶ声で目を覚ますと、両親がベッドサイドに寄り添っていた。


「助かって良かったなあ……」


 涙を浮かべて、そう叫んでいた。もちろん、すべてが砂時計のように消えてしまう夢幻のひとときに起きたことだったのかもしれない。


「先生が治してくれるから泣かないの」


 俺は自分の不始末で重傷を負った。病院に運ばれたとき、意識はほとんどなかったが、ナースのお姉さんが優しい言葉で励ましてくれ、しょっちゅう体温を測りながら声をかけ続けてくれていた。彼女の声は、暗闇の中で唯一の光のように感じられた。



 やがて目を覚ましたが、全身に巻かれた包帯の姿を見て驚き、腰を抜かしてしまった。あまりの衝撃で、自分に怒ることさえ忘れていた。両親はひと言も文句を言わなかったが、皆の支えがあり、俺は命を取り留めた。


 しばらく学校には行けなかったが、この出来事をきっかけに、将来医者になろうと心に決めていた。ナースのお姉さんのように、人々の苦しみを和らげることができる人になりたかった。俺は、自分の運命に負けないことを誓ったのだ。


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