第六幕 心の隠れ家
根本教授と共に歩みを進めると、彼の案内で一軒の喫茶店の前に立ち止まった。
目の前には『ツインレイ』という屋号の看板が掛かる喫茶店があり、昭和レトロなネオンサインが黄昏時の空に優しく光を放っていた。それは、都会の喧騒を忘れさせる静けさに溶け込む古いメロディのようだった。
喫茶店は、賑やかなバス通りから一本入った路地にひっそりと佇んでいた。何度も通り過ぎたはずのこの路地に、今まで気づかなかったのは不思議なことだった。まるで、この店だけが時を超えた秘密の場所であるかのように。
店内に足を踏み入れると、紅白のチェック柄のテーブルクロスが目を引く。昭和の家庭を彷彿とさせるような温かみがあり、木製の椅子とカウンターは、ゆったりとした時間が流れる空間を作り出していた。
奥からは白髪のマスターが優しい目で迎えてくれた。彼の「いらっしゃいませ」という声には、訪れる人々を家族のように迎える温かさが込められていた。
アルコールランプの灯りと、コーヒーサイホンから立ち上る甘い香りが店内を満たし、懐かしさを感じさせる。初めて訪れた店にもかかわらず、どこか心安らぐ場所のようだった。
白壁には手書きのメニュー札が並び、クリームソーダやプリンアラモード、ホットケーキ、海苔トーストなど、昭和の味が蘇るメニューが揃っていた。それぞれのメニューは、過去への敬意を表すかのように丁寧に描かれていた。
店内で流れるボサノバのリズムは、南国への旅を思わせる心地よさを持っていた。マスターの選曲は、昭和時代へのタイムスリップを演出していた。チェーン店のカフェでは決して味わえない、ひとときの安らぎを提供してくれた。
「この店に、よく来られるんですか?」
薫が店内を見回しながら尋ねた。
「ああ、しょっちゅうだよ」
根本さんは答えた。
教授は仕事で疲れた時、この隠れ家で癒され、本を読んで過ごすのだ。四十年以上の付き合いで、すっかり常連となっていた。
一見穏やかな紳士の教授だが、孤独を感じているのかもしれない。家族の有無は不明だが、彼の日常には小さな幸せを見つける旅があるようだった。
「僕にとって、ここは心の救済を得られる聖地のようなものだ」
根本さんはそう言うと、人生の苦楽をざっくばらんに語り始めた。
都会の喧騒に疲れた心を、一杯のコーヒーが静かに癒してくれる。この店は、僕と同じように心に傷を抱えた人々が集まる場所だ。教授は、人生の涙の後に七色の虹が見えると語った。彼は、人生を諦めなければ、何度でも生まれ変わることができると信じていた。
彼の話を聞き、少し重苦しい気持ちになったが、フリマで手に入れた小説や昔読んだ本にも、同じようなことが書かれていたのを思い出した。
「幸せはどこにあると思いますか?」
教授が俺たちに尋ねた。
「えっ、考えたことないです」
突然の問いかけに、薫は軽く首を振りながら答えた。
そして、彼女が「先に返事してよ」と言いたげに、俺の脇腹を軽く突っついた。それは彼女が困った時に出る、悪いクセだった。きっと、答えが見つからなかったのだろう。その様子を見て、根本さんは察してくれた。
「僕は一杯のコーヒーにあると思うんだ」
根本教授はそう言って、余韻を残した。幸せは特別な瞬間にあるのではなく、日常の中にひっそりと潜んでいる。大切なのは、その瞬間に気づくことだ。彼のコーヒーはいつもホットのブレンド。そこには「人生の酸いも甘いも」が詰まっている。
教授はコーヒーカップを手に取り、遠くを見つめた。その視線の先には、ただのブラックコーヒーではなく、人生のさまざまな断片が浮かび上がっていた。苦味、温もり、そして時には甘い余韻。それぞれのひと口が、教授の心に異なる色を塗り、日々の疲れをそっと癒していた。
「この店のコーヒーは、ただの飲み物じゃないんだ」と教授は言った。彼にとって、それは過去と現在をつなぐ架け橋であり、忘れかけていた記憶を呼び覚ます魔法のようなものだった。
俺は教授の言葉に耳を傾け、自分のカップを見つめ返した。そこには、ただのコーヒーではなく、新しい発見と、心の安らぎがあることに気づいた。
「へえ、そうなんですね」
薫が納得したかのように答えた。でも、俺にはまだ理解できなかった。
周囲を見回しても、掛け時計は見当たらない。代わりに、時間が止まったような雰囲気があり、小さな幸せを感じさせてくれる。柔らかなソファーに座ると、普段忘れがちな大切なものに気づく。ツインレイという店のポリシーは、ありきたりのものかもしれない。
でも、一杯のコーヒーの縁から、安らぎの時と出会える。そっと日常への旅立ちに「あまり無理せず頑張ろう」とエールを届けてくれる。ここではそんな毎日が繰り返されている気がする。この路地裏で半世紀以上営業している店は、昭和の香りが漂う空間で、俺にはこよなく魅力的に感じられた。
教授は窓の外が望めるお気に入りの席に座り、彼の視線の先にはいつもの街の景色が広がっていた。ほのかな光が店内に差し込み、彼の顔を柔らかく照らしていた。
「人生って、不思議だよね」と教授はぽつりと言った。
「どうしてですか?」と俺は尋ねた。
「見えない糸で繋がっているんだ。人と人との間にも、過去と未来との間にもね」と彼は微笑みながら答えた。
その言葉に、俺は何か大切なことに気づきかけたような気がした。コーヒーの香りが混じる心地よい空気の中で、教授の言葉が心に響いた。そして、薫もまた、何かを感じ取ったように、静かに微笑んでいた。
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