第十四幕 アルバム
「教授、ご招待ありがとうございます。立派なおうちですね。ビックリしましたよ」
取り急ぎ、丁寧な挨拶だけは済ました。俺の言葉は偽りではない。
しかし、どこか嘘っぽい響きに聞こえてしまう。いつしか、根本さんのことを教授と呼び変えていた。彼の風貌からして、その方がしっくりとくる。
「とんでもない。古いだけさ。もう直ぐ廃墟の家かもしれんな」
先代から引き継いだ家で、いつもは日の出とともに目覚め、日が沈むとともに眠りにつく。そんなゆったりとした時の流れる世界で日々過ごしているらしい。なぜか、昨夜から夢をずっと見ていたせいか、今朝は起きられなかったそうだ。
部屋の中は小綺麗に片付けられている。奥には大きな本棚がいくつも並んでおり、書物がぎっしりと詰め込まれていた。
このところ、流行り風邪のため研究室に顔を出さなくても、ネット活用のホームワークでやり取りしているという。
根本教授は俺たちに気を遣ってくれたのか、音楽をかけてくれる。パッヘルベルの「カノン」という曲らしい。
「こんな音楽は知らないだろう。けど、僕ら夫婦にとっては思い出深い曲なんだよ」
爽やかな風が流れる教会にひとりで立っているような清々しい、とても儚く美しいメロディーを聴いていると、今日の目的を忘れてしまいそうだ。深く考えれば、あまり深入りするなという彼の作戦なのかもしれない。
けれど、遊びに来た訳ではないはず。実際には、何と切り出そうか、ずっと悩んでいたのは間違いない。いずれにしても、相手を怒らせてはいけないだろう。
さっきとはうってかわり楽しそうに微笑むが、薫もそばに寄り添っており、驚かすのは最低の仕業となる。少しだけ、不安を抱きながら彼の話を真剣に聞いていた。
何気なく整然としたデスクを見ると、蛍光灯の脇に一冊の古本と共に、小さなフォトスタンドが飾られている。写真には幼子を抱きかかえながら、満面の笑みを浮かべる若い女性が映っていた。
ついさっき、薫と通りすがりに出会った光景、母娘のすべり台や保育園バスなどを思い出して、目が留まってしまう。
「あの親子はどなたですか? 」
黙ってはいられず、俺はさりげなく聞いていた。
根本さんは口をつぐんだまま、本棚からアルバムを取り出して見せてくる。笑顔が一瞬にして曇った。彼は何か隠していることがあるのだろうか。薫もまた彼に不安げな目を向けた。
写真に映るのは根本さんご夫妻と若い男女で、みんな幼子と仲良く笑っている。皆の素敵な笑顔が印象的だ。背景には四季折々のけやき並木が色を添える一方で、お子さんの姿が赤ん坊から保育園の帽子を被る幼児に変わっているのに気づく。写真に目を奪われていると、彼は深呼吸してから話し始めた。
「ああ……。残念だけど、我が家に生きているのはもう僕だけだ。家内は夢遊人となり、心の時計は止まって動いてないのや」
突然、教授は涙を浮かべて胸がつまったのか、言葉が一旦途切れてしまう。奥さまは身内となる三人のおくりびとになってから、大切な思い出のアルバムを頑として遠ざける別人となってしまったそうだ。
医師の立場からして、アルツハイマーや健忘症の病気ではないという。彼女は自らの時計を止めており、過去の楽しかったひとときを振り返るのがつらくなり、ただ心を閉ざしているだけだとも言ってくる。
このところ、虚ろげなまなざしで、女性は一年を通じて春ばかり眺める迷い人になっているらしい。
若い男女は実の娘と夫、幼子は孫。根本さんもつらい過去を思い出したのか、寂しけな表情を浮かべながら、言葉を絞り出すように話してきた。奥さまは毎日必要なことしか口をきかずに過ごしているそうだ。あまりの衝撃な告白を聞くにつれ、なお一層真相が知りたくなってしまう。
「何があったのですか? よかったら、教えてください」
「ずっと黙っていて悪かった。君たちなら、もう隠す必要もないやろ」
根本さんは、自分の元カノが書いた小説に隠された秘密を探るために、数年前に十和里山の村を訪れたことを詳しく話してくれた。その小説は、彼らの関係にまつわるものだったのだ。
ここまで関心を寄せたのは、けっして好奇心ではない。俺は、薫の病気のことは言えなかったけれど、彼と何か共感できるものがあった。
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