第四幕 運命の古書

 太陽が柔らかな光で降り注ぐ夏の午後、爽やかな風がフリーマーケットのカラフルなテントを揺らしていた。会場の一角で、ぼんやりとした視線がふととある光景に止まった。


 表紙が擦り切れた古本を手に持ち、バンダナを巻いた店員に何やら話しかけるひとりの男が目に入ったのだ。


「すみません。この本の下巻を探しているんですけど……」


 その声の主は、シニアの男性だった。これまで何度もこのマーケットで彼の姿を見かけていたが、言葉を交わす機会は一度もなかった。白髪とひげが特徴的で、黒縁の丸いメガネをかけた彼は、デニムジャケットに白いTシャツ、そして黒のチノパンを合わせた粋な服装をしていた。


 彼の表情は真剣そのもので、店員に本の下巻を探してほしいと懇願している。彼にとってその本がいかに大切なものかが伝わってくる。俺は、その不思議なやり取りに引き寄せられるように、自然と足を止め、耳を澄ませていた。


「これですか? うちの本ですよ。栞が挟んであるから」


 彼女は男性から本を受け取り、タイトルを確認した。俺もそっと覗き込んだ。


「あっ、十和里山伝説とわりやまでんせつ『命をつむぐ時計』」


 俺は、思わず口に出してしまった。このところ、医学を目指す者として体内時計の仕組みに関心を寄せており、「時計」という言葉に反応したのだ。


 ところが、これまでは「十和里山」や「命を紡ぐ時計」という名称は聞いたことがなかった。その奇抜で風変わりな響きに、なぜか強く惹かれるものがあった。


「ご主人さん……。でも、これは古本屋歴が長くても知らないんですよね。出版社へお聞きになったらどうですか?」


 彼女も詳しくは分からなかったらしい。本業でやっているネット書店の案内チラシを渡しながら言った。俺よりいくつか年上の雰囲気を漂わせているが、仕事態度もていねいで実直そうに思えた。


「ああ……やってみたよ。もう廃業して連絡が取れないんだ」


 男性は落胆した様子で答えた。絶版の古書も探したが、見つからなかったそうだ。神保町や本郷、早稲田の町もすでに探し歩いたらしい。学生生活で古本屋巡りを趣味とする俺からすれば、彼が訪ねたところは有名どころばかりだった。


「そうですか……それは残念ですね」


 女性店員はすまなそうに頭まで垂れて謝っている。自分でも探してみようと言ったが、男性は「縁深い人が書いたものなんだ」と断ってしまった。


「ありがとう……。いや、どうしても諦められなくてね」


 しばらくすると、彼は気が変わったのか、自分の名刺を取り出して女性に渡した。「金額は問わないから」と言って、遠方の知り合いにも聞いてほしいと頼んでいた。俺は思わず息を呑んだ。


 男性の言葉から察すると、彼は相当裕福そうだった。それでも手元から離さなかった本の中身は何だろう。どうしてそんなに必死なのだろうか。よほどの理由がありそうだ。ますます不思議に思えた。


 かなり無理な依頼だとは感じたが、言葉遣いは丁寧である。しかも、彼の口調からは困っている様子がありありと感じられる。思わず、おせっかいと思いながらも、口を挟んでしまった。


「ごめんなさい。よかったら、詳しい話を聞かせてくれますか。力になれるかどうかは分かりませんが……」


 小説のタイトル「命を紡ぐ時計」は、その独特な響きが俺の心をとらえ、惹きつけてやまない。「時計」という言葉が、俺の感受性に深く響き渡る。「十和里山伝説『命をつむぐ時計』」がどんな物語を紡いでいるのか、さらに知りたくなった。


 お人好しの性格ですぐ鵜呑みにするのは相変わらずだったが、一緒に宝物のような本探しに付き合っても良いとすら思えていた。


「おお、明智光秀の心境か。山崎の戦いにかけがえのない援軍が現れたり。まるで天からの助っ人のようだな。どうしても、続きを読みたくてね」


 突然、彼から予想もつかない言葉がかけられた。なぜ、突如として現代から戦国時代に話が飛んでしまうのだろうか。しかし、困ったときにもこんな冗談を言える、心に余裕を持つ男性は羨ましい。


 一方で、その物憂げな表情からは、窮地に陥る寂しい狼、世の中から見捨てられた孤高の人のようにも思えてきた。彼は俺にも名刺を渡してくれた。


 男性は、根本康博(ねもとやすひろ)と名乗った。南里大学第一研究室の教授で、白血病の治療法を研究しているという。彼の名刺の裏には、参加する国際学会の名称も記されている。その名前は医学界では有名だというが、俺は知らなかった。

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