第五幕 夢幻の時計


「私もふたりの輪にも入れてよ」


 薫が、わざとらしく唇を突き出し、頬を膨らませながら、会話に飛び込んできた。その子どもっぽい態度が、俺には愛らしく映った。


 気がづけば、彼女は漫画のページを閉じ、現実の世界に戻り、俺たちのやりとりを聞いていたようだ。根本教授も、薫の可愛らしさに気づいたらしく、口元を緩めて彼女に声をかけた。


「おお、こんな美しいお嬢さんと一緒になれて光栄だよ。君たちは、とてもお似合いのカップルだね。よく見れば、彼女は……」


 彼は、なんと薫が細川ガラシャを連想させる美しさだと褒めてくれた。細川ガラシャといえば「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀の娘。謀反人の娘として苦難の日々を過ごし、心の支えとしてキリシタンになったと伝えられている。

 

「本当ですか? ありがとうございます」


 薫は一瞬、恥ずかしそうに顔を伏せたが、すぐに顔を上げて名前を告げ、根本教授に微笑みを返した。


「薫さんか、とても素敵な名前だね。僕は立ち話が苦手だから、コーヒーでも飲みながらにしないか?」


 教授は、薫をひと目で気に入ったようで、俺たちをカフェに誘った。その間に、薫は俺に向かって疑問を投げかけた。


「ガラシャって、どんな人だったの? 勇希、教えて」


 彼女の声は静かで、まるで秘密を共有するかのように俺の耳元で囁かれた。彼女の目は、歴史のベールを少しでも剥がして真実を知りたいという熱望で輝いていた。


「ガラシャはね、その美しさと知性、そして勇気で知られていたんだ。けど、運命は彼女に厳しかった……」


 俺は薫の目を見つめ、ガラシャの運命について静かに語り続けた。彼女の表情は、物語の悲劇に心を寄せるように、次第に陰りを帯びていった。


「それは……心が痛むほどの悲しい話ね」


 薫の声は震えていた。その目からは、同情の涙がこぼれ落ちそうだった。教授も俺たちの心の触れ合いに気づいていたのか、微笑んで、優しく言葉を投げかけてきた。


「勇希さんの言う通り、ガラシャの人生は悲劇的だった。だが、この本には、我々のような普通の人には見えない秘密が隠されているんだよ」


 根本教授は本を開き、俺たちに中のページを見せた。


「表紙のタイトルと中表紙の記述が違うのに気づいただろう。これは、この物語に隠された永遠の謎のひとつなんだ」


 教授の言葉どおり、表紙には「十和里山伝説『 紡ぎの時計 』」と記されていたが、中表紙を開くと「由紀子の想い『 見えない時計 』」と書かれていた。


「それはどういう意味ですか?」


 俺の問いかけに、薫もうなずいた。根本さんの顔には、遥か遠い昔の冒険を思い出すような、はにかんだ笑みが浮かんでいた。


「この本はね、実は知り合いが書いた作品なんだ。その作家は、若い頃に出会った一期一会の恋人だったんだよ」


 教授の声は、岩手県での旅先での遠い思い出を語るようで、俺たちもその情景を想像して、心が温かくなった。


「身内には言えないことも、他人だからこそ打ち明けられる。君たちと彼女は同じ年頃だったから、話してみたくなったんだよ」


 根本さんは、俺たちに向けて心を開いてくれた。彼は十和里山の伝説について、さらに語り始めた。それは、神秘的な力を持つ時計が、人の運命を織りなすという伝説だった。その話をする教授の目は、別世界を見つめるかのように輝いていた。


「その本の下巻を探しているんだ。知り合いの娘が白血病で、時間がないんだ」


 根本さんの声は震えていた。私は、彼の切実な願いに心を打たれた。


「でも、先生は本当にその伝説を信じているんですか?」


 俺の問いかけは、半ば疑念を含んでいた。しかし、教授の目には、科学者としての冷静さよりも、人の命を救うことへの熱い願いが溢れていた。


 俺は、教授に深い同情を感じた。薫も同じ白血病で苦しんでいるからだ。彼女を救うためなら、俺は何でもしたい。だが、俺はまだ医者にもなっていない。無力感に苛まれながらも、根本教授に協力したいと思った。彼の気持ちが痛いほど理解できたからだ。


「どうやってその下巻を探すんですか?」


 俺の問いかけに、根本さんは苦笑いを浮かべた。


「それが問題なんだ。上巻は、尻切れとんぼで終わっているんだよ」


「でも、下巻が見つからないんですよね?」


「ああ、そうだ。この本は上下巻で構成されている。下巻には、物語の核心が書かれているはずなんだ」


 根本教授は、どこかに下巻の本があると信じていた。俺も、どうにかして彼を助けたかった。


「作者に連絡してみましたか?」


「やってみたよ。でも、作者はもうこの世にいないんだ」


 根本さんの意外な言葉に俺は驚いた。彼は、少し遠い目をしていた。その声は、物語の中の登場人物のように、過去の出来事を思い出しているかのように響いていた。


「亡くなっているんですか?」


「ああ、その通りだ。早川由紀子は、この物語を娘に託して出版した後、突如として姿を消したんだ」


 俺は、突然の失踪について考え込んだ。なぜ、作者は自分の作品を世に送り出した後、姿を消したのだろうか? そして、その下巻はどこにあるのだろうか?


「そうですか……。先生、もっと喫茶店で教えてください」


 教授の話にはまだ謎が多くて、まだ語り尽くせない秘密がありそうだった。話が長引きそうなので、教授のお誘いに甘えることにした。彼の案内で公園近くの喫茶店、お勧めの隠れ家で聞くことにした。


 歩きながら、彼は自分の人生の話をしてくれた。彼は臨床医ではなく、未知の病気の原因を探求する医学博士だった。定年を過ぎても、大学からの依頼で研究を続けている。大学教授の医師としての仕事の傍ら、小説やエッセイの執筆も行っていた。話を聞くほどに、彼の多様な経歴に俺は魅了されていった。

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