第九幕 命をつむぐ時計


「すごい壮絶な体験だったなあ……。それは運命の巡り合わせかもしれん。でも、命あっての物種だ」


 根本さんは、俺のとりとめもない昔話にじっと耳を傾けてくれたらしい。ふと不思議な感情がこみ上げてくる。彼とは初めて会った気がしなくなる。なぜかしら、実の父親みたいに思えてしまう。


 大学進学の際、「遠くの親戚より近くの他人」を大切にしろと、祖父から注意されたことがある。まさに、今の心境はそれに似ているとさえ思えていた。


 逆にいえば、初めて言葉を交わした運命の人となって、何でも言い合ってしまう可能性が潜んでいるかもしれない。父親に甘えてしまう反抗期みたいなもの。そこだけが、心配であった。


「はい、やけどの跡は消えたけど、心に傷は残しちゃいました」


 足には傷跡が残っていたが、もう痛くはない。少しだけ、ふざけて答えていた。


「では、本題の話に移ろう。小説の舞台は遠野物語の故郷にほど近い十和里山とわりやまや」


「待ってました。ところで、舞台なんて、本当にあるんですか?」


 遠慮せずに彼の世界へ入り込んだ。


「水芭蕉の里もあるんだよ」


 作品には、東北の春の風物詩となる、水芭蕉が咲き誇る「八幡平」も描かれているらしい。遊歩道にある「鏡沼」は、新緑の季節を迎えて雪解けが始まると、青く透き通った水面が龍の目のような姿を現してくるという。


 一方では、トドマツの樹氷が春の日差しに消えていく時、霧に隠れた湿原が白いベールを脱ぎ捨てる。そうして、緑の葉と白いガクが少しずつ顔を覗かせて、水芭蕉の甘い香りが漂ってくるそうだ。


「なんか、すてきな小説の舞台ですね。水芭蕉の花は、花嫁さんが着る白無垢の角隠しに似ていませんか。わたし、羨ましくて大好きなんです」


 突然に薫が口を挟むと、根本さんは話を中断して彼女に目を向けた。俺も驚いて彼女の方を見た。根本さんと顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。どこまでも、憎めないロマンチックな女性で文句も言えなくなる。夢見がちな態度に、苦笑いしながらも愛おしくさえ思えていた。


「そうかもしれないけど、水芭蕉には毒があるんだよ」と根本さんは言って、彼女をからかった。ふたりのやりとりを聞いて、俺はもう一度苦笑いしていた。


 縄文時代の遺跡も残っているそうだ。彼は地図と写真を示してきて、作品の位置関係も含めて教えてくれる。


「ああ、ビラミッドの山とも呼ばれてる。昔から近くの山里には時計台の不思議な話が伝わってるのや。山からストーンサークルも眺められる。これは、嘘じゃない」


「へぇ、すごい。まるで漫画の魔界みたい」


 薫は目を大きく見開いて爛々とさせながら、俺たちの話に割り込んできた。彼の話は簡単には信じられないものばかりだが、彼女の気持ちも一概には否定できないように思えてしまう。ところが、根本さんは神妙な顔つきで言葉を続けてくる。


「そうなんだよ。ビラミッドは日本にもいくつかある。信じないだろうけどね。もっと、知りたかったらこの本に詳しいことが書かれてるから読んでみなさい」


 根本さんは書棚から『悠久のピラミッド』という本を持ってくるなり、開いて古墳みたいなイラストを見せてくれた。日本のピラミッドはエジプトのものとは異なり、三角形の山、いや、正確には丘みたいなものだった。


「医学以外に何でも知っていらっしゃる。どうしてですか?」


 同じ医学を志す者として、これだけは訊ねてみたかった。


「ああ、書斎は読みぱなしの雑学の本だらけや。けど、人生には本業以外に脳を活性化させるスパイスも必要だからね。今度は、うちに彼女と遊びに来なさい」


 根本さんは余談だと断りながら、自分の身の上話も口にしてくる。


 医学博士の教授なんてものは表向きなだけ。一皮剥けば、中身はセミの抜け殻、空蝉みたいなもの。形あるものはいつか壊れてしまう。地位や肩書きなど、つかの間の砂上の楼閣にすぎない。家族のつながりも同じようなもの。突然の放心した寂しそうな彼の顔に気づき、俺はビックリしていた。


「先生、本当ですか。でも、もっとたくさんの面白い話をゆっくり聞きたいです」


 薫も彼のお誘いが気に入ったのか、笑顔で頷いていた。


 一瞬、根本さんの社交辞令かと思ったが、彼女と彼の自宅にも一度行ってみたくなる。ところが、突如、小説の話は不思議な世界を飛び越えて、どんどん突拍子もなく根拠のないものに変わってゆく。


「脱線しないで、小説の世界を進めよう。時計台は霧に覆われて、普段は見えないのだ。しかも、ただの時計ではない」


 小説によると、時計は無償の愛を求める人のために、ピラミッドのあるカルダモンの丘に現れてくるそうだ。けっして、見返りを求めてはいけないという。


 なぜかしら、片想いの当事者はもちろんのこと、恋人や夫婦同士のケースでも姿を見せてくれないらしい。


 しかも、正月明けの1月11日、午前1時11分。年に一度、「1」が六つ横並びとなる儚いひととき。悠久の歴史からほんの一瞬だけ、神々が目覚めてカーンカーンと鐘を打ち鳴らし、幻想的な音色が四辺(あたり)に響き渡るそうだ。


「いくらなんでもまやかしでしょう」


 失礼だとは思いながら、彼に疑いのまなざしを向けて、口にしてしまう。


「その通り。僕も神など信じてこなかった。少なくともあの時までは、……」


「あの時って。でも、時計でないなら、何ですか?」


「……樹氷の神の化身だろう」


 根本さんは、一旦言葉を止めたがひとつずつ教えてくれる。


 それは、十和里山の村に古くから伝わる伝説のひとつだと言われていた。神は初夏になると八幡平の水芭蕉の里で癒され、冬になると十和里山の樹氷になるという。神の授ける時計に触れた者は、自分の命の残り火がわかるらしい。そして、そのネジを巻くことで、寿命を延ばしたり縮めたりできるそうだ。


 しかし、その時計は長い間、姿を消していた。誰もその存在を信じなくなった。それは、もはや空想の産物に過ぎないと思われていたらしい。


 だが、ある日、その姿が再び現れてくる。それは、ある郷土史家が偶然にも発見したものだった。彼女は時計の伝説に興味を持ち、研究し始めた。その不思議な秘密を解き明かそうとした。


 ところが、その時計は単なる機械ではなかった。それは、生きていた。それは、人の命に関わることを嫌い、人に触れられることを拒んだ。それは、人々が自分の力を使うことに恐怖した。


 それは、命をつむぐ時計だった。


 根本さんは、人間が追い詰められた際、災禍を振り払うため藁にもすがる想いになるだろうとも語った。


「ありえない。先生は医学者でしょう。科学そのものを否定なさるのですか?」


 好ましくないことだと、自らを諌めながら、少しずつ、けんか腰な口調となっていた。直ぐに熱くなる俺の悪いクセだ。


「いや、違う。でも、時計は実在するのだ」


「でも、小説の妄想でしょう……」


 二十一世紀をこの世の春として人々が謳歌している時代。どうして、そんなまやかしを信じてしまうのだろうか。聞けば聞くほど疑わしくなる。人の妄想を駆り立てるミステリアスな虚構の世界ならいざしらず、立派な医学者の説明とは思えず、呆れ果てて、それ以上の言葉にならなかった。


 しかし、根本さんからは真剣な表情がうかがえて、冗談とも思えない。これはいったいどういうことだろうか……。


 ここまできたら、偶然にも乗り合わせた船を頼りにして、彼が「命をつむぐ時計」を信じるようになった真相、きっかけだけはどうしても知りたくなっていた。


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