第十三幕 迷宮の館

  

 昼下がりに、バターの香るメロンパンを食べてから、根本さんの家を訪ねてゆく。目的は先日の続きを聞きたくなったからだ。


 もちろん、薫も一緒だ。


 空を見上げれば、神様の思し召しとしか言いようのない快晴となっている。そろそろ梅雨明けを迎えて、長くて暑い季節の便りが手元に届いてくる。

 根本さんとの言い争いを懸念すると、今日に限って、薫には内緒で行くことも考えていた。万が一だとしても、彼女にはあまり醜態を晒したくない。


 ところが、アボカドグリーンの夏色ワンピースの可愛い姿を目前にすると、そうもいかなくなってしまう。まして、彼女は置いてけぼりなど許してくれないだろう。

 愛用のベレー帽をウエストポーチのなかに潜めて、小さな花の髪飾りを自慢げに見せながら、爽やかな風に黒髪をなびかせていた。


 街中で夏の風に誘われるように耳を澄ますと、セミの初鳴きが響いてくる。街路樹の道すがら、珍しい光景に出くわした。


 保育士さんに押されるお散歩バスに鉢合わせした。バスといっても、大きなカートに数人の園児が乗って移動していた。ほのぼのとする光景と一緒に、意外な場面も目に入ってくる。

 初めて母親の手を離れたお散歩なのだろうか。中には泣きだす幼子も目に入る。薫と直ぐに道を譲り、子供たちの可愛らしさに手を振りながら見惚れていた。けれど、自分の幼い頃の同じ苦い爪跡を呼び起こしてしまう。俺は泣き虫だったのだ。


 近くの噴水公園では、子供たちが長い滑り台を日向ぼっこの道具にしながら、母親に見守られて仲良く遊んでいた。幼子を抱き締める、彼女たちの優しい姿に立ち止まると、背の高いけやきの合間から、一軒の瀟洒な家が姿を現した。

 住所と立派な屋敷からして、根本さんの家だろうか……。


 都会の喧騒を離れて、甘い花の香り、心地よい鳥のさえずり、夏の雲にささやく葉擦れの音色が届いている。赤い三角屋根を見上げると、大きな丸窓があり、木漏れ日がリビングに優しいひだまりを作る夢の住まいにも思えてしまう。

 自然の息づかいが近くに感じられ、ノスタルジックな安らぎで身を清めてくれる。独自の時間を刻む空間に暫し紛れ込んだような気持ちになっていた。

 

 彼がこんな絵本の舞台に登場してくるユートピアの家に住んでいるかと思うと、羨ましくて仕方がない。訪問先が分かり、ほっと安堵したのか、今日、出かける間際に母親から言われたことを思い出す。


「人の家に初めてお邪魔する時には手土産を持っていけ。手ぶらでは失礼やろ」


 彼女は、そう言いながら菓子折りを持たせてくれた。ご年配の人から好まれるように一口サイズの羊羹を選んでくれたらしい。


 夫婦は似た者同士と聞いているが、我が家に関してはあてはまらない。母さんはけっこう人に気遣いする細やかな性格で、逆に父さんは浮世離れしており仕事以外に無頓着なタイプである。

 俺は親子としてふたりを足して2で割ったような性格となっていた。それは、彼らと血がつながる運命の定めなのかもしれない。



 根本さんは「命をつむぐ時計」という小説の下巻を探しているらしい。彼はその小説が自分の元カノが書いたものだと言っていた。俺はその小説に興味を持ち、薫と一緒に彼の家に招かれていた。




 ――――ところが、根本邸の庭に一歩足を踏み入れると、同じ街とは思えない不思議な雰囲気が漂ってきた。


 心地よいざわめきは嘘の如くシーンと静まり、外扉がギィーと恐ろしい重低音を立てて開く。ずっしりと響き渡る音により、突然砂埃が舞い上がり、コウモリのような黒い翼がパタパタと羽音を残して飛び交う。


 東京の郊外にも棲み着いていると聞いてたけど、まさかこんなところで出会うとは驚きだ。しかも、まだ夜じゃなくて真っ昼間だ。もしかしたら、地下から鎮魂歌の音色が届くようにも思えて、不協和音の感情が沸き起こり息が止まりそうになった。


 実に不思議なところだ。正直言って怖くなる。


「なんか、恐ろしくない。まるで、映画の祈り歌が届くような屋敷や」


 薫が震える声で呟いた。こんな雰囲気が苦手なのかもしれない。まるで畏怖の念を感じさせるような目をしている。


 けっこう広い屋敷だけど、急いで家の中に逃げ込みたくなり玄関のベルを鳴らす。奥さまらしき物静かな女性が待っており、家の中へ迎えてもらう。けど、どことなく暗い迷宮の館に上がり込んだ気持ちになった。


 思わず、あたりを見回してみる。


 俺は胸が締め付けられるような不安を覚えてしまう。この家は何かがおかしい。彼女も同じように顔色を変えていた。俺の手を握り締めてきた。彼女を励ますように笑ってみせたけど、心から笑えないことは彼女も分かっていただろう。


 長い渡り廊下には盆提灯のような揺らめく明かりだけが寂し気にひとつ灯されている。恐る恐る歩く無機質な空間には枯れた葉のドライフラワーが影を落としているのに気づく。薫と茫然となり一瞬立ちすくむ。


 心の片隅ではこのまま帰ってしまいたいと思っていた。でも、何気なく振り返ると虚ろげな女性の声がかけられた。


 ああ……、もう逃げられない。


「お客さまなんて何年ぶりかしら、嬉しくなっちゃう。さあ、早くあがって。主人も楽しみにしていたの」


 彼女からリビングに通されて、さらにビックリしてゆく。耳に届いてくる女性の声も心ここにあらずという感じに思えていた。


 大きな部屋には、グランドピアノが埃をかぶったまま置かれているだけで、家族団欒だんらんの場となるソファーやテレビは見あたらない。

 他に目につくのは、骨董品に近い黒電話である。あえて家族たちの集う生活感を消したいのか、思い出の欠片もないような寂しい雰囲気となっていた。


 一方で根本さんは、書斎を片付けているらしい。おもてなしの紅茶を飲みながら、彼が現れるのをただひたすら待っていた。また、女性が言葉をかけてくる。


「ケヤキの寿命は千年以上と言われてるの。ここのは花を咲かせてからまだ三年くらいかしら。もう、私たちは何度も観られないでしょうけど」


 彼女の怪しげな話を聞くなり、複雑な気持ちとなったが、また新しい物語に出会う予感もしてくる。いずれにしても、この雰囲気は不思議なものだ。

 暫しすると、根本さんが決まり悪るそうに苦笑しながら声をかけてきた。


「いやあ、遅くなってごめんごめん。さあ、書斎の方へどうぞお入りください」


 やはり奥さまは同席しないらしい。慌てる男の素振りからは、彼女を俺たちから遠ざけているようにも思えてくる。喫茶店での話好きな面影は、どこかに消えてしまったかのようだ。何だか、不安がこみ上げてきた。

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