第十五幕 告白 ①

 

 僕はこの四十年間、白金台の研究室に来るたびに、窓から椎の木を眺めるのが日課となっていた。それは、南里大学の裏手にある。


 いつしか、一羽のふくろうが樹木の幹にある洞窟を我が家にして棲みついた。ふくろうのシルエットはまるくて、二頭身の短足に見え、その顔のわりに大きな目がとても可愛らしかった。そんな彼を心の友にした。彼は暗いところを好むので、僕の夜勤にも付き合ってくれた。


 ところが、東京で一番の大木と聞いたが、落雷が直撃し、木の幹が焼け焦げて瀕死の状態になったという。幸いにも樹木医による外科手術が行われた。翌年には芽をふき、生き返ったらしい。


 雷の日に彼が運よく不在だったため、難を逃れた。いつかは子どもを連れて戻ってくることを、人知れず願っていた。『終の棲家になれば良い』とすら思っていた。


 僕は根本康博という医学者で、国際学会からも表彰を受けたことがある。けれど、その樹木医の偉大さに関心を寄せて、ありがとうとエールを送り続けてきた。

 おかげで夏の日差しが強くても、木陰となり研究は捗っていた。


 これまで、南里大学の医学者として白血病の最先端治療に半世紀近くも取り組み、数々の功績を残している。そのおかげで教授という地位も手に入れた。


 一方では美しく上品、家柄も良い女性と結婚し、可愛い娘が生まれ、還暦を迎える頃には孫の優奈ゆうなから「じいじ」と慕われ、何不自由のない人生を謳歌してきた。

 まさに、地位と名誉を通じて獲得した至福の喜び、我が世の春だ。これは永遠に続くものだと信じていたに間違いないだろう。


 

 しかしながら、おぞましい日を境にして、僕の人生はあたかも別世界のように暗闇で覆われ、真っ逆さまに断崖絶壁から突き落とされたごとく変わってゆく。


 思い起こせば、この五年間、重い十字架を背負うように生きてきた。



 これまでの人生で最悪の日、「禍日(まがつび)」は、我が家のリビングにある黒電話から鳴り響く異様な音で幕を開けた。この電話は普段使わないもので、これまで一度も鳴ったことがなかった。その音は、まるで不吉な予感を呼び起こすかのようだった。


 ジリリリーン……。書斎で小説を読んでいた僕は驚いた。ここ数年、鳴ったことのない黒電話から静寂を破る音が聞こえてきたからだ。


 耳をつんざくうるさい音だ!


 多分また、第三者の個人情報を勝手に取り扱う無遠慮な悪戯だろう。一瞬、電話が切れるまで放っておこうかと思った。


 無意識に外を眺めると、白い彼岸花が手を広げるように咲いていることに気づく。赤い花はよく見かけるが、初めて見る儚くも美しい景色に目を奪われていた。

 けれど、胸に忍び寄る黒い雲を感じてやな胸騒ぎがする。受話器を上げると、緊張みなぎる声が耳に届いてくる。


優奈ゆうなちゃんが、大変なんです」


 突然に孫娘が保育園で倒れて、救急車で運ばれたという。


 ――信じられない! 今朝、孫娘の優奈が元気に手を振り保育園に向かっていたばかりなのに……。電話の主は園長先生だ。嘘は言わないだろう。直ぐに病院の方に来てほしいという。身支度もそこそこにして車に飛び乗って駆けつける。


 医学の研究に没頭するあまり、家族との時間を犠牲にしてしまった。妻や娘との関係もぎくしゃくしていた時期があった。だからこそ、孫娘は僕にとってかけがえのない存在だった。彼女は僕の人生の光だ。


 慌てて病院にたどり着くと、優奈は既に集中治療室へ運ばれていた。応急措置が終わるのを外で待ち構えた。


 決して、自分が医者とはいえども、越権行為などする訳がない。優奈は三歳になるまで元気で大病をしたことがなかった。保育園でも動物たちと元気に遊ぶのが好きな少女である。特にウサギとニワトリが大の仲良しだったらしい。


 幸いにも、園長は優奈を心配して病院に駆けつけてくれていた。待っている間に、彼から事情を詳しく聞くことができた。


 お昼の時間が終わっても、教室に優奈の姿が見えないため探しに行くと、ウサギ小屋の前で血を吐いたまま倒れていたという。


 しかも、最近になり、彼女の可愛がっていたウサギとニワトリが立て続けに亡くなり、「野良猫のいたずらや」と寂しげに叫んで涙を流していたと教えてくれた。

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