第十幕 元カノの存在
ツインレイの店内には壁掛け時計がなかった。アンティークな時計が似合うはずなのに、なぜ掛けられていないのだろう? しかし、今は根本さんの不思議で奇抜な物語に耳を傾けるのが先決だ。
「先生、早く続きを聞かせてください。どうしてそんなに『命をつむぐ時計』の下巻が欲しいんですか? ご家族と本はどう関係しているんですか?」
ミルクセーキをすすりながら、俺は根本さんに尋ねた。根本さんに尊敬の念で「先生」と呼びかけることが多くなっていた。きっと薫も同じ思いだったのだろう。彼は深呼吸してから話し始めた。
「そう慌てなさんな。この本は元カノが書いたものなんだ」
彼の言葉に、俺は胸が痛んだ。彼の知り合いとは、恋人だったのか。
「えっ、彼女の作品ですか?」
「そうだ。彼女は小説家を目指していたんだが、若くして亡くなった。この本は彼女の遺作なんだ。けど、続きがあるとは別れてから知ったんだよ」
根本さんの目には涙が浮かんでいる。彼女は遠野物語の研究家で、郷土史の学芸員でもあったらしい。
「それは大変でしたね。でも、続きがあるとどうして知ったんですか?」
薫が声をかける。俺も同情の言葉を探すが、見つからない。
「失踪する前に下巻を書いていたけど、途中で終わっていた。フリマで上巻だけを偶然見つけたんだ」
根本さんは本を開いて、中扉に「上巻」と書いてあることを見せてくれた。本編には文字と東北らしいイラストが入り交じっている。
「彼女の存在や本のことも、孫が難病だと分かるまで何十年も忘れていた。家内や娘にも一切話していない。男は元カノのことなど話さないものだ。この本には、宝物に巻き込まれる人々の運命や感情が描かれているんだ」
根本さんは熱心に説明してくれる。俺たちは興味深く聞いている。時計というテーマに惹かれると同時に、作者の想像力や独創的な世界観にも感心する。
「でもね、この本には秘密があるんだ。表紙に書かれているタイトルと、中身のタイトルが違うんだよ」
彼は表紙と中表紙のプロローグを指さして言う。表紙には「十和里山伝説」、中表紙には「命をつむぐ時計」と書かれている。
「どういうことですか? それに、彼女はなぜ亡くなったんですか?」
薫は彼に聞きづらいことまで口にする。
「これはね、死ぬ前にこの本を読んで欲しい人にだけ贈り物をしたかったんだ。だから、表紙と中身のタイトルをわざと変えて、読者を選んだんだよ」
根本さんは笑っているが、その笑顔の裏には疑う余地もなく怪しい雰囲気がある。
「読者を選ぶって……?」
「そう。僕は当時他にも好きな女性がいて、恋人を裏切っていた。彼女はこの本を読む人に、ひとつの問いかけをしたかったんだ」
「問いかけって、何ですか?」
「後々まで『十和里山伝説』を思い出してもらいたくて、愛の大切さを訴えかけたかったのかもしれない」
根本さんは俺と薫の顔を交互に見て、悲しげに言葉を漏らす。
「『十和里山伝説』って、本当は儚い愛の物語だったんですね」
薫は涙を浮かべて、そう口にする。
「ああ、これは神が持ち込んだ愛をつむぐための時計の伝説だよ。職人たちが一生懸命に破損したところを直したんだ」
「先生、でもご家族はお元気なんでしょう?」
薫が真剣な眼差しで訊ねる。
「なら、いいんだけどね。ひとつずつ、順を追って話そうや。さっき、時計の成り立ちのやり取りをしていただろう」
「はい。命をつむぐ時計は本当にあるんですか? どうやって動かしているのか、聞きたかったです。実際に現物をご覧になったんですか?」
薫は元カノのことを知りたがる様子だが、俺は話題を元に戻す。これ以上、彼の若い時のつらい過去を掘り下げるのは避けたい。
「そうやったな。せっかくだから、僕が小説の内容を必ずしも虚構とは思えなくなった理由も話してあげよう。時間は大丈夫か?」
「大丈夫です」
俺の言葉に薫も頷く。
根本さんは、小説の内容をページをひとつずつめくりながら、教えてくれた。「十和里山伝説」とは、日本の青森県や隣接する岩手県に伝わる神話だ。
それによると、アエスの神が日本に降臨した際、自分の大切な時計を十和里山にうっかり置き忘れてしまったのだという。その時計は太陽の動きに合わせて時を刻むもので、神の力が宿っていた。しかし、不幸にも時計の針が折れてしまい、その時点から動かなくなってしまったのだった。
神は地元の時計職人に修理を依頼する。彼らは一生懸命に時計を直そうとするが、どうしても直らない部分があった。それは、時計の針だ。針は神の力で動くもので、人間の手では触れられない。
職人たちは困り果てたが、一番若い職人が神から一本の金髪をもらい、勇気を出して針に触れた。すると、不思議なことに、止まっていたはずの針が彼の手に従って動き始めた。職人は驚いたが、喜んで神に時計を返した。神は動く時計を見て感激し、職人に尋ねた。
「あなたはどうして針に触れることができたのですか?」
職人は正直に答えた。
「時計を直すことができると信じていました。なぜなら、この命をつむぐ時計を直すことが自分の使命だと感じていたからです。だから、針に触れる勇気が出たのです」
神は職人の言葉に感動し、彼に勅言を下した。
「あなたは神の力を受け継いだ者であり、この時計を守る者として選ばれました。宝物として贈ります。しかし、この存在を秘密にしなければなりません。命をつむぐ時計は神秘的な力を持っており、悪用されると大変なことになります。この約束を守れる正直者だけに教えてあげてください」
職人は神の言葉に感謝し、時計を神が亡くなった後、墓の隣にもう一つ塚を造り、人目に触れないようにした。彼は職人として生き残ったが、村には独占欲が強い罪深き人々が多く、宝物を見せられる者はいなかった。それでも彼は諦めず、自分の子孫や愛弟子だけに時計伝説を残していった。
それが時代を越えて語り継がれる「十和里山伝説」だった。根本さんは、その伝説をページをめくりながら、真剣な眼差しで俺たちに教えてくれた。
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