第十二幕 線香花火
今日は七夕だ。俺たちにとっては、一年に一度の大切な夜となる。ところが、薫は日中にかかりつけの病院で定期検査をしなくてはいけない。
幸いなことに異常は見られなかった。ふたりでほっと安堵したあと、街のランドマークとなるビルの屋上から夕焼けを見たくなる。
エレベーターのドアが開くと、素晴らしい光景が広がっていた。ここは、俺たちしか知らない秘密基地だ。
西の夏空には茜色の雲が浮かび、お日さまが火のように輝いている。きらめく光がビルの窓に反射して、まるで火花を散らすようだった。俺たちは息をのむ。こんな美しい景色を見るのは初めてだ。思わず、薫を抱き寄せて、耳元でささやいてゆく。
「一緒に見られて嬉しいよ。薫は、俺の太陽だから」
そんな野暮ったい言葉にもかかわらず、薫
は頬を赤らめて、俺の胸に顔を埋めてきた。俺たちは太陽が沈むまで抱き合ってしまう。
「わたしも。勇希と一緒なら幸せ」
抱擁する間にも空の色は刻々と変わり、ピンクや紫や青に染まっていった。最後に太陽が地平線に触れる寸前、キスをした。それはまるでカウントダウンの戯れのようだった。俺たちの四年目の終わり、そして五年目の始まりを祝うかのように……。
帰りがけに親水公園に立ち寄ると、せせらぎには笹舟が浮かんでいる。みずすましが夏の黄昏の余韻を楽しんでいるようにゆっくりと泳いでいた。こんな穏やかな気持ちになれるのは久しぶりだ。薫とポケットから短冊を取り出して願いごとをしたためてゆく。
「薫とずっと一緒にいたい」と俺は書いて、「勇希の幸せを祈っています」と薫も書いてくれた。短冊を流し、互いの目を見つめた。
ふたりの心は言葉以上に通じ合っている。あとは、この時間が終わらないようにと願うばかりだ。せせらぎの脇を歩きつつ、この一年の出来事を話した。俺は学業で忙しく、薫は病気で苦労している。それでも、ふたりはお互いを応援し合っている。離れていても、心はつながっていると感じた。
「ねえ、来年はどうなるの?」
彼女が聞いてきた。
「どうなるって?」
俺は訊ね返していた。
「私たち、七夕にまた会えるのかしら?」
薫は不安そうに言った。彼女の手を握りしめ、笑顔で答えてゆく。
「もちろんだよ。約束だろう?」
「でも、もしも何かあったら……」
「何も心配しなくていいよ。俺たちは運命のふたりだから」
俺はそう言って、もう一度キスをした。薫は驚いて赤くなったが、嬉しそうに微笑み返してくる。空にはお月さまが顔を覗かせて、ふたりの愛を祝福しているかのようだ。俺たちは一旦解散したが、我が家でもう一度、童心に戻って遊ぶ約束をした。
「薫、おお、やっと来たか。でも、疲れていないか?」
彼女に少しだけ、待ちぼうけを食らっていた。今日は一日中慌ただしい時間を過ごしたので、仕方がないだろう。彼女の病気を心配して、俺の目には少し緊張が見え隠れしていた。けれど、それは無用の心配のようだ。
薫は朝顔の模様があしらわれた白い浴衣に身を包み、髪をおだんごにまとめて、上機嫌の様子だった。そして、カランコロンと下駄の音を響かせながら、楽しげな笑みを浮かべて現れた。
「もう、病気なんかへっちゃら。怖くないもん。どこかに飛んで行ったみたい。あっ、花火。久しぶりや」
彼女が驚くのも無理はない。ふたりで花火をするのは初めてだった。
「そうだよ。だからこそ、今日は特別な日なんだ。天の川と花火を一緒に見ながら、空中散歩する気分なんて、すてきだろう」
俺は薫を気にかけながら、口にする言葉を選んでいた。自分の気持ちを花火に託して、彼女に伝えたかったのだ。こんなこと、今どきの若者にしては、ダサいと言われても一向に構わない。なぜなら、もともと恋のセンスなど、どこにも持ち合わせてはいないのだから。
「花火は大好きや。でも、都会の街なかで大丈夫なの?」
薫は心配そうに返事をしてきた。
でも、我が家には、ささやかな石畳の庭がある。打ち上げ花火さえしなければ、近所にも迷惑をかけないで済む。
幼い頃の夏休みには、母さんが用意してくれた花火で近所の女の子と庭に集まり、よく遊んだ覚えがある。遠い昔に、彼女から言われたことを思い出す。
うちの大切な花を燃やさないように遊んでな……。
まず、俺はろう石を一本渡してゆく。薫はきょとんとしたまなざしで、俺を見つめてくる。先に見本を示してあげる。からだをコンパスの軸のようにして前かがみとなり、三百六十度の回転して円を描いていた。
「こうして、円を描くんだ。やってごらん。この輪の中で、花火をやれば良い」
「すごく上手。わたしにもやらせて」
「うまいうまい」
円を描くのは、なかなか難しいものだ。けれど、薫も予想以上にうまく描けた。ふたりの輪は一部だけ重なって、まるでハートの形になっている。やはり、彼女とは息が合っていた。
続いて、「まだ覗いてはいけないよ」と伝えて、花火が入る箱を渡してゆく。
「ねぇ、どんな花火を用意したの?」
彼女は興味津々に尋ねてくる。
「それはまだ秘密だよ。暗くなってからのお楽しみさ。さあ、手伝ってくれよ」
「これって、私たちのパンドラの箱みたい」
俺は彼女が幸せになることを願っていた。まもなく、夜空に浮かぶ満月の光を残して暗くなってゆく。
「薫、もう良いだろう。箱の中を、そっと開けてごらん」
「あっ、線香花火。はやく、やりたい」
薫は目を輝かせて言ってきた。
彼女も自分と同じくらい線香花火が好きだったのだ。箱の中には細長い和紙に火薬を包み、こよりによって作られた色とりどりの花火が入っていた。
「どっちが、長持ちさせるか競争だよ」
花火は、俺の五感に訴えかけてくる。まるで、それは人の一生を縮めたようなものだ。先端に火薬が詰まっており、少し膨らんだところがある。
勝者は戦う前から決まっていた。彼女の花火だけ、その膨らみのすぐ上、少しくびれた部分をこっそりとひねっておく。これは、長持ちさせる裏ワザだった。
線香花火は、ほんのひとときだけ美しく輝くもの。その一瞬を逃さないように、目を見開いて見つめている。薫もこよりの先に火をつけて、動かさないように真剣なまなざしを向けていた。
最初、花火は細かく震えながら燃えて、ジリジリと牡丹の花のような玉が形作られてゆく。音は次第にかすかになり、色はオレンジから紫へと変化し、形が枝を垂れる柳のように揺れる。
やがてパチパチと音をたて、松の葉のように細かく枝分かれした大きな火花があがる。最後に菊の花びらのような小さな火花が静かに空中で舞い散り、チリッという音と共に消えてしまう。
儚くも美しい火を心に灯してくれ、彼女との夏の良き思い出となる。騒がしい音も刺激的な匂いもなく、俺たちの静かな夜を、素朴で心地よい楽園にしてきた。風に吹かれる光は、薫の黒髪を留める飾りを輝かせている。
俺は手を伸ばして、その髪飾りに触れたくなる。線香花火に戯れる浴衣姿の薫をいつまでも眺めていたかった。
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